4 茶の花 (2)
「えっ、なにしたん?」
「ちょっ、そんなんいわんでええねん」
歩を制止しようと、私は大きな声を出す。
だが、歩はいかにも楽しそうな表情で喋り出す。
「あの授業って、たまーにレポートが課題として出るのね。で、先生は紙二枚くらいで、政治思想家の思想をまとめなさいって指示を出したわけ。ところがですよ、この紗香様は、なにをどう勘違いしたのか、本が一冊できちゃうくらいに分厚いレポートを提出しちゃったの。私も、周りにいた人も、レポートを受け取る側の先生も、みんな唖然。なんでこの子だけこんなレポート作ったの、みたいな」
おかしさを堪え切れなくなったのか、歩は話しながらげらげらと笑っていた。佳奈も歩の喋りにつられて笑っていた。
私は対照的に恥ずかしさで顔を真っ赤にして、声を張り上げる。
「ちゃうねん、あれはちゃうんやで、佳奈」
「…なにがちゃうのかわからへん」
佳奈は呆れ笑いを浮かべる。
「せやから、私は先生が、思想家の思想をまとめろって指示したと思ったわけ」
「実際そうやったんやろ?」
「…ところが違うんだよねえ。その授業は毎回の授業ごとに取り上げる思想家が違うわけ。ロックを取り上げたかと思うと、ホッブスをやったり、マキャベリをやったりって具合にね」
「つまり、どういうこと?」
「要は、レポートをまとめるにも、思想家が複数いるわけよ。で、先生は一人の思想家の思想を、紙二枚でまとめなさいっていったわけ」
「あっ、わかった」
佳奈はそこで合点がいったようだった。
「紗香は思想家全員の思想をまとめようとしたんや」
「ご名答」
歩は妙に嬉しそうに人差し指をぴんと突き立て、いうのだった。
この女は、友人の失敗を面白おかしく語るのがとにかく楽しいらしい。なんて悪趣味な親友なんや、と私は思う。
「で、紗香は一人だけについて書けばいいものを、全員分書いちゃったわけですよ。しかも、一人の思想を紙二枚にまとめきれず、文量が増えに増えちゃって、挙句の果てが教授に叩きつけた分厚い紙の束。ご丁寧に引用や脚注をしっかりつけてね。講義室に入ってきた時の紗香の顔、化粧が雑だわ目が血走ってるだわ、なんかやつれてるだわで、笑いが止まらなかったね」
「…私むちゃくちゃ頑張ったのに」
あの時の失敗を思い返すと、ひどく悲しい気持ちになる。提出日の一週間前から足繁く図書館に通い、文献を山ほど机の上に積み重ね、読み漁り、パソコンに文字を打ち込んでいく。それでも作業が間に合わず、提出日の前夜はほとんど寝ないでレポートを完成させようと自室でぱちぱちキーボードを叩いていたのだ。あの努力がまるで無駄だと知った時の脱力感は、途方もなかった。しかも周囲の人間から苦笑いされるのだ。なんという悲しさだろう。
「ほんと紗香って真面目でしっかりしてるんだけど、おっちょこちょいなとこがあるんだよねえ。ちゃんと先生の指示をきいておけばよかったものを」
「指示を出したとき、なんか眠気で頭動いてなかってん」
「…そうだったとして、あとで誰かに確認取ればよかったんだよ」
私が抗弁すると、すかさず歩が反駁を入れてきた。なんだかんだ歩が三人の中で一番しっかり者で、頭の回転も速い。ただの話好きで陽気な女の子ではないのだ。
「むむむ…」
歩の指摘に、私はそう唸るしかなかった。
「まあ、そういうとこがあるから紗香は可愛らしいんやと思うよ。真面目でしっかりした性格だけやと、堅苦しくて息苦しくて、友達になんてなりづらいって」
佳奈はいった。快活な歩と真面目な私を繋ぐのは、いつだって佳奈である。いまのように、さりげなく人を持ち上げるのが佳奈は上手い。がつがつものをいいがちな私と歩を抑えてくれる。それが彼女の美点だ。
「にしても、その真面目さはどっからくるのかねえ。…そういや、紗香ってお姉ちゃんいたじゃん。お姉ちゃんも真面目なんだっけ?」
何気なく歩がきいてきた。
私は頭を捻る。あの姉は、真面目というのかなんというのか、答えづらい。
「…なんてゆうかなあ、真面目とかで括られへんな、私のお姉ちゃんは」
「けっこう気難しい感じの人?」
「…気難しいわけやないけど、なんやろ、とにかく難しい」
私がそう答えると、佳奈がくすりと笑った。
「なんなん、なにがどう難しいん?」
「それを語ると長くなるで。まずうちのお姉ちゃんの生活とかから語らなあかんようになる」
私がそういうと、歩が興味を示し始めた。
「紗香のお姉ちゃんって、なにしてる人? 大学生?」
「ニート」
私は間髪置かずに答えた。
その直截ぶりに歩と佳奈は飲み物を噴き出しそうになる。
「ちょっ、ニートて」
佳奈は苦笑いだ。
「だって事実なんやからしゃあないもん。…とりあえずアルバイトはしてるから、正確にはニートと違うかもしれんけど、でも正社員では決してない。あと、大学もいってない」
「そうなんだ。姉と妹で全然違うんだね」
「うん。で、いっつも家におるねん。そんで、私の歯ブラシからドライヤーまで、勝手に使わはる」
今朝の光景が頭の中に蘇る。苛立ちとはいわないが、あの光景を思い出すだけで姉に呆れる。
歩と佳奈は私の愚痴にくすくすと笑っている。
「お姉ちゃんあるあるやな。で、性格も傍若無人な感じ?」
「まあ、暴君とはまったく違うけど、でもわが道をゆくっていうか、確かに傍若無人といえばそうかもしれへん。でも、けっこう暗くて地味な印象やで」
私はなんだかんだいっても、姉と血の繋がった妹だ。近くで姉を見過ぎていて、姉が本当の他人からどう思われているのか、正確にはわからない。
いつもがさごそ、のらくらと家の中を歩き回る姉。リビングの絨毯に寝転がり、惰眠を貪る姿。家族にさえ、時折おどおどしたように喋る様子。こうした姿は、家族以外の人にはどう映るのだろう。鈍そうな女性だな、ぱっとしない暗い子だな、と思われるのだろうか。
長いストレートの黒髪に、私と同じようにやたらと輪郭が丸い顔。私より背が高いくせに、いつも猫背気味で、後姿がとにかく暗い姉。表情はしゃきっとした私に較べて幾分か柔らかで優しげな印象を与えるが、性格の暗さのせいでそれも上手く活きてはいない。
よく私やお母さんが、姉に対してもう少ししゃきっとしなさいと指摘する。姉の凄いところは、そういう私たちの指摘や小言を意にも介せず、自分の姿勢を貫いているところだ。それも何年も前から、もしくは生まれた時から。そういう意味で、姉はわが道をゆく性格なのだ。悪くいえば、人のいうことをまったくきかない人だ。
「仲いいの? 紗香とお姉さんは?」
歩はいう。
私はあえて冗談っぽく答える。
「仲悪いよ。だって、私の歯ブラシ勝手に使うんやで。それに、ずっと本やらマンガ読んで、半分引き籠りみたいな生活やし、仲なんて全然よくないよ」
本当は、あまり冗談にできるような関係ではなかった。苛立ちが薄い膜を張り、常にまとわりつくような関係性。だが、私は姉との関係を他人に語る時は、冗談めかして語る。
「歯ブラシの恨みが相当溜まってるんや」
佳奈が笑っていった。
歩も笑いつつ、そこに言葉を被せてくる。
「でも歯ブラシだけで仲悪くはならないでしょう?」
「そりゃあそうやで。他にも数えたらいっぱいあるもん、お姉ちゃんと仲良くしない理由なんて」
「たとえばなにがあるのよ?」
「せやなあ、私のお菓子勝手に食べたり、テレビのチャンネル勝手に変えたりとか、そんなんちゃう?」
「えー、そんなんで仲悪いん?」
佳奈が声を上げた。佳奈には年子の妹がいて、喧嘩は一切したことがないほど仲がいいという。その妹は、関東の国立大学に合格して家を出た。
「佳奈、あんたのとこは妹が家におらんから気にせえへんのかもしれんけど、うちは毎日おるんやで、厄介な姉が。そりゃあ、いらいらも溜まってくで」
「うちにも兄貴がいたからわからないでもないけどね」
歩はいった。歩も歳の近い兄が二人いるといっていた。彼女のさばさばした性格は、その兄たちに影響を受けたのだろう。
「でも、仲が悪いっていうわりに、よく漫画の貸し借りとかやってるんじゃないの?」
歩は快活にきいてきた。
「そりゃあ、漫画とか雑誌の貸し借りくらいならけっこうするよ。お姉ちゃんにあの漫画貸してっていったら、一冊でいいのに全巻私の部屋に持ってくるし。それで私もたまに雑誌を貸したりするけど」
「ほらあ、なんだかんだ仲いいじゃない」
「せやけどもさ、けっこう事務的やで。あれ貸して、これ貸してっていうだけ、みたいな」
「本当に仲悪かったら、そんなこともせえへんで」
佳奈はそう指摘する。確かに、本当に憎んでいる人間には、交流を持とうとすらしないだろう。だとしたら、私と姉の関係はなんなのか。私は姉が嫌いで、日々苛立っている。だが、交流はある。本当は姉を嫌っているわけではない、ということなのか。
「いいや、私ら姉妹は仲が悪いんや。ほんと、私とお姉ちゃんとはそりが合わへんねん」
「まーたそんなこといっちゃって。紗香は口では悪しざまにいうけど、ものの貸し借りをやっているあたり、ほんとはお姉ちゃんと仲良しなんだって」
「うん、きっとそうやわ。紗香は素直やないなあ」
まるでききわけのない子どもを扱うように、歩と佳奈は私をからかう。
「そんなんちゃうもん」
私は声を上げて反論するが、二人はきっとそうだといってまたからかう。私たちの大きな笑い声は、落ち着きを取り戻しつつあるカフェに喧しく響く。
表向きは仲が悪いといいつつ、実は仲が良いと周囲にアピールする。その一連の流れで笑いを呼び込む。私の常套手段だ。周囲は私たちの姉妹の仲をああだこうだいいながら、盛り上がる。私をからかって、可愛げがある女の子だと思ってくれる。私は内心それを冷ややかに見ている。姉妹の内実は、そんなに生温くはない。
むきになって喋る体を装いながら、会話につきあう。私の心は、冷え切っていく。
どうしようもない人間やな、と自分でも思う。醒め切った視線を持ってしまったのだ。冷徹で、利己的で、味気のない私。表面だけさばさばとした、可愛げのある女を演じている。自分の内面に嫌気を感じないわけでもない。だが、生まれ持った自分をどう変えればよいのか。それは決してたやすくない。
場は盛り上がった。一度そうなれば、あとはどんな話で移っても、その盛り上がりは持続する。私たち三人は、次の授業がくるまでの時間を、ひたすらに会話で潰していく。繰り返される意味なき会話。生産性のない無駄話。二十歳の女子が集まれば、話題など腐るほどあった。時間は、ただただ流れてゆく。
窓ガラスの先に、キャンバスの風景がある。えんじ色に統一された学舎、思い思いの服装をして通り過ぎてゆく学生、舗道の脇に植わった銀杏の木々。いまは三限の授業だから、人通りは少なかった。コーヒーと文庫本を手に取りたくなるような午後だ。
私の席からは、時計塔が設けられた法学部の学棟が見える。時計塔の針が、二時過ぎを指していた。あと三十分もすれば、四限の授業が始まる。有価証券法。名前だけでつまらない授業とわかる。
意識の半分を歩たちの会話に向け、残り半分を四限以降の予定について向けた。急に、諒に会いたくなった。なんの前触れもなく、ただ考え事をしているだけで、男に会いたくなるのはなぜだろう。授業終わりの予定を考えていたはずだった。頭に浮かんだのは、サークルやバイトといった具体的な予定よりも、諒の顔だった。
歩たちとの会話にけらけらと笑う。意識は、男で充たされている。
どうしようもなく動物的な女やで、と心の中で自嘲する。
私は、冷徹で、利己的で、味気のない、動物的な女。