30 For You, For Me
朝、目が覚めて、一階のリビングに下りた。
珍しくリビングががらんとした印象を受けた。母はキッチンに立っているが、父と姉の姿がないから、空間ががらんとしたように見えるのだとわかった。
「お父さんやお姉ちゃんはまだ部屋?」
私は母にきいた。
「いいや、もう出かけたよ。お父さんは仕事、彩香はなんなんやろねえ。あんた知ってる?」
母は逆に私に姉の行方をきいてきた。
「いや、知らへん。どこいったんやろ?」
「さあ。なんか最近、あの子出かけること多くなったと思わへん? 前まで家にずっとおったのに」
母は手元で朝食を出す準備をしながら、そんなことをいう。
「お姉ちゃん、アルバイトによく出るようになったみたいやで」
「ふうん。アルバイトかあ。それでも前は週に一回としかいかへんかったのになあ。彼氏でもできたんかなあ?」
首を傾げながら、母は私にご飯を盛ったお茶碗、鯖の煮つけと卵焼きを乗せたやや大きめの皿、味噌汁の入ったお椀を次から次へと渡した。私はそれらを受け取り、テーブルの上に置いてある箸が入ったバスケットから自分の箸を取り出した。母の疑問に回答するより先に、いたただきます、と声を発し、箸を煮つけに刺し込んだ。
「彼氏ができたかどうかはしらんけど、アルバイトにやる気出すのはええんとちゃう?」
口に放り込んだ煮つけの甘い味を楽しんでから、私は母にいった。
「まあ、ずっと家におられるよりかはましやな」
「お姉ちゃん、そろそろ脱引きこもりを果たせるかな?」
「さあ、それはあの子次第やろ」
母は、まるで他人事のようにいう。
私は卵焼きを味わっている。鯖の煮つけも美味しいが、やはり一番は母の卵焼きだ。三切れあった卵焼きを全部食べてから、私はいった。
「随分他人事みたいやん、お母さん」
「あらそう? でも、彩香にはあんまりこっちからがんがんいわん方がええんやって。あの子、見た目のわりにものすごい頑固やから」
母はそういうが、私は同意できなかった。がみがみいわなかった結果、姉は大学にもいかず、約五年近くも家に引きこもることとなったのだ。もっと両親がきつく姉にものをいっていれば、姉はいまよりもまともな生活を送っていたのではないかと私は思ってしまう。
「お母さん、お姉ちゃんに対して甘くない? お父さんもやけど。お姉ちゃんにはもっと早く仕事しろとか、さっさと独立しろぐらいいってもええんとちゃう? なんでそんな甘いんよ」
私は母に尋ねた。親がなぜあんな姉を放ったらかしにしておくのか、その理由が気になる。
「そら、あんたにならそういえるけど、彩香はそういうのじゃないやん」
母は即答した。
「紗香は気が強いから、多少厳しいこといっても耐性があるけど、お姉ちゃんは違うんや。あの子にはえらい繊細なとこがあって、でも頑固やから、厳しくいっても逆効果や。それに…」
「それに、なによ?」
「いや、やっぱええわ。あんな、紗香。世の中には、あんたと同じ人間は誰一人として存在せえへんねん。あんたには通用することも、他には通用せえへんってことは、大いにありうる話や。とりあえず、あの子はある程度好きにさせといたらええねん。そのうち、なんとかなるかもしれへん」
「なるかもしれへんって、またえらい曖昧な…」
「世の中には、絶対こうだなんてもんはあり得へんやろ? まあ、なんともならんかったときは、そのときはそのときで考えればええんや」
含蓄があるのかないのか、よくわからないことをやけに自信溢れた表情で母はいう。母のよくわからない理屈と表情に押し切られ、そこで私たちの会話はいったん終わった。
納得のいかない顔で私はご飯を黙々と食べる中、母はごそごそと自分用の朝食を用意するのだった。
朝食を食べ終え、食器を母に渡した。皿やお椀を受け取った母はそれを流し台に置いていく。
私は椅子から立ち上がり、二階へ上がる。学校の準備をしなければならない。
服を着替え、髪を整え、化粧を終えて、歯を磨き、バッグを引っ掴んで、玄関の扉を開ける。凛とした秋の空気が、私を包み込む。
まだ時刻は八時半過ぎである。今日は二限から授業が始まる。腕時計で時間を確認し、改めて姉は早い時間に出かけたものだと思った。アルバイトにいきたいというよりも、村岡先輩と会いたいという気持ちが強いのだろうか。
勝手にすればいい。
私は思った。苦々しさを感じるより前に、原付に乗り、走り出した。
気になる男に会おうと躍起なる姉を思うと、嫉妬心というのか、対抗心のようなものがむらむらと心に沸き立った。
自分も無性に男に会いたくなった。心に立ち込めている靄を、吹き飛ばしたくなったのだ。




