39 染まるよ (2)
「…副島さんの姿を見てたんなら、わかるやろ。私らは、そんなんやない。ただの知りあいや。二人で話して、コーヒー飲んでただけ」
私はいった。
諒は私から目を逸らす。依然として険しい顔のままだが、感情が揺れている。
「あのおっさんとなんもないのはわかってる。けど、俺がいいたいのは、本当に問題なのはそこやない」
諒はいった。
いわれた私は、戸惑った。
「どういうこと?」
「俺は、お前とあのおっさんの会話をきいてた」
その言葉をきいた瞬間、私の背筋は凍った。寒気が一秒もたたずして背筋から全身に回る。手先の感覚が消失し、残るのはその寒気だけだ。私は諒の顔を正視できなくなった。
彼は会話をきいたという。どこの部分をきき、なにを知ったというのだろう。
口内が渇く。このまま喋れば、動揺がすぐに伝わってしまう。私は黙り、彼が喋り出すのを待つ。
「ずっと前から、なんとなく感じてたことがある。紗香は、俺に本当の部分を見せたことがあるやろかって。なんか、つきあってるっていっても、どこか上辺だけな気がしてた。考えてみれば、俺はお前と本音で会話したことなんて、一回もなかった。あのときあのおっさんとの話をきいて、俺は納得できた。そら、他に好きな奴がいたなら、俺との関係も上辺になるやろなって」
諒は寂しげな目をして、いう。
私は目を閉じた。私の副島先輩への思いも、彼は知ってしまったのだと悟った。
「…本気で怒ったり、泣いたり、そういうのがなかったのは、仲がよかったからやなくて、そういう本気の関係に辿り着いてなかったからなんや」
いっている間、諒は私を見なかった。ずっと足元に視線を落としていた。彼はまるで私にいうのではなく、自分自身に対していっているように見えた。それこそ自分を嘲るように。
私は二人の過去を振り返る。まさに諒のいう通りだった。心を開いて、喧嘩をして、泣き笑う、そんなことがこれまでの二人にあったろうか。答えは明白だった。諒の言葉通り、一回もそんなことはなかった。私が、上辺だけの関係に逃げ込んでいたからだ。諒は哀れにも、自分たちの関係がこれ以上なく円満だと思い込んでいた。それだけの話だった。
西から風が吹く。今日は思ったよりも風が強い。髪が風の吹く方向へ流れていく。
私はなにもいえなかった。謝罪の言葉も、あるいは気休めの言葉も口から出てくることはなかった。この風のように、ただ流れゆくままにすればいい、と漫然とそんなことを考えていた。
「…こんな関係がええなんて思えへん。けど、俺はそれでも…」
諒は、その先をいわなかった。
なにをいまさら。
私は思った。諒は、心の繋がりでも求めているというのか。互いに過去を振り返り、心の繋がりも、魂の触れあいも皆無だったといま理解したではないか。なのに、いまさらそれらを求めようとするのか。なんとも都合のいい話ではないか。
私も、諒も、目を見あわせなかった。諒は足元を、私は西の空を見ている。
空は刻一刻と表情を変えてゆく。あの薔薇色の空は、すでに存在しない。赤く燃え立つ空が、目に映っている。
一瞬だけ、諒を見た。苦い顔をしているのだろうと思った。だが、そうではなかった。彼の顔は、まるで見捨てられた犬のように、寂しげだった。
そないな顔せんといてよ。
私は首を横に振り、諒を拒む。そんな寂しげな顔をするのは卑怯だと思った。諒は私になにを求めているというのだ。魂の繋がりがほしいというのか。私たちは、大学生らしい、上辺だけの、周囲に対して自分たちは充実していると顕示するためだけにつきあったのではなかったか。理解や共鳴や親愛に、重きを置くはずなどなかったではないか。それなのに、いまになって、なぜそんな顔をするのだ。
唇を噛む。目を閉じる。バッグの紐を手できつく握り締める。そして、言葉を選ぶ。諒にどんな言葉をかけるべきか、考える。
「…そっか。私のこと、つけてたんや」
口から零れたのは、そんな言葉だった。考え込んだくせして、零れ出たのは、ほとんど無意識的に思いついたものだった。どこか、諒を非難するような調子を含んでいる。
諒が、眉を顰める。抗弁と釈明を求めているのは、彼の表情からわかった。
私は力のない濁った目で、諒を見た。険しかった彼の眉根が、へなへなと緩んだ。
「…ごめん。そんなつもりやなかってん」
諒は呟くようにいう。彼の目は焦点を失っている。
「なによ。そんなつもりなくても、つけてたんやろ。それは事実なんやろ」
「それは…」
私にいわれて、諒は言葉を失う。彼の視線は、あちこちを彷徨う。だが、私には視線は向かない。
「四条のときは、確かにお前をつけた。けど、昨日は違う」
「昨日?」
「昨日も、お前とあのおっさんが会ってるのを見た。会話もきいた。お前ら二人は、会話にのめり込んでて、俺に気づきはせんかった。ただ、あれは俺が望んでつけたわけでもなんでもない。それこそ偶然の邂逅やった」
いわれて背筋が再び凍った。諒は、二度も私と副島の会談を見聞きしていた。だから、の言葉が繋がる。だから昨日電話があった。だから諒は私と村岡先輩の関係性を知った。この前の四条と昨日の会談内容で、諒はすべてを知った。だから今日、私に会っている。
嫌な汗が、額から噴き出てくる。舌に痺れを感じる。呂律が回らなくなるのではと恐れを抱く。
会談を見ききされたことに対して、忌々しさが込み上げてくる。それと同時に、諒に対しても、そして私自身に対しても、ある種の哀れさを感じる。なぜなら、自分たちの関係の薄っぺらさを誰に指摘されるわけでもなく、自分たちで確認しあっているのだ。二人して劇の道化を演じているようだ。
顔の筋肉が脈打ち、口の端がその現象につられて持ち上がる。私は、蔑むような笑みを浮かべていた。しかし、なにを蔑むというのだろう。それはおそらく、私自身だろう。
「で、諒は私のことを知ったんや。誰が好きだったかを知ったわけやね」
冷たく棘のあるいい方で、私はいった。こんなものいいが好ましくないことはわかっていた。わかっていて、止められなかった。弱々しく女々しい、本当の自分を諒の前に曝け出したくなかった。
諒は、いまだ寂しげだった。私の言葉に怒りを見せることはなく、寂しげな目を私に向けてくる。
「全部、俺はきいた。きくべきやないと思ってたけど、止められへんかった。それは悪いと思う」
諒はいう。
私は鼻白んだ。なにが悪いと思う、だ。本当に悪いと思うなら、そもそも耳を塞ぎ、なにもきかないでおくはずだ。小賢しい嘘を盛り込むなと私は思った。




