41 素直 (1)
つきつけられた条件。先輩を忘れろ。過去の因縁を断ち切れ。本音で諒と向きあえ。
まっとうな条件だと私は思った。そうとわかっていながら、私はその条件について逡巡している。理由は明白だった。私はいまだ先輩に執着している。
諦めろと他人からいわれて、簡単に諦めるほど、ものわかりのいい人間ではないのだ。むしろそういわれればいわれるほど、心は捻くれて、反発をしてしまう。欲することのなにが悪いというのだ。それもいまに始まった話ではない、ずっと前から続いていた話だ。
迫りくる冬を思いながら、冷たさを増す秋風を身に受け、家路を急ぐ。丘の上から振り返れば、闇に沈んだ平野に無数の建築や車の灯りが浮かぶ。郊外と呼ばれる街の、夜の顔。平野を走る国道から車の音がかすかにきこえる。
原付を引きずり、駐車場に置く。リビングから外に零れている灯りを確認しながら、家の中に入る。台所からきこえる、母のおかえりという声。
「ただいま」
素っ気なく私はいい、一度リビングに入る。
姉もリビングにいた。三角座りをして、夜九時からのニュースを父と一緒に見ている。父もまた私を見て、おかえりという。私は母と同じような調子で、ただいまと返す。姉は私の姿を認めるが、なにもいわない。
一瞬だけ、覗くように姉は見た。姉の瞳が揺れているのがわかった。怯えた子どものそれに似ていた。恐怖と戦きが、姉の中にある。姉は私を恐れ、私に怯えている。昨日の川での出来事が、強烈に焼きついているのだろう。だから姉は私に声をかけない。私を直視しようとしない。私と向きあうことを、姉は怖れている。
蔑みの視線を返す。強烈な憎しみと敵意を体から発散させる。そのとき姉は私から目を逸らしていて、私の憎悪に気づかない。
「紗香、ご飯は?」
台所に立ち、夕飯の片づけをしていた母がいう。
「いらへん。もう食べてきた」
「えっ、あんたの分、取っておいたんやけど」
母の視線が、食卓の上に向く。椎茸と人参がふんだんに入った炊き込みご飯、アサリの入った味噌汁、焼き豚とサラダ。私の分の料理が、置かれてあった。
「ごめん、明日の朝に回す」
「外で食べてくるなら、連絡してよ」
「ごめん」
母の注意に、私はそれしかいえなかった。
そもそも私は夕飯を食べていない。食べる気がなかった。正確には、食べるどころの心情ではなかったのだ。
私の前に現れた諸事情が、私の心をぐしゃぐしゃに引っかき回す。怒り、戸惑い、悩み、焦りと不安、さまざまな感情が荒天の波のように激しく、ほとんど絶え間なしに私の心にのしかかってくる。
そんな状態のせいか、平穏以外のなにものでもないこのリビングの雰囲気に、私は居心地の悪さを感じる。母はせっせと夕飯の片づけをし、父は暢気にテレビを見る。そして、姉は私に背を向け、この平穏さの中に逃げ込もうとしている。その背中を蹴り飛ばしたくなる。その背中に母の作った料理を投げつけたくなる。この雰囲気をめちゃくちゃに壊してしまいたい。実行できるはずのない衝動と願望に、身悶える。
「お風呂先入るから」
そう宣言して、私はリビングを出た。二階の自分の部屋にいき、寝間着を取って、浴室のある一階にまた戻った。洗面脱衣室の引き戸を荒々しく閉める。脱衣籠に半ば叩きつけるように服を放り込む。かかり湯がわりにシャワーをさっと浴び、そのまま湯船に浸かる。目を閉じ、考えを整理する。
時間をかけて風呂から上がる。洗面台の鏡が、すぐに曇ってしまう。曇った鏡に、火照った私の姿がぼやけて映る。鏡を小指と掌の側面で吹いた。すっぴんの、特段美しいといえない私の顔が、映り込む。
不細工な顔してるなあ。
私は思った。顔そのものが不細工というより、目や表情の輝きの希薄さが原因のように思えた。心のあり方が醜いから、目も表情も輝きを失うのだ。




