36 ここだけの話 (2)
私たち二人の様子は、他人にはどう映るのだろう。奇妙な二人組と思われるのは、必然だろう。恋人同士でもなく、友達でもない。よく見えて上司と部下、悪く見えて援助交際の男女。閉店が近づくカフェで、ただ個人的事情を話しあっているだけの二人だ。
無言でいた副島が、私をじっと見つめたあとで、こう切り出した。
「この前、兄弟の諍いの話をしましたよね?」
「ええ」
私は頷いた。
「あの話には続きがあるんですよ。…兄が亡くなり、恋人は去り、そのあとの話です。いまや元恋人となってしまった女性から、便りがありました。赤ちゃんが生まれた、と」
私は副島を見据えた。副島は、私から視線を逸らした。
「…知らせにいてもたってもいられなくなって、私は彼女を訪ねました。元気な男の子の赤ちゃんでした。ただ、父親が、いなかった」
「まさか」
「そう。父親は、私か、兄のどちらかでした。ただ、確かめようがない。彼女はそれを拒んだから。そして彼女は、いまさら父親は誰かを特定する気はなかった」
副島は、窓の外の景色を見ていた。窓の外には、先に今日の営業を終えて電気を消し、闇に沈んだショッピングモールの景色が広がっている。副島の目は、落ち着いていて、なんの淀みもなかった。
「…赤ちゃんを見て、感じたことはなんだと思います? 赤ちゃんの誕生を喜ぶよりも先に私が感じたのは、自分たちがしでかしたことへの、途方もない虚しさですよ。あれだけ嫉妬や怒りや憎しみに囚われ、争って、傷つけあって、兄は狂気に陥り死んだというのに、私も恋人も自分たちの過ちに打ちひしがれたというのに、最後に残ったのは、純粋に祝福することすらできない赤ん坊だった。幸福な結末などありはしない。やり場のない虚しさですよ。私の怒りも、兄の死も、それから恋人の過ちも、赤ん坊を前にしては、なにもかもが虚しくなりました。しかし、それだけです。喜びも、幸福も、そこにはなかった」
副島は、テーブルの上に置かれたコーヒーに視線を落としながら、いった。目は平静であるものの、きいている私を直視しようとしない。語り口は冷静で、他人事だ。そう語れるよう、彼は自分を訓練したのかもしれないと私は思った。
「そのあと、どうなったんですか? 恋人の方は? 赤ちゃんは?」
私はきいた。
「私は動揺しつつも、元恋人とやり直しができないかといってみました。彼女がどういう状況にあるかは、わかっていましたから。昔もいまも、シングルマザーというのは大変な状況です。しかし、彼女は、やり直しはできないといいました。自分の過ちに罪の意識があったのか、兄の死を喜んだ私を恐れていたのか。おそらく両方だとは思いますが。なんにせよ、彼女は子どもと二人で生きていくことにしました。やり直しはできませんでしたが、幸いにも、彼女は私に、子どもと定期的に会ってもいいといってくれました」
「その子どもというのは、もしかして…」
私はいった。声が、少し震えた。
「ええ、お察しのとおり、あなたがよく知る村岡慶介です」
副島の声は、明朗だった。眼鏡のレンズが照明の光を反射させ、彼の目の色は私には窺えない。
告げられた事実が私の心にのしかかる。副島の口ぶりから、なんとなく予感はできた。だが、明かされた事実の重さは、私の予想以上に心に負荷をかけることになった。
副島と先輩。まるで似てはいなかった。親子だとは思えなかった。いや、そもそも親子かどうかわからない。そのことが、副島にどれだけの苦悩を与えただろう。
副島が先輩の写真を見せたときの目を思い出す。振り返れば、あれは父親の目ではなかったか。副島の中では、村岡先輩は、彼の子どもなのだろうか。
「…なにも同情を買うためにこの話をしているわけやない」
副島はいう。
彼の言葉に、私ははっとなる。あと数秒遅ければ、表に出す出さないは別として、私は間違いなく彼に同情していただろう。
「私がいいたかったのは、兄弟同士の争いが、どうしようもない結末になってしまったということ。そして、謙虚さや慎み、自制というものが私たち兄弟と恋人にあれば、こんな事態にはならなかったということです」
後悔を滲ませた副島の視線が、私に向けられた。私はあくまでも、冷静な視線を彼に返した。副島は私の冷静さに、ややたじろいだようだった。
「…ここまで私がいうのは、その、ある意味ではお節介です。しかも非常に個人的な理由による」
「副島さんは、私になにをどうしろと?」
私はいった。まるで機械のように感情のない声だった。感情を省こうと思えば、いつだって省くことができる。やはり私の血は、冷たく凍っているらしい。
「慶介を諦めることは、できないんですか?」
副島は、いった。
「どういうことですか、先輩を諦めるって?」
「もうわかってるでしょう。慶介の気持ちは、お姉さんの方に向いていることを。寺田さんが出る幕やないってことも。…もう、慶介を諦めるべきやないですか?」
副島は俯いて、私にそういった。
私には、乾いた笑いしか浮かばなかった。
「なにをいってるんですか? 私が、彼を諦める? いまの私は、彼を許せないんですよ。私たちへのいじめに関わり、それでいて平然と姉と親しくしようとする彼が。それなのに、副島さんは彼を諦めろという。そうやないんですよ」
目をやや細め、首をわずかに傾げて、私は冷ややかに副島を見た。
対する副島は、眉根を寄せ、苦悶の中にあるような顔をした。私になにを語るべきか、副島は考えている。それが、表情から読み取れた。
「…許すことも含めて、彼への執着を捨てることはできんのですか?」
「執着?」
「そうや。寺田さんの慶介に対するそれは、執着という他ない。恋や恨みや憎しみが一緒くたになった思い。それをええ加減捨てることはできんのですか?」
暖かな、親切さが籠った声で、副島はいった。
しかし、言葉は胸に容赦なく突き刺さった。執着。綺麗な言葉ではなかった。それはむしろ私の歪さを表す言葉だ。私の先輩への思いは、純粋でも、美しいものでもないということだ。
「…それができたら、どんなにええでしょう。けど、私は…」
いったいどうして副島がいう執着とやらを捨てることができよう。言葉にはならぬが、心の中で私は叫ぶ。先輩は、私の燻る恋であり、いまは燃え立つ憎しみの対象だ。彼を忘れられるほどの悟りを私は開いた憶えはない。先輩は姉に気持ちが向いている、姉も彼を好いている。だからどうしたというのだ。私は、いまだに彼を思っている。ありったけの愛憎を胸に抱え込みながら、彼を思っているのだ。その思いを投げ捨てることは、それまでの過去を台なしにするも等しい。いじめに泣いた私は、恋に狂った私は、どうなるというのだ。その過去の清算は、いまだすんでいない。
私と副島は、互いに険しい顔で向かいあっていた。副島の言葉を受け入れる気は、私にはなかった。副島も、なんとか私を説得したいという気でいるのだろう。私たちが対立の様相を呈するのも、無理はなかった




