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姉の旅立ち  作者: ENO
第4部 くちなしの丘
38/57

38 染まるよ (1)

 チャイムの音は、解放の音だ。誰かがそういった。おそらく、世の中のほぼすべての学生がそう思うことだろう。

 チャイムの音をきくことで、私はようやく退屈極まりなかった授業から解放されたと思った。授業は刑法だった。結果無価値だの、行為無価値だの、海外から輸入した言葉の解釈を延々ときかされる授業のどこが面白いというのだろう。私は机の上に置いたテキストやノートを一瞬でバッグにしまうと、誰よりも早く講義室を出た。

 学部棟の正面入り口を出て、左手側にある学生会館に向かって歩いた。会館のドアをくぐり、エレベーターを使って五階まで上がった。五階にある階段を昇れば、会館の屋上に出る。

 会館の屋上は、見晴らしがとにかくいい。学校だけでなく、京都の景色も眺めることができる。京都駅、大文字山、比叡山、北野天満宮、観光地や有名な駅がすぐ目につく。法学部棟の時計台の背後で、夕陽が沈んでいく。空は、薄く淡く燃えていた。

 風の音に、ギターの音と歌声が混じる。フォークギターを弾き語る人たちが、屋上にいた。彼らは、お世辞にも上手いとはいえなかった。

 張り巡らされた鉄柵を掴み、私は学校を眺めた。ちょうど授業が終わった時間帯で、人の出入りが活発になる。学校のあちこちを、人が行き来している。

 空が美しい。私はそう感じた。空は淡い薔薇色をしている。あと三十分もすれば、この薔薇色はやがて明確に赤色へと変わるだろう。あと三十分の命もない空の色だ。それがなんとなく、儚さと切なさを感じさせる。

 私はまるで放心したようになって、その場に立ち尽くしていた。

 すると、背後で扉が開く音がした。振り返ると、諒がいた。

 諒は静かに私に近づき、私の前に立った。

「悪いな。突然呼び出したりして」

 諒はいった。

 私は首を横に振った。

「ううん、大丈夫」

「…なら、よかった。さっきの授業はどうやった?」

「…別にどうも。ただの面白くもない授業やった」

「そっか」

 昨日の今日だからか、会話も空気もぎこちないと感じた。諒は自分がいいたいことをどう切り出そうか考えている。私は彼がなにを話そうとするのかわからず、心に壁を築いて、距離を取っている。

 諒がふと、視線をどこかに向ける。フォークギターを弾き語る人たちの方向だ。自分たち以外に人がいることを、諒は気にしたのかもしれない。

 諒が私に視線を戻したとき、私はいった。

「どうしたん、こんな場所で待ちあわせって?」

 私がきくと、諒は真剣な目をしていう。

「お前にききたいことがあってん」

「なにについて?」

 諒は黙った。慎重に言葉を選んでいるようだった。

「…俺に隠しごとがあるやろ」

 数秒たったあとで諒はそういった。

 私は首を傾げ、まるで覚えがないという顔をする。

「なんのこと?」

「隠すなよ」

「わからへん。なにについていってるんよ、諒は」

「わかってるやろ」

「なんなんよ。さっぱりわからへん。はっきりいってよ」

 不機嫌さを露わにして私がいうと、諒もまた険しい顔になり、強い調子でいう。

「お前、変なおっさんと二人で会ってるやろ」

「はあ?」

「隠すなっていったやろ。二人で会ってたんやろ?」

「ちょっと待ってよ。それって、副島さんのこといってるん?」

「副島か誰か知らんけど、会ってたんやな?」

「なんなん? 私が男の人と会ったらあかんなんて、そんな決まりでもあるん?」

 諒の詰問に苛立った私は、挑発的に言葉を吐いた。

「俺らはつきあってるんやろ? なら…」

「誤解せんといてよ。はっきりいって、諒はまったく誤解してる。副島さんとは、そんなんじゃない」

 私は副島との関係を説明した。副島は姉の知人であり、昔から私とも縁があったので、それで二人で会っていたといった。

 だが、私が説明しても、諒は険しい顔を崩そうとはしなかった。むしろ目つきがより一層厳しくなった。

「…お前のいうことが、どこまで本当か、もうわからへん」

「そんなんいわれたって、私も困るわ。それに、なんで諒は、私が副島さんと会ってたって知ってるん?」

 苛立ちのあまり諒を睨みつけながら、私は疑問をぶつけた。私が副島と会っていたことを詰問するのはいいが、どうして諒はそれを知っているのだ。

「それは…」

「別に私にあれこれきくのはええけど、諒も答えてよ。なんで知ってるんよ? 私と副島さんが会ってたことを」

 すでに私の苛立ちはその沸点をとっくに通り過ぎていたので、加減がきかなかった。私も強い口調で、諒に問いを投げかけた。

「…」

 諒は口ごもる。

 私は遠慮せず畳みかけるようにいう。

「なんで知ってるんよ?」

「…佳奈から連絡をもらった」

「佳奈?」

 私はきき返した。

「紗香が変な男と会うって連絡を、佳奈からもらった。それで、いてもたってもいられんくなって、お前のあとをつけたんや。そしたら、お前がその副島とかいう男と会ってたとこを見た」

 苦々しい顔をして、諒はいった。

 諒と佳奈は、一年生のころ同じクラスで、顔見知りだった。私が副島に会うといったとき、佳奈は心配して前から仲がよかった諒に連絡を入れたのだろう。

 余計なことを。

 友人ではあるが、佳奈に対して私は一瞬そう思った。

「それ、いつの話? 四条烏丸で副島さんと会ったときのこと?」

 私がきくと、諒は頷いた。

 諒の頷きを見て、私は思わず天を仰ぎ、嘆息した。あのとき四条烏丸で、確かに誰かの視線を感じていた。最初は副島かと思ったが、諒だった。佳奈に副島に会うこと、行先を告げていたため、諒が追いかけてきたということか。

 ここ最近の諒の態度の理由が、わかった。諒は、私と副島が会うのを見て、私を疑っていたのだ。


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