42 素直 (2)
タオルで体を拭き、服を着て、洗面脱衣室を出た。リビングに向かう。
リビングには、母親だけがいた。テーブルに座り、上半身は突っ伏している。顔だけテレビに向いている。
「お母さん、行儀悪い」
私は母にそういった。姉の仕草とそっくりなのが、嫌だった。もっとも、姉が母を真似たというのが正確なのだが。
母は私を無言で見て、無言のままで上半身を起こした。伸びをして、顔を歪める。それから、言葉を吐く。
「まさか紗香に叱られるとは」
「その仕草、お姉ちゃんそっくりやねんけど」
「さすが私の娘やな。ちゃんと遺伝してんねや」
「行儀悪いことこの上ないわ」
母がおどけていうのに対し、私は憎々しげにいう。いまなら姉に関することすべてを憎悪できる気がしていた。
「…みっともない」
母に姉を重ねながら、きこえるかきこえないかくらいの声量で、憎しみを込めていう。
テレビは、能天気で安っぽい恋愛ドラマを垂れ流している。ハッピーエンドへと強制的に誘導されていく、若い男女の姿が映り込んでいる。それも私の気に障る。
「ねえ、紗佳」
母に振り向く。母が腕を組んで、難しい顔で私を見ていた。
「なに?」
「…あんた、お姉ちゃんとなにがあったん?」
母がきく。おどけた様子ではない。
「なにがあったって、どうしてそんなこときくんよ?」
「だって、今日のあんた、えらい不細工やから」
母の言葉に、私はどきりとする。
「ちょっと、ちょっと、娘に向かっていきなり不細工ってなんなんよ?」
「いや、実際そうやん。えらいぶすっとしてて、刺々しいし。…あんたも私の娘なんやから、苛立ってるのなんかすぐわかるんや」
母がいう不細工とは、怒りや苛立ちに満ちた顔や様子のことを指すようだ。
「どうせお姉ちゃんが原因なんやろ?」
「なんでお母さんはそう思うんよ?」
「そら、彩香の様子見てたらわかるわ。あんたのことを怖がってる風やったし」
「別になんかあったわけやない」
私は嘘をついた。悪意があるわけではなく、親にあれこれ打ち明けるのが嫌だったのだ。
「あっ、そう。なら、紗香はなににいらいらしてたんよ?」
「いらいらしてたつもりなんてない。お母さんがそう見えただけちゃうか?」
そう私は白を切り、母の追求から逃れようとする。
「ふうん。…まあ、ええわ。なんにせよ、あんたの瞬間湯沸かし器みたいな性格、ちょっとは気をつけや。お姉ちゃん、えらい怯えたようになってたし」
母はこれ以上の詮索こそしなかったが、小言じみたことを私にいう。
なにが瞬間湯沸かし器だ、と私は思う。そういう母だって、怒りの沸点は相当に低いくせに、よく人にいえたものだ。
「…ほんと、お母さんはお姉ちゃんに甘いよな」
目には目を、小言には小言を。ほぼ条件反射的に、私は小言を返していた。
母の片方の眉が一瞬吊り上がるが、すぐにもとの暢気な顔に戻った。
「そんなに彩香を甘やかしてるつもりはないけどな」
「そう? 私にはそう見えへんけど。そうでなかったら、はよ働けとか、学校いけとか、いつまでも家でぐうたらしてるなとか、もっと厳しくしてるはずや。でも、お母さん、お姉ちゃんになんもいわんやん」
つい、母を責めるような口調になる。
「彩香も、いつまでもいまのままでおれるわけがない。誰にいわれなくても、本人はわかってる。私はそれでええと思う」
「なんでよ? 高校も半ば幽霊みたいな状態で出て、大学もいかんと、ごくたまにバイトにいくような生き方が、なんでええっていえるんよ?」
母の言葉に私は噛みついた。すると母は、かっと目を見開き、いう。
「若いうちの何年かなんて、好きにさせたらええねん。長い人生で見たら、大学にいく年月がなんやっていうのよ。そんなもん、あとからいくらでも取り返しがつくわ」
苛立ちに火がつき始め、その証拠に髪を乱暴にかきながら、母はいった。
私は無言でいたが、納得がいかない顔をして、母を睨んだ。
私の様子を見て、母はさらにいう。
「人間みんなあんたと同じと違うんや。ましてや、大学いって、社会出て、働いて、なんていう生き方が必ず正しいってわけでもない。あんたにはそれが正しくても、彩香は違う。それだけや。そのことを、紗香は許容しないと」
苛立ちは混じりつつも、母はそのように私を叱り、諭した。
私はなにもいい返せなくなった。なにかいえば、自分の狭量さをより曝け出すことになるからだ。
「ああもう、あんたのそのお堅いところは誰に似たんやろか? お父さんの真面目さを、変な風に受け継いだのかもしれへんな」
母はそういって嘆息する。
お堅い性格で悪かったな、と心の中で悪態をつく。
憮然とした顔のままで私がいると、母は呆れたように流し目で私を見つつ、こういうのだった。
「…まあ、あんたがそういうぶすっとした顔のままでおるなら、ずっとそうしてればいい。なにが原因なのか私にはわからへんけども、それでもええわ。あんたが損するだけの話やから」
乾いていて、突き放すような口調だった。いきなり冷たい水を浴びせられたような気持ちになる。誰かから見放されて、孤独に沈んだときに心臓が縮む瞬間との相似性を感じ取る。私が嫌いな感覚だ。
そして母も私も、言葉を喪失する。言葉を探すかわりに、私は考える。姉に話せばいいのだろう。憎しみをぶつければいいのか。それとも、偽りの和解を持ちかければいいのか。
不穏な空気の中で、私と母は長いこと黙っていた。母は私の反応を窺っている。私は、これからのことを考えている。




