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姉の旅立ち  作者: ENO
第4部 くちなしの丘
35/57

35 ここだけの話 (1)

 優しい歌が、流れていた。

 英語の曲だった。歌詞がわからないから、曲調だけで、それが優しいと思った。どういう内容の歌なのか、私にはさっぱりとわからない。男性の声と、アコースティックギターの音が、前面に押し出されている。

 曲に耳を傾けると、千路に乱れた私の心は、癒される気がした。

「いまの娘さんには、クラプトンは退屈でしょう」

 コーヒーの入った紙カップを二つ手にした副島が、私の前に座った。副島はテーブルの上にカップを置き、一つを私に渡した。私は頭を下げ、カップを受け取った。

 駅前のショッピングモールにあるスターバックス。そこに私たちはいた。時刻はもう十時を回っている。ここのスターバックスは、夜十一時まで開いている。

 副島は懐かしいという風に、店内に流れる歌をきいている。クラプトンといわれても、私にはぴんとこない。

「これ、なんて曲なんですか?」

「これは『ティアーズ・イン・ヘブン』。九十年代の彼の代表曲の一つやね」

 歌に耳を傾けながら、私たちはコーヒーを啜った。

「…しかしまあ、仕事帰りに呼び出されるとは、思いもしなかった」

 副島はいう。

「すいません、無礼は承知しています」

 私はまた頭を下げた。

 川辺で激高し、家で卒業アルバムを漁ったあと、私は副島の携帯に電話をかけた。仕事帰りの彼を、私はこのカフェに呼び出した。

 副島は仕事帰りで疲れているのか、髭はうっすらと伸びてきていたし、ネクタイもやや緩んでいた。しかし、ただの学生である私の不躾な要求に、なぜかこの男は応じた。変わった男だ、と私は思う。

「で、どういう用件で、私をここに?」

「…村岡先輩のことについて」

 私はいった。私は川辺で姉からきかされたことを、副島に伝えた。その上で、彼に尋ねた。村岡先輩が、私たち姉妹と同じ小学校に在籍していたのか、そして彼の言葉は真実かどうかを。先輩が子どものころから面倒を見ていたという副島なら、なにかを知っていると私は思った。だから、彼に連絡を取り、こうして彼と会うことにしたのだ。

「…いじめについてはわからないが、慶介が、あなたと同じ小学校にいたのは、間違いない」

 私の話をきき終えてから、副島はいった。副島は、私のいた小学校の名に憶えているといった。村岡先輩が通っていた小学校と同じ名だという。

「副島さんは、知ってたんですか? 村岡先輩と私たちが同じ小学校に通っていたことを」

「それはいまあなたにいわれて初めて気がついたことや。確かに慶介が通っていた小学校と同じや。ただ、いじめの詳細は、私にはわからない。慶介の口から、そういう話をきいたことはない。私が知っていたのは、あなたたちが姉妹ということ、それから…」

 副島はそこまでいうと、言葉に詰まった。

「それから、なんなんです?」

 私はその先にある言葉を知りたくて、彼に尋ねた。

 副島は、私を見つめたあとで、こういった。

「あなたも、そしてお姉さんも、慶介を好いているということ。それが私の知っていたことや」

「それは、先輩からいわれたことですか?」

「まさか。自分でこの女性から好かれているなんていってのける人間は、珍しいですよ。ただ、あなた方を観察してれば、そういうのはよくわかります。若者が考える以上に、若者の考えは筒抜けなんですよ」

 冗談めいたいい方だが、どこかしみじみと、どこか羨むように、副島はいった。若さへの憧憬が、彼の中にあるのだろうか。私には、この蟷螂顔した男の若いころが、上手く想像できない。

 私は沈んだ顔で、コーヒーを飲んだ。苦味が口の中に広がり、心は少しだけ落ち着いた。

 副島は暖かな眼差しを私に向けていた。まるで親がやんちゃをした子どもに向けるような、そんな眼差しだ。

 いまさらながら、この男がどういう人なのかわからなくなる。人のよさそうな、飄々としていて、優しい顔立ちをした男だが、そんな男でも、かつては実の兄と確執があって、互いに激しく憎しみあって、兄の死に歓喜さえしてしまったような人なのだ。副島の中にそんな狂気性があるだなんて、そう簡単には信じられなかった。だが、それはどうも事実らしい。人間というのは、どうしてこうも二面性があり、単純であってくれないのだろう。

 村岡先輩も、虫も殺せないような顔をして、いじめに関わっていた。過去の傷を引きずり続ける姉は、過去を許そうとしている。私も、捻くれて、屈折した人間性を抱えている。愛が捻くれて、いまは姉と村岡先輩を激しく嫌悪している。考えてみれば、複雑でない人間が、人間臭くない人間が、果たしてこの世に存在するだろうか。そう思えば、副島の多面性も理解できる気がした。

 なんの前触れもなしに、副島が笑った。

「どうして、笑うんです?」

「いや、この状況のおかしさに、なぜか笑いが出てきました」

 副島はいった。

「夜も遅いというのに、なぜか私のような中年と、年若い女の子が、こうしてコーヒーを飲んでいる状況が、奇妙というか、滑稽というか…」

 副島はそういうと、かけていた眼鏡を外し、目を擦った。眠気が襲ってきたらしい。

「ごめんなさい、半ば無理に呼び出して」

 自分の無礼さは知っていたので、私はそういった。副島に申し訳なさを感じるのは、初めてだった。

「いやあ、いいんです。気にせんといてください」

 副島は手を振った。

「ただ、気になるのは、慶介があなた方へのいじめに関与していたってことですね。申し訳ないが、私はまるで知らなかった。しかし、気になっていた子が、自分へのいじめに加担してたと知って、どうですか?」

 副島は尋ねた。

 いまの私が、一番きかれたくないことだった。

「…どうもこうも。ただ、困惑してるだけです」

「まあ、それはそうでしょうな…」

「…私には、許せないんですよ。あの過去の痛みを、なかったことにはできないんですよ。いまいえるのは、それだけです」

 天から一筋だけ落ちてきた雨のように、私は顔を俯かせ、ぽつりと呟く。副島に向かっていってはいるが、それはむしろ自分を諭すようにいっていた。

 副島はしばらく、なにもいわなかった。


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