45 恋愛スピリッツ (2)
店内に入る。窓の外には、京都東山の空がある。窓から見下ろせば、四条大橋と鴨川がある。四条木屋町を上がったところのビルの七階にあるカフェだ。
窓際の席に、先輩は座っていた。
昼前だから、店はさほど混雑していない。先輩の姿はすぐに見つけられた。いや、仮に混雑していたとしても、すぐに見つけたはずだ。あの美しい横顔は、すぐに見つけられる。
私は先輩の席に近づいた。窓の外を見ていた先輩が、私に気づく。
驚かれると思ったが、先輩は冷静だった。古い友人を見たように、微笑みかける。
「お久しぶり。そういえば、いいんかな?」
「お久しぶりです」
先輩の様子を見て、私も冷静に返答した。が、笑みを作る余裕はなかった。
不思議な瞬間だった。邂逅というほど運命的ではない。偶然ではないから、遭遇でもない。対峙という言葉が浮かんだが、命をかける決闘をするわけでもない。
「…お姉さんは?」
「姉のかわりに、私がきました」
私はそう返事した。
数日前、姉に頼みごとをした。姉のかわりに私を先輩と会わせてくれという、突拍子もない頼みとわかっていた。だが、決着をつけるためには、それが必要だった。直接会って、話をして、なんらかの決断をくださねばならない。まだ彼に執着するのか、それとも諦めるのか。私の心は、まだ揺れている。愛憎が激しくぶつかりあっている。姉は私の頼みに困惑を隠さなかった。だが、最終的には頼みをきき入れた。過去のことを思えば、私には彼と会って話す権利がある、と姉はいった。
「前もっていってくれればよかったのに」
先輩はいう。嫌味な感じはそれほどしない。
「驚かせるつもりは、ありませんでした。ただ、前もっていっても、変にお互い緊張して硬くなりそうで、それが嫌やったんです」
「確かに、いまは緊張よりも驚きに近い状態やな。彩香さんを待っていたら、寺田がきたなんて」
彩香さん、という言葉が、胸に刺さる。
「先輩は、緊張しているようにも驚いているようにも見えませんが」
先輩は、そうでもない、とかつてと同じように否定する。普段笑ってばかりいるから、感情は隠しやすいのだという。
「ところで、座りなよ。立ったままやと、辛くない?」
先輩はいった。私はその場に立ったままだった。失礼しますといい、席に座る。先輩と向かいあう。
記憶が蘇る。そういえば、あのころは一度も二人でカフェにいくことはなかった。賭けには、なぜか負け続けた。
先輩がメニューを差し出した。彼はすでにコーヒーを頼んでいた。私はカフェオレを頼んだ。
周囲の雑音が、やけに耳につく。同時に、私と先輩の沈黙が、ひどく胸に痛い。
「…寺田は、元気やったん?」
さりげなく、先輩はきいてきた。
「ええ、私は。先輩は、どうですか?」
「元気にしてるよ」
「高校を出てからそのあとどうしてるんですか?」
「普通に大学にいってる」
きけば、先輩の大学は、京都今出川にある私大だという。私の通う大学より、少し偏差値は上だ。
「大学は、楽しめてますか?」
「…どうやろ。楽しめてるといえば、そうやと思う。でも、親のお金や奨学金をもらってるのに、勉強に精を出してるわけやない。なんか、大学生活の過ごし方を間違えている気もしてる」
先輩は少し浮かない顔でいう。
先輩の口から親という言葉が出たとき、私の脳裏には、副島とその元恋人、つまり先輩の母親のことが過る。だが、あえてそのことを話す必要はなかったので、私は口を噤んだ。
またしても沈黙する。互いに、大事な話をいつ、どういう風に切り出そうか、考えている。視線をぶつけあい、瞳の中に映り込んだ互いの感情と思惑を読みとろうとする。どちらにも、恐れと躊躇いがある。だが、いつかは踏み込まなければならない。
私は息を吸い込んだ。二秒後に、息を吐く。恐れと躊躇いを力なきものにする。
「今日は、はっきりさせにきたんです」
「それは、なにについて?」
「いろんなことについて」
「それはまたえらい曖昧やな」
「すみません。でも、なにから話せばいいのかわからなくて…」
「いいさ、寺田が話したいことから、話せばいい」
落ち着いた、優しい声で、先輩はいった。
コーヒーとカフェオレが、テーブルの上に置かれた。カフェオレを口につける。カップを持つ手が、かすかに震える。




