44 恋愛スピリッツ (1)
秋の風に舞う木の葉が、鴨川に落ちた。
四条大橋を渡っていると、そんな光景が飛び込んできた。次の瞬間、さらに強い風が吹いて、川沿いに植わった木々の葉が飛ばされ、また鴨川に落ちてゆく。
秋は無情だ。数か月前には輝くような緑の色をして生を謳歌していた木の葉を、いともたやすく奪い去り、命を摘む。
橋を渡る人は、私以外誰も木の葉のことなど気にしない。人通りと車の通りが生む喧騒が、なにもかもをかき消していく。目と鼻の先で、小さな命が消えいくのを誰も気にしない。私もすぐに、木の葉のことを忘れてしまう。それもまた無情だ。
頭の中にあるのは、過去のこと。執着している、彼のことだ。
春と夏の境目にあるような日々を、いまも思い出す。あの日々の感覚、匂い、きいた音まで、思い出す。もう長袖の服を着ることはできない気温で、草木の緑は眩しく、常にそよ風が吹いていた。北校舎の三階、図書館横の空き教室は、淡い光と乾燥した埃っぽい匂いで満ちていた。
文化祭の委員会は、その空き教室でいつも会議を行っていた。
燦々とした光の中、私は隣に座る彼の横顔を見ていた。彼の横顔は美しかった。真面目にききいっているのか、退屈をしているのか、それらが読み取れない謎めいた表情。私は彼の横顔に惹きつけられ、つい彼を凝視する。長い睫の下の瞳は、深みある琥珀色だ。
彼が私の視線に気づいて、私に向く。謎めいた表情が崩れ、微笑みが現れる。
「なにしてんの?」
彼はきく。なにをするもなにも、私は彼に見とれていただけだ。だが、そうとはいえず、ごまかしをいう。
「いや、その、すごい真面目にきいてはるなって思って」
すると彼は、そうでもない、と否定する。真面目にききはするが、退屈だという。
教壇では、文化祭委員長が今年の文化祭の注意事項などを各学年各組から選ばれた委員たちに説明している。事務的で単調な語り口は、退屈極まりない。
「早く終わらへんかな、この会議」
私は呟く。
「そうやね。でも、早く終わったら終わったで、拍子抜けするけどな。時間だけが余ってしまう」
「そうですか? 私は時間が余ると嬉しいですよ。近くのカフェでお茶できますし」
「ふうん、なんかお洒落やな」
「先輩もどうです? もしこの会議が早く終わったら、いきません? 私は大歓迎ですけど」
私が誘うと、彼は微笑んだ。視線と思惑が絡みあう。
「…なら、賭けにしよか。この会議が時間通りあと一時間で終われば、寺田の提案に乗る」
「終わらないと、どうなるんです?」
「長々と会議が続いて、そのあと俺は勉強しないと。受験生やから」
彼はいった。
会議が時間通りに終わるのか、判断がつかなかった。そのときの議題の多さや教員の横槍が入るかどうかで終了時間は大きく変わった。
ある意味、いい賭けだった。退屈さは吹き飛び、あわよくば先輩と二人でお茶ができるのだ。
私は、その賭けに乗った。
時刻は午後四時四十分だった。時間は流れゆく。会議が終わったのは、午後六時五十分だった。怖れていた教師の横槍が入った。出しものの内容が被っている組が複数あると言及があり、その調整をしなければならなくなった。いまさら出しものの内容を変えたくない組が難色を示し、会議は延長に延長を重ねた。私は賭けに負けた。
陽はほぼ沈み、薄闇が校舎を包んでいる。空気が少しだけひんやりとしている。
彼と一緒に、校門まで自転車を押して歩いた。校門を出れば、彼は右に、私は左にいく。
「残念やったな」
彼はいう。
「あの先生に、いつか必ずこの恨みをぶつけます」
私がいうと、彼は笑う。
「じゃあな。また、会議のときに賭けをしよう。あれはあれで、楽しいやろ」
そういって笑いかけたあと、彼は颯爽と自転車を漕ぎ出し、やがて視界から消えた。
私は地団駄を踏んだ。帰り道、彼のことばかりを考えていた。
あの美しい横顔。そして負けに終わった賭け。
初恋の始まりは、そんな些細なものだった。




