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姉の旅立ち  作者: ENO
第3部 reflection eternal
29/57

29 Turn On, Turn In, Surf Out

 姉の部屋の扉を開けた。

 まだ姉は帰ってきておらず、部屋は暗かった。私は明かりをつけた。本が散らかった部屋が、姿を現す。床に散乱した本は、姉が読んで退屈だったものと相場が決まっている。面白いと姉が判断した本は、本棚にきれいに収められている。本は散らかすくせに、服やその他のものは整理整頓されていた。この点、姉は奇怪な性格をしているとしかいいようがない。

 クローゼットの隅には、もう開くことはない冊子があるのを私は知っている。小学校から高校までの卒業アルバムだ。埃一つ被らずにそれらは隅に置かれているが、姉はきっと開かないだろう。姉にとっては、過去の惨めな自分が収められた冊子でしかないのだから。

 私は姉の卒業アルバムを手に取り、ベッドの端に座った。アルバムを開くと、暗い顔をした幼い姉がいる。少人数で映った写真も、クラスの集合写真でも、姉の顔は寂しさや孤独のせいで曇っている。どの仲良し集団の輪に入れてもらえず、あてもなく彷徨う姉の姿がアルバムには収められていた。笑ってしまうくらいに惨めで憐れだ。

 中学も、高校も、どの時代の姉にも、明るい顔はなかった。寂しく、鬱々しい顔があるだけ。これが姉の青春なのだ。そう思うと、見ている私まで悲しくなる。

 世の中に何万冊と溢れる卒業アルバム一冊一冊に、姉のような人間が必ずいる。いじめられっ子、仲間外れにされた子、大勢の明るい顔の陰に、いまにも死にそうなほど悲惨な顔がある。大勢の人間はアルバムを見て懐かしさに笑みを浮かべるが、たとえば姉にとってはそうではない。姉にとっては、卒業アルバムは、惨めでしかない過去の象徴だ。

 なぜ私は姉のアルバムを手に取ったのだろう。姉を嘲笑うためではなかった。むしろ、あのころの惨めさを忘れないためだ。姉のせいでとばっちりをうけ、散々な目に遭った小学、中学のころの記憶が蘇る。あの惨めさを、あの痛みを、私は決して忘れない。私にひどい思いをさせた連中を、私は決して許さない。その思いを再確認したかったのだ。

 私はアルバムをもとの位置に戻した。

 女の暗い顔は、見ていて気持ちええもんやあらへん。

 私はそう思う。見ていて気持ちがいいのは、心から浮かべる笑顔以外にない。

 私が再びベッドに座り直したとき、姉が帰宅し、部屋に入ってきた。しばらく服装について助言はしていなかったが、今日の姉の服装はまあまあだ。青のコートと黒のジーンズがよく似あっている。ここ最近は服装にも気を遣うようになったようだ。

 私が部屋にいるのを見て、姉は驚く。

「紗香、どないしたんよ?」

「ああ、なんか、ごめんね、突然」

 私はいった。

 姉は首を横に振る。

「ううん、ええよ、別に。あんたが私の部屋におるなんて、珍しいから。なんかあったの?」

「うん、ちょっときいてほしいことがあるねん」

 私は副島の件を話した。ショッピングモールで私が起こした騒ぎを副島が見ていたことや、副島と梅田で会ったこと、そして今日また彼と会ったことを伝えた。

「紗香、いくら怒ったっていっても、人に殴りかかるなんて…」

 姉に酔って絡んだ客をあとで私が殴り飛ばした件も姉に伝えると、姉は絶句した。

「それはええねん。それより副島や。…あいつ、なんか妙なところあるし、不安になってん」

「そりゃ、気まずい場面を見られたからっていって、声をかけてくる人なんて、妙な人でしかないやん」

「そうやんな。それでな…」

 それから私は、今日副島が話したことを詳細に伝えた。私に明かした過去の話も、副島と村岡先輩との繋がりも、姉に伝えた。

 少し長い話になった。

 私が村岡先輩の話など諸々を打ち明けている間、姉はずっと黙って話をきいていた。深く頷くことはあっても、姉はどこか淡々とした様子でいて、私にはかえってそれが恐ろしく感じられた。姉の沈黙が、冷たく私の肌に突き刺さってくる。

「…いまになっていうのもほんま申し訳ないんやけど、私、村岡さんと同じ高校で、話したこともあってん。私、それをお姉ちゃんに隠してた。ごめん」

 私は姉に詫びた。ただ、村岡先輩を好きであることは、伏せた。

「ううん、謝らんでええよ」

 長い沈黙を終わらせた一言が、それだった。ひどく驚かれ、不審がられると思ったが、姉はまるで気にしていないようにいう。

「ほんまに? 私、隠しごとしてたんやで?」

「ええよ、私は気にせえへん」

 姉はそういった。それとなく私と先輩の繋がりを知っていた風だった。

「ありがとう、お姉ちゃん。ところでさ、お姉ちゃんは、私らが姉妹やってことは、村岡先輩には伝えたん?」

「ん? いや、それは特になにもいってないよ」

「そうなんや…」

 引っかかりを感じる。姉の口から私たちが姉妹だと村岡先輩に告げていないとすると、どうして彼は私たちが姉妹だと認識できたのか。彼は前々から私たちが姉妹だと知っていたのだろうか。

「紗香、それがどうかしたん?」

「あ、いや、別にええねん。…それよりも、副島や。あいつは、副島は、私たちのことをいろいろ知ってるみたい。なんか、それが心配やねん。普通に考えたら、あんな中年のおっさんが、私らに関わってくるなんて、あり得へん。気味悪くてしゃあないねん」

 私はいった。副島の底の見えなさが、いまになって恐ろしく思えてきたのだ。

「副島だけじゃなくて、村岡先輩のことも、心配になってきた。こんなん私がいう立場やないのはわかってるけど…」

 村岡先輩のことにも言及する。なにしろ彼も副島と繋がりを持っているからだ。私の中で不信感が増大していく。

「…大丈夫やろか?」

 独り言のように、私は呟いた。村岡先輩とそのままつきあっても大丈夫なのか。そこまで直截にはいえなかった。

 姉は一瞬だけ不安の影を見せたが、すぐに明るさを取り戻し、こういう。

「…まあ、大丈夫でしょ。でも、気をつけとく。特に副島さんには。村岡君も、ちょっと注意して見てみる」

「うん、そうして。…なんでやろな、こんな不安になるなんて、珍しいわ。しかも、お姉ちゃんのことやのに」

「紗香にしては、確かに珍しいね。どうしたん? どういう風の吹き回し?」

 姉は冗談っぽくきいてくる。姉を心配したり、お節介を焼いたりするのは、これまでで

そう多いことではない。いつも姉への一方的な嫌悪感から無関心を決め込んでいた。誰かからいわれない限り、姉を手助けすることなど、これまでなかったといっていい。

 ひどい妹やな。

 私は自嘲せざるを得ない。いま、姉を心配するのも、自分が村岡先輩のことを引きずっているからだ。姉を心配するというより、むしろ村岡先輩を手に入れたい自分のために心配している。

 偽りの笑顔で、偽りを平然と口にする。

「まあ、たまにはお姉ちゃんを心配してもええやろ。そういうときだって、私にもたまにはあるんよ」

 自分でいって、嫌気がした。

 そして姉は私の言葉をまったく疑いもしない。それがまた私自身への嫌悪感を強くする。

「そっか。ありがとうね」

 そういって姉は微笑むのだ。

 微笑まんといてよ。

 私は思う。私のような女に、そんな微笑みを投げかける必要など、これっぽっちもありはしないのだ。

 姉は青のコートを脱ぎ、それをハンガーにかけると、私の隣に座った。

「…あのね、紗香」

 姉はいう。

「私もきいてほしいことがあるねん」

 姉は私を見つめた。薄いそばかすを周りに散りばめた目が、私を見ている。

「なによ?」

 私はぶっきらぼうにきくと、姉はやや照れ臭そうにいう。

「あのね、次の日時、決まってん。村岡君との」

「えっ、いつの間に?」

「今日バイトにいったときに決めた。とりあえずご飯いきましょうって。今度は私がいい店見つけてきますっていってしもた。…どこがいい店か全然知らんけどね。いまからちょうど十日後の、金曜日の夜」

 姉の声は、照れ臭そうでありつつ、弾んでいた。白く幼子のような柔らかみを感じさせる顔の肌の上で、喜色が踊って跳ねる。

「紗香のいう通り、とりあえず次の約束だけは取りつけてきたよ」

 姉は子犬のような無邪気さを振り撒く。

 私のいったこと、ちゃんと覚えてたんや。

 そう思うと、嫌な気持ちはしない。

「それで、店はどうするん?」

 私はきく。

「それは、紗香が教えてくれるんやろ?」

 頼るように私を見る。

「そりゃ、確かに教えるとはいったけど…」

「それで、店はどこがいいの?」

 私の言葉をきいていなかったのか、ぐいぐいと押し込むように姉はいう。有無をいわせぬその調子に面食らった私は、佳奈に教えてもらった店の名と場所を告げた。こんな押しの強さを見せる姉など、いままで見たことがなかった。デートの約束を取りつけたことで、相当浮かれているのだろうか。

「…その店は、紗香がいったことある場所なん?」

「私はいってないけど、仲いい友達がいってよかったって。騙されたと思っていってみなよ」

「いや、全然疑ってるわけちゃうよ。むしろありがたいわ。私、そういう店のこととか全然わからへんし」

「その友達、けっこう女の子女の子した性格やから、店とか料理とかにうるさいし、信用していいよ」

「そうなんや。じゃあ、大丈夫やね」

 姉は微笑む。電灯が放つ白い光が、姉の肌をくっきりと照らし出す。白い光のもとだと、姉のそばかすは目立った。だが、無垢な肌よりも、そばかすが点在する肌の方が、不思議と愛嬌や色気があるような気がした。不完全ゆえの美とでもいうのか、完璧な状態が崩れ、ある種のだらしない状態から生まれる美しさが、姉にも宿っている。そばかすのない私の顔は淡白であり、愛嬌が生まれる余地はない。

「伝えるだけ伝えたから、あとはお姉ちゃん次第。どう、勝算はありそう?」

「勝算は、わからへんなあ」

「どういうことよ。デートいこうっていったとき、村岡さんはどんな感じやったんよ?」

「素直に嬉しそうにはしてたけど…」

「けど、なんなんよ?」

「せやけど、嬉しそうやったからって、デートが成功するかなんてわからへんやん」

「わかってないなあ。そういう場合、男はただデートするってだけで満足してんねん。あとはおいしいご飯食べて、楽しく話してれば、上手いこといくよ」

「楽しく話すってのがなあ…」

「なにいってんのよ。平常運転でやればいいねん。いつも村岡さんと楽しく話してる感じを、ご飯食べてるときでもやればええ話やん」

「それはそやけど」

「ったく、村岡さんと楽しく会話したときくらいあるやろ? それイメージすればええだけやん。…なんでこんなことまで私にいわせてんのよ」

「…ごめん」

 姉はしょんぼりと肩を落とす。

「忌々しいけど、とりあえず村岡さんは嬉しそうにしてたんやろ。なら、あとは楽しく場を盛り上げて、いうこといったらそれで勝算ありってことやん。まあ、あとは上手くやってよ」

「な、なんで忌々しいんよ?」

「なんでもええねん。とりあえず、助言はしたから、あとは任せる」

 私はそういい、立ち上がった。ドアノブに手をかけたところで、姉を振り返る。

「あと、副島には気をつけや。こんなこといったらあれやけど、村岡さんも。変なところに気づいたら、さっさと手を引くんやで」

「あ、うん。…それは、わかってる」

 姉の返事をきくと、私は扉を閉めた。私は自分の部屋に戻り、ベッドに寝転んだ。瞳を閉じると、瞼の裏に村岡先輩が浮かんだ。それは恋の対象というだけでなく、不安の対象としてでもあった。いったい彼は何者なのだ。そんな問いさえ浮かんでしまう。答えは、浮かんでくるはずもなかった。


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