26 Blind Mind
「それでそれで? 紗香はどの店教えてあげたんよ?」
電話越しに佳奈が好奇心たっぷりにきいてくる。
「いや、教えてあげるっていっただけで、まだ実際に教えたわけちゃうんよ」
私はいった。
空調の室外機から吐き出される淀んだ風と嫌な臭いに顔を顰める。喫茶店のバイトの休憩時間に、私は店の裏で佳奈に相談をしている。
佳奈はいう。
「えー、そうなんや。それで、どこするつもりなん?」
「それが迷ってるんよ。教えてあげると口ではいってても、いざとなると、どこ教えていいのやら…」
「あれやろ、二回目やろ。せやったら、四条三条のちょっとお洒落なレストランとかでええやん」
「うん、まあ前回梅田でデートしてたし、京都はええかもな」
「すごくいいと思う。なんかえらい楽しいわあ」
佳奈は実に無邪気な声でいった。他人の恋愛話に関わることが、楽しくて仕方がないらしい。
「どこの店教えてあげたらいいかな?」
私がきくと、佳奈はおすすめの店の名を告げた。三条木屋町のビルに入っているレストランだという。
「その店、夜になると鴨川の眺めがすごいええからおすすめやで。前、彼氏といったけど、すごいよかった」
「ほんまに? じゃあ、お姉ちゃんに薦めてみる。ありがとうね、佳奈」
「ええってええって。お姉ちゃんの恋路、上手くいくとええね」
佳奈は嬉しそうな声でそういい、電話を切った。
「珍しくえらい執着するよな」
姉のことを口にした私に、諒はそういった。
夜七時を回り、すっかり人の減った公園。昼過ぎにバイトが終わり、それから諒と会ってデートをした。その帰りがけに立ち寄った公園で、私たちはベンチに座り、がらんとした広場に視線を向け、話をしていた。
諒の言葉に、私は思わずきき返す。
「どういうこと?」
「いや、紗香って、他人事にはそない首を突っ込もうとしやんやろ? なんか、いまあれこれお節介を焼いているのが、珍しいなあと思って」
「そうなんやろか?」
「俺にはそう思える。見方によっては、すごい食いついてるっていうか、しがみついてるように見える」
諒は私をじっと見据えながら、落ち着いた声でいう。
執着という言葉を突きつけられて、私は戸惑いを隠せない。いや、実際諒のいう通りなのだ。私のしていることが、執着といわずしてなにといえばいいのだ。だが、誰かに面と向かってそのことを指摘されると、それはそれで胸を抉られるような気分になる。自分自身がどこか歪で異常なこと、そしてそのことが他人に伝わっていることに気づかされるからだ。
いつものように軽口を返そうと思った。だが、返すことができず、私はただ押し黙ってしまう。
夜の公園に冷たい風が吹き、私は身震いする。
諒が無言でなにかを差し出す。熱い缶コーヒーだった。私はそれを受け取り、両手でぎゅっと握り締める。冷たくなった手に、じんわりと熱が伝わる。
なにもいうことができず、私はただ目の前に広がる寂しい景色を見つめるだけ。
「なあ、なんでそこまでお姉さんを手助けするん?」
諒はいう。
「昨日もそうやし、いまもそうやけど、あんなに嫌いやゆうてたお姉さんに世話焼くなんて、いつもの紗香らしくない。なんかそうする理由でもあるんとちゃうか?」
諒の問いに、私はしばらく黙ったままでいた。数秒を置いて、口を開いた。
「理由…。理由なんて、特にないよ」
私は嘘をついた。
「なんかよくわからへんけど、なんでか助けてしまうねん。自分でも説明できへん」
「なんやそれ。肉親の情ってやつか」
「…そうかもしれへんね。そういう湿っぽさにやられたみたい。らしくないけど」
私はいった。諒は私を見つめた。二人の間に沈黙が降ってくる。諒は私の言葉の真偽を判断している。
私は嘘つきだ。理由なら確固として存在する。姉の手助けをするのは、ひとえに村岡先輩に執着しているからだ。肉親の情ではない。姉を助けることで、村岡先輩とまた繋がりを持とうと心のどこかで願っているのだ。
私は、大嘘つきの、汚い女や。
そう思った。目の前の諒に、なに一つ本当のことをいえやしない。まだ村岡先輩が好きなこと、忘れられないこと、醜くしがみついていること。先輩のことを引きずっていながら、諒を失うのも怖かった。自分でも嫌気が差すほど、勝手な女だと思った。
「…なんか、らしくないよな」
諒は目の前の闇を見つめ、呟くようにそういった。
私はなにもいわなかった。
諒は車で帰っていった。私はバイクをいつも使う塾の駐輪場に置いてあったので、最寄駅のロータリーまで送ってもらい、そこで別れた。
そのまま駐輪場まで向かえばよかったのに、つい私は姉と村岡先輩が働くショッピングモールに足を向けてしまう。エスカレーターを使い、三階へ。ほんの数十秒歩くだけで書店に辿り着く。
姉と村岡先輩が、それぞれ別の場所で働いていた。私は二人の姿を遠巻きにして見ている。二人には、自分の作業に集中するべきなのに、相手の作業が気になって仕方がない、けれど自分から進んで相手に近寄れない、というどことないぎこちなさが漂っていた。平積みの本を整理する作業をお互いにしているが、その作業の手が止まるたびに、姉は村岡先輩を見やっていた。先輩も、作業の途中で一度、姉を見た。
二人が作る空気感を、私は痛いくらい鋭敏に感じ取った。相手が気になるという思い、しかし相手になかなか話しかけられないもどかしさは、私にだって理解できる。
やがて自分から相手に話をしにいったのは、意外なことに姉だった。作業を手伝う風を装いながら、村岡先輩に話しかける。先輩が振り向く。二人してなにかを話しあい、笑いあう。二人してどこか楽しそうに、本を積む作業を進めていく。二人の目は輝き、口元にはかすかな笑みを湛え、とても優しい顔をしていた。緊張こそあれ、どんな虚飾もないように見えた。
二人のどの表情も、私にはついぞ見せたことのない新鮮なものだった。ぎこちなさと緊張が混じりつつも、先輩を優しく見つめる姉の顔も初めてだったし、無邪気さと楽しさを発散させている先輩の表情も、初めて見るものであった。
村岡先輩があんなに楽しそうに笑うのを、私は高校時代に見たことがない。記憶の中の先輩は、常に陰のある表情をして、寂しそうに笑っていた。姉に見せるような無邪気さとは縁がない人だと思い込んでいた。
二人の様子を見ているだけで、私は自分が部外者なのだと強く感じた。あの二人にはあの二人だけの繋がりがあり、そこに私が入っていくことはできないのだ。
二人して、なにを語る、なにに笑う、なにを思うというのだ。私には決してわからない。私には決して踏み入ることのできない領域が、ほんの数十メートル先に、疑いようもなく存在している。
切なさが込み上げてきて、たまらず私はその場を立ち去った。敗走兵のごとく、あるいは戦場に立つことさえ叶わず、撤退していく兵士のごとく。心を引き裂く切なさに、なにをどうすればいいというのだ。足早にショッピングモールを出て、いつもの駐輪場に停めてあった原付に乗る。
あの二人の姿を彼方に置き去りにするかのように、私は原付を猛スピードで飛ばし、家に帰った。




