46 恋愛スピリッツ (3)
「私が話したいのは、ずいぶん昔の話です。それも私たちが小学生だったころの。その話をしても?」
「ああ、俺は構わない」
「あの、なんで、私たちだったんでしょうか?」
私はいった。
「それは、どういう意味?」
「…その、先輩はどうして、私たちへのいじめに関わったんですか? どうして…」
それなのにどうして姉を好きになったのか。そこまでいうことはできなかった。
先輩は俯いた。暗い影が、彼の顔を覆う。
「…それについては、俺が悪かった。寺田には、そういうしかない」
「それじゃ、やっぱり先輩は…」
「そうや。寺田が気づいてたかは知らんけど、俺は寺田と同じ小学校にいてて、寺田と、そして彩香さんへのいじめに関わってた。それは、紛れもない事実や」
「失礼かもしれませんが、私にはあのころの先輩の記憶がありません」
「記憶なんてそういうもんやろ。ましてや、名も知らない上級生なんて、誰が憶えてる?」
問われて、私はなにもいえなかった。
「ただ、俺には、記憶がある。川や、冬の校庭で、二人にひどいことをした。彩香さんから、それはきいたやろ?」
きかれて、私は頷いた。
「…俺のこと、憎いやろな」
先輩の言葉に、私は頷くことも、首を横に振って否定することもできなかった。ただ、俯くことしかできなかった。
私たちは、互いに暗い顔で、言葉もなく、それぞれのカップに注がれたコーヒーとカフェオレの渦を見ていた。しかし、それも長くは続かなかった。私が口を開いた。
「どうして、私たちをいじめたんです?」
「…理由は、ほとんどなかった。誰かが、彩香さんを気味悪いといった。それを、みんなが面白がった。いろんな人間の頭の中で、彩香さんの印象が固定されていった。ついには、みんなが気味悪いと思うような人なら、ちょっかいをかけてもいいだろうという悪意が生まれた。それが、いじめの始まりやったと思う。寺田は、彩香さんの妹やった。ただそれだけの理由で巻き添えを食った。…俺は、寺田たちになにか恨みがあるわけでもなく、流行の遊びでもするみたいに、いじめに加わった。理由なんて、ないに等しかった」
淡々と彼はいった。感情の揺らぎがないからか、言葉がすっと衝撃もなしに私の胸に突き刺さる。数秒の時間がたって、その言葉に痛みを憶える。
なんでこの人は、こんなに冷静にいえるんやろう。私にはあれだけ辛かったのに。
そんな疑問が頭の中を過る。彼を見つめる。眉根が、深く寄せられているのに気づく。過去を振り返る彼の目は、死人の目のようだ。艶やかで、瑞々しい彼には、とても似あわない。
後悔や罪悪感が彼を苛んでいるのか。淡々としているのは、そういう感情を必死で抑え込んでいるからなのか。
溶岩のようにどろどろして燃え立つ感情を抱きながら、私は彼の心情を推測する。好意的な解釈をしなければ、私の怒りと憎しみは暴発してしまいそうだった。
「…悪かった。申し訳ないと思っている。この言葉をいうのは、どう考えても、遅過ぎるけれど」
先輩はいう。まさにその通りだと私は思う。なにをどうしようと、遅過ぎた謝罪であることに変わりはないのだ。しかし、謝罪が早ければよかったのか。それも違う。そもそも、いじめの事実そのものがあってはならないことだった。謝罪をするくらいなら、なぜそんな行為をしたのか。行為に先立って、その行為をしたのちにきたるさまざまな悪影響をなぜ考慮できなかったのか。いじめの被害者の苦痛は、予見できないとでもいうのか。行為の前は気づかなかったとでもいうのか。そんな理由で、許されるとでも思っているのか。
激しい敵意と憎しみが、腹の底から込み上がってくるのを感じた。目の前の落ち着き払った先輩が、たまらなく憎く思えた。呪詛の言葉が舌の先で吐き出されるのを待っている。気を緩めば、言葉はすぐにでも空中に零れ出て、音を伴って先輩の鼓膜と意識に襲いかかるだろう。
なんで私たちはいじめられたんやろう。なんの落ち度があったんやろう。
それを考えると、涙が出そうになる。特段の理由はなかったと彼はいう。そうすると、特段の落ち度もなかったのだろう。だとすると、人の無情さが、理不尽さが、そして自分自身の哀れさが余計に悲しい。悲しさと怒りが涙を呼ぶ。
「なんでそんなことに関わったんよ。私らの痛みが、わからんかったとでもいうの?」
独り言のようにいった。憎しみ、怒り、悲しみが三等分になって、言葉に籠る。
先輩は項垂れた。
「…先輩がいじめに関わってたと、私はついこの前知りました。正直、どういう感情で先輩に向きあえばいいのか、わかりません。憎しみだったり、怒りだったり、悲しみだったり、あるいは…。とにかく、いろんな感情が入れ替わり立ち替わりやってきます。すいません、こんな状態がよくないってのはわかってます。ただ、自分でもどうしたらいいか…」
「いいさ。気にしなくていい。好きなように、話したらいい」
先輩の声は、やはり落ち着いている。なにか覚悟を決めたかのようだ。
「感謝します」
私はいった。カフェオレを口にする。周囲を気にする。ここからでは小さく見える緑のバスが四条大橋をのろのろと渡るのを見る。そうやって気分を無理にでも落ち着ける。
先輩も私につられて窓の外を見る。だが、彼が見るのは橋ではなく、むしろもっと遠くの八坂神社や円山公園のあたりだ。そこになにかあるのだろうか。
視線をずらす。気づくと、先輩の横顔を見つめている。あの美しい横顔は、変わっていない。
先輩が私の視線に気づき、正面を向く。今度は私がやや俯いて、わずかに視線を逸らした。私が再び顔を上げたとき、視線には、どんな感情も込めないように努めた。
「先輩はずっと、高校のころも、私がかつていじめた相手だと、わかっていたんですか?」
「ああ、寺田はまったく気づいてなかったけど」
「同じ小学校だったことも含め、昔のことを伏せておいたのは、気まずさを感じたから?」
「そうや。あえて昔のことを伝えて、波風を立てようとは思わなかった」
やはり、高校のころ、先輩はすべてを伏せて、私に接していたのだ。私はなにも気づかずに、先輩に好意を示していたということになる。




