34 Fantasy (4)
「どういうことよ? そんなん、都合よ過ぎへん? 村岡さんが自分に好意見せてるからって、過去のことは脇に置いておこうって腹なんやろ? そんなんでいいん? お姉ちゃんは、あのころ私らをひどい目に遭わせた人を、許すつもりなん?」
憎悪、もしくは怨念めいた感情を込めて、私はいった。許してはならない、と私の心が告げている。いや、過去の私が亡霊のように現れ、私の服の袖を掴み、泣いて縋って、許してはならないと叫んでいる。脳が生み出す幻像。それ以外のなにものでもなかったが、私には、惨めだった私の姿が確かに見え、その声が確かにきこえた。私は思う。なんの報復もなしに、なんの見返りもなしに、なんの落とし前もつけることなく一度許してしまえば、過去のなにもかもをなし崩し的に許すようになってしまう。許しを与えることは、過去を曖昧さに浸すことになりはしないか。やがて曖昧さは過去のすべてを呑み込んでしまうだろう。過去の惨めさは、そういうこともあったというぼんやりとした記憶でしかなくなる。それでいいはずがなかった。
「私だって、許したつもりはない。紗香の考えが間違っているとも思わない。けど、許す許さないの次元を超えて、つきあうことだってできるんじゃないかって思うだけ。私に辛いことをした人はたくさんいる。紗香の考えを突き通せば、私の周りには、許すこともできず、憎むことしかできない人たちで溢れ返ることになる」
「せやからって…」
その先を口にすることはできなかった。姉と私は違うのだ、と悟ったからだ。
唇をまた噛んだ。歯が唇を突き破るくらいに、強く噛んだ。その痛みが、私の激情をなんとか押し留める。
「どうして、こんな話を?」
少しの沈黙のあとで、私は姉にきいた。
姉もまた少しの沈黙を置き、いうのだった。
「…今日、バイトで一緒やってん。それで、二人でここまで帰ってきた。紗香がここにくる前に、二人で話をしてた。それこそ、昔の話を」
私は足元の感触を確かめた。この場所に、村岡先輩は立っていたのだろうか。
「どういう因果なんやろうなあ。まあ、でも、同じ街に住み続けてたら、起こりうる話よな。昔のことなんて、なかったらよかったのに。そしたら、私も、あの子も、変な記憶に囚われずに、素直になれるのに…」
姉はいう。その声が震えているのに私は気づいた。姉も、珍しく感情を露わにしている。姉の表情を窺った。涙は流れていなかった。目の縁に、かすかに銀色の光があるだけだ。
「過去は、なかったことにできへん。それがあったから、いまの私がある。私は過去の出来事を忘れないし、それに関わった人を許さない。過去の傷が癒されることはなく、なんの落とし前もついていないから」
「どうやったら過去の傷が癒えるの? 落とし前をつけるって、どうつければいいの?」
「そんなもん、方法なんてありはしないんよ。どうやったって傷は癒えないし、落とし前をつけれるはずもないんよ。私の心にはこれっぽっちも響かないから。とどのつまり、この関係は永久に続いていく。…こんなことになるんなら、初めから愚かな行為に手を出さなければよかったんや。先輩も同じや。なんで、なんであんな馬鹿なことに加わったんよ。人をいじめるってことが、どれだけ相手にとって深刻なことなのか、あの人はなんで考えなかったんよ。ああもう、馬鹿らしくて、憎らしい。あとからの謝罪が、あとからの罪の意識が、なんになるっていうのよ。そんなものは、灰に等しいわ」
私は叫んでいた。姉に向かって叫んだのか。いや、姉に叫んだのではなく、もはや記憶という忘却の雨が常に降りしきる世界で、幽霊のように存在感も実体感も失くしてしまった、かつて私たち姉妹へのいじめに関与した人間たちに向かって叫んでいたのだ。彼らがいまどこにいるのか、知る由もない。記憶の中でだけ、彼らは辛うじて生存している。もはや姿としては消滅寸前の人々に向かって、どうしようにもならぬ怒りと悲しみを込めて、私は叫ぶのだ。
姉は目を閉じ、眉を顰め、私の言葉をじっときいていた。それは悲痛としかいえない表情だった。もはや私とは違う考え、違う立ち位置にいるというのに、なぜそんな顔をするのだ。もっともらしい理由をつけて二人して過去に背を向け、甘ったれた馴れあいにのめり込もうとしているくせに、なぜそんな辛そうな顔をしているのだ。どうせ私の考えに賛同しないのなら、いっそのこと私を蔑むような、傲然とした顔をすればいいのだ。ガラス細工のような壊れやすさを、顔に出す必要はまるでない。
姉が、忌々しい。
そんな思いが降り始めの雨のように、ぽつりぽつりと心に浮かぶ。やがては豪雨のように勢いを増し、思考のすべてを埋め尽くしてしまう。忌々しさは怒りにも似た感情に置き換わる。感情の昂ぶりを私は抑制できなかった。肩で息をしながら、姉を睨みつける。私を痛めつけたあの連中と同じくらいの憎さを姉にも感じてしまう。
許せへん。
私を惨めにした連中に対しても、過去を封じ込めようとする姉に対しても。爆発した感情を抑え込むことができない私は、言語として成立していない呻きを発し、空気中に感情をばら撒いた。私が放つ憎しみや怒りを感じ取ったのか、姉は怯えたように目を見開き、体を震わせた。
姉の姿を、これ以上見ていられなかった。姉は私を裏切った。姉はもう私と同じ位置にはいないのだ。
私は、ありったけの怒りと憎しみと悲しみの籠った一瞥を姉に投げかけ、その場を立ち去った。私を呼び止める声はきこえなかった。ただ、薄闇の中で、私の背を見つめる姉の視線だけを感じた。それは悲しみの目か、憐れみの目か。
肩を震わせながら、道を歩いていく。平凡を極めた住宅街の風景が夜の始まりと溶けあって、涙を催すような寂しさを醸し出していた。こんなときに限って、私の歩く道には誰もいないのだ。家々に明かりは灯るというのに、どこからともなく夕餉の匂いがするというのに、私の前にも、うしろにも、人の気配はない。深い孤独を私は感じた。
家に戻る。親の顔を見もせず、二階に上がる。姉の部屋の扉を乱暴に開けると、クローゼットの下にある姉の卒業アルバムを引っ張り出した。ページを何枚もめくって、彼の姿を探した。どこにも、村岡先輩の写真はない。姉のアルバムを投げ捨て、自分の部屋にいく。今度は自分の卒業アルバムも引っ張り出して、村岡先輩を探そうとした。だが、彼の姿はなかった。
冷静に考えれば、当たり前のことだろう。村岡先輩は、私たち姉妹とは学年が違う。同じ学校だったとしても、卒業アルバムに写り込んでいるわけがないのだ。
あの先輩が、私に石を投げつけ、冬の校庭で乱暴をした。それが真実であってほしくなかった。アルバムに写真がないということは、彼は私たちの学校にいなかった、私たちのいじめにも関与していなかったということかもしれない。そう思った。アルバムを探るのは、そんな安易な考えに逃げ込みたかったから。だが、すぐにそんな思いは立ち消えた。なぜなら、もはや彼自身がいじめに関わったと明言しているからだ。
姉の部屋に戻る。投げ捨てた姉の卒業アルバムを再び探った。必死の形相で探った。
それでもやはりそこに先輩の姿はなかった。
卒業アルバムの中の、姉が写り込んだページが私の目に入った。まるで学校という世界には無限大の絶望と悲しみしか存在しないとでもいうような鬱々とした顔をして、姉は写真に写り込んでいた。クラスの集合写真。おそらくまだ冷たい風が吹きつけていた三月の空の下で、姉は、クラスの誰からも近寄ることを許されず、クラスの誰からも距離を置いて所在なさげに突っ立って、笑うこともできずに陰気で強張った表情をして、それはつまりあまりに不細工で誰からも嫌われて当然としか思えないような表情で、写真に写り込んでいた。
そうや、あんたはこんな世界が憎かったはずやろう。こんな惨めな境遇に追いやった犯人たちが憎くて憎くて仕方がなかったはずやろう。その点、私とあんたは同じ思いを共有していたはずや。それやのに、あんたはその記憶を都合よく消却して、憎き犯人と乳繰りあうっていうのか。どうしてそんなことができるっていうんや。どうして私を置いていくんや。どうして私を裏切るんや。
私は心の底から、姉と先輩が憎いと思った。
姉が写り込んだページを引き裂く。ありったけの力を込めて、ありったけの憎しみを込めて、姉が写り込んだすべてのページを引き裂いてやった。それだけでは足りなかった。私はアルバムを床に叩きつけた。何度も、何度も、狂ったようにアルバムを床に叩きつけた。引き裂いたはずの姉の写真を、さらに細かく引き裂いてやる。
それでもまだ足りなかった。
引き裂かれ、床に叩きつけられてくしゃくしゃになった姉のアルバムを、私は壁に向かって投げつけた。ありったけの力を込めて投げたつもりだったが、私の心の乱れようを象徴するかのように、壁にぶつかったアルバムは、心臓をどすんと打つような、気味の悪い衝撃音を立てて、それから床に落ちた。
叫び声を上げたくなる気持ちを懸命にこらえようとして、結局は醜い唸り声が零れてしまう。とても女の声とも、ましてや自分の声とも思えなかった。
あの人らが憎い。憎くて、憎くて、どうしようもない。
ああ、なんて醜いんやろう、私は。




