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姉の旅立ち  作者: ENO
第1部 京都の大学生
3/57

3  茶の花 (1)

 寺田綾香。それが姉の名前だ。ちなみに私は紗香という。

 綾香と紗香。意味や理由があるのかないのか、おそらくこれといった理由もなしに母に名づけられた姉妹だ。幼いころからけったいな姉妹で親戚たちには知られていたらしい。姉はとにかく暗く、妹はとにかく勝ち気、そして二人の仲は悪い。扱いづらい姉妹だったと親戚たちはいまも苦笑いで語る。小さなころから、きっと私は姉のことであれこれ怒ってばかりいたのだろう。その関係性はいまも見事に続いている。

 暗い姉、勝ち気な妹。親戚ですら扱いづらいというくらいだから、赤の他人にとってはもっと扱いづらい、あるいはひどく面倒な存在だったのかもしれない。なにが直接の原因かは知らないが、小学生のころは、姉妹でいじめを受けた経験もある。最初は姉が攻撃され、次に私が親族連座のように姉がいじめられたというだけでいじめの対象に入れられた。私にとってはとんだとばっちりだったが、振り返れば、私たち姉妹はいじめとまではいかずとも、苦い経験はいくらでも受けてきたように思う。クラスから除き者扱いにされる、人気者たちからの軽蔑や嘲笑。私は怒りを糧に前へ突き進む性格だからか、いつしかいじめの影も形も消え去っていたが、姉はそういうわけではなかった。それが姉に暗い影を落としているのは否めなかった。

 姉は今年で二十三歳になる。姉は高校を卒業後、定職に就かず、週一度か二度ほど書店でアルバイトをしている。アルバイト以外は、家に籠って本と漫画を読み漁る日々。引きこもり予備軍といっていいのかもしれない。大学進学や就職を考えなかったのは、これまでの経緯があり、集団に属することに嫌気が差したのかもしれない。ただ、それでもアルバイトを続けているのは、社会から完全に隔絶することに、姉は恐怖を抱いているからだ。臆病さと我儘さが、姉の心には潜んでいる。

 私は今年で二十歳になる。私は姉とは違い、ちゃんと大学へ進んだ。いじめやその他いろいろあったが、社会や集団に嫌気が差すこともなく、それどころか中学高校のころからは友人たちにも恵まれ、いまに至っている。過去の経験からか、道徳心や正義感はやけに強くなった気がしないでもない。だが、平穏には過ごせている。

 けったいな姉妹。人は私たちをそういうが、私はそれを否定しようとは思わない。扱いづらくて、対照的で、仲が悪い。だが、二人はどこか心の奥底で繋がっているものもある、と私は信じている。たとえば過去にあったことに対する思いなどは、二人とも同じであるはずだ。表面とは別にそういう秘めた繋がりが存在する、それもまた姉妹のあり方なのではないだろうか。

 

 最近の大学は贅沢だ、と母はよく嘆く。大学施設がどんどん現代的なデザインに増改築され、設備もそこらの企業よりもうんと見栄え良いものに替わった。それだけでなく、小洒落たカフェやファストフード店が大学内にでき、学業の場とは程遠いものになってしまったからだという。

 いわれてみれば、確かに母の嘆きもわかる。私が入学する一年か二年前に、大学内で大工事があったという。ただでさえ狭いキャンパス内にオフィスビルと見紛うような研究棟ができ、図書館や体育館は改装されてうんと綺麗で、使いやすくなった。カフェやその他飲食店も工事を機に出店を始めた。莫大な予算を投入しながら、それで学生たちの学業の振興に役立っているのかは、わからない。ただ学生の授業料をばらまいて、贅沢をしているだけではないのか。学生である私も、そう思う時がある。

 だがしかし、大学で美味しいチーズケーキや紅茶が楽しめるというのは、贅沢といわれようと素晴らしくはないだろうか。ちなみに私はその二つが好物だ。それだけではない、パフェやタルトだって味わえる。母の批判は承知しているが、それでも私は大学の判断に賛成だ。大学内のカフェで友人たちとお茶をしつつ、会話を楽しむ。なんと素晴らしいことだろう。

 いま、私が頼んだアッサムティーは芳醇な香りと湯気を立てている。その隣には、私の好物であるチーズケーキが白い皿の上でちょこんと座っている。

 昼下がりの大学内のカフェは、ようやく落ち着いてきた。昼休み中の混雑が薄れてきたのだ。

「…にしても、紗香は真面目だよねえ」

 キャラメルマキアートが入ったマグカップを手にした歩が、そんなことをいい出した。

「なんで真面目なのよ?」

 私も自分のカップを手に取りながら、いった。

「だってさあ、私たちが爆睡してたのに、紗香だけずっと起きてたんやろ。あんな退屈な授業なのに、すごいで、あんた」

 そう感心するのは、佳奈だ。私と歩に比べると小柄で、三人でソファに座っていてもなんとなく身長差がわかる。

 佳奈の言葉に、私はくすりと笑う。

「確かに授業中に寝ないってのは、私の特技かもね。でも真面目ってわけでもないで。だって、起きててもノートとってない時もあるし」

「そりゃそうだけど、ずっと寝てた私たちに比べればねえ」

 歩がいった。そして、佳奈と二人で笑いあう。二人とは二限の授業で一緒だったが、授業開始から十分もしないうちに、二人して授業の最後近くまで眠り込んでしまった。

 私、歩、佳奈は、大学の仲良しグループだ。もともと一回生の語学の授業で知りあった。三人の性格はてんでばらばらだったが、意気投合し、一緒に授業に出たり、遊んだり、今のように集まってお昼を食べたりする間柄だ。

「歩と佳奈は寝過ぎや。昨日夜更かしでもしてたんとちゃう?」

 私も笑みを浮かべながら、尋ねた。

「ううん、全然寝てた。だけど、あの授業はないでしょ。ブルドックみたいな顔した教授が、ぼそぼそっとした声で政治がどうだのって語るんだよ? 眠くなるのも仕方ないよ」

 眠たくなるのは不可抗力だといわんばかりに、歩はいう。歩の発言に、佳奈もうんうんと頷いている。

「そりゃ高岡先生の授業は眠くなるって評判固まってるからねえ。…まあ、私が寝なかったのは偶然やって。私だって、最後の方はちょっとうとうとしかけたし」

「とかいいつつ、紗香って絶対に寝ないからねえ。紗香と何度も授業一緒やけど、寝てるとこなんて一回も見たことない。根が真面目なんやって。きっと親譲りの真面目さやね。紗香のお父さんとか、めっちゃ真面目な感じがする」

 片肘をついて頬を手で支えながら、佳奈はそう指摘する。

 私は大きく手を横に振る。

「違う違う、うちの親は、真面目とちゃうで。適当なところいっぱいあるもん。お父さんは仕事いくのめんどくさいとか常にゆってるし、お母さんだってふわふわした感じで、たまに朝ご飯作るの忘れるし」

 私の両親が真面目とは、佳奈は大きな勘違いをしている。一度私の両親ののほほんとした様を見せてやりたい。彼らが真面目とはいいがたいのをすぐに理解できるだろう。彼らは、真面目というよりは手堅いのだ。地元の信用金庫に勤務する父は、周囲から公務員と誤解されかねないような残業なしの定時帰りを実践している人だし、柔和で話し好きの母は市の図書館でパート勤めをしている。必死に働いて高い給料をもらうような野心的な生活や職業を避け、適度に仕事して、適度に稼ぎ、私生活を存分に楽しむという人生を選んだ慎ましやかな人たちなのだ。

 私が両親のお気楽さを必死に説明すると、佳奈はふうんという顔をして、次のようにいう。

「じゃあ、紗香自身が真面目ってことか」

「まあ、そういう星のもとに生まれたんじゃない? 常にサバサバ、曲がったことが大嫌い、真面目一徹。でも、たまにおっちょこちょい」

 歩が茶目っ気たっぷりにいった。

 私は口に含んだ紅茶を飲んでから、歩の言葉に突っ込む。

「ちょっとなによ、おっちょこちょいって」

「そのままの意味よ。もしかして気づいてないの?」

 大げさな口調で、軽く笑みを湛えながら、歩はいう。

「そんなん知らん」

 私もあえて口を尖らせてみる。

 歩は悪戯っぽく佳奈に向かって言葉を切り出す。

「ちょっと聞いて、佳奈。この前の近代政治思想の授業でさ、紗香ってば、すごいことやらかしちゃったんだよ」


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