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姉の旅立ち  作者: ENO
第2部 バイタルサイン
18/57

18 恋愛模様 (2)

 姉が帰ってきたのは、夜十時をだいぶ過ぎたころだった。

 最初に家の門扉が開く音がきこえ、続いて足音、そして玄関が開く音がきこえた。私は部屋にいたが、それらの音で姉が帰ってきたのだとすぐにわかった。

 部屋の外で、どさどさと階段を昇る音がする。ほどなく扉の開閉の音がきこえた。姉の足音はいつも力なく、そして扉の開け閉めは雑だ。ドアノブを最後まで掴まずに、半ば投げつけるような閉め方をするせいか、扉を閉める時の音が異様に大きい。そして、閉めるのが不完全で、扉が中途半端に空いていることがよくある。性格が雑過ぎるのだ。

 私はベッドに横たわり、携帯を弄る。眠る前に携帯を触らずにはいられない。たいていは諒とメールのやり取りをしている。現にいまもそうだ。世間一般の彼氏彼女が交わす、ただのメールのやり取り。今日なにがあった、いまなにをしているか、どんなテレビを見たか、どんな本を読んだか、次のデートはどこへいこうか。そして、気まずいことはすべてひた隠しにする。昔の片思いの相手を見かけた、かつての恋心が傷のように疼いた、姉に嫉妬するくらいいまだ執着していた。諒とのやり取りでは、一切を隠した。それすらも、世間一般の恋人たちとまるで同じの、ありふれたやり取りだ。

 先輩の背を見つめる姉の顔が、鮮明に記憶に焼きついている。嫌な予感の原因は、あのときの姉の顔にある。何気ないように装いつつも、なにかに惹きつけられているあの表情、ひたと先輩の背に視線を注ぐあの目。どんな感情も浮かんでいないように見えて、感情の迸りが想像できる顔を、姉はしていた。

 一度嫌な想像をしてしまえば、それが頭から離れなくなる。物事を現実的に、つまりは否定的かつ悪いふうに捉え、それを念頭に置いてしまうのは、私の悪い癖だった。けれど、私の嫌な想像がどうしてあり得ないといえよう。あの顔は、世界中のどの女も一度は浮かべたことのある顔なのだ。

 姉が、先輩に惹かれている。

 あってはならないことだ。いや、あってほしくないことなのだ。よりにもよって、姉の姉が、私が好きだった人を好きにならないでほしいのだ。私の淡い薔薇色の思い出が、たいして美しくもなければ立派な人格を持っているわけでもない姉という黒々としたインクに汚されるような気がする。それが、嫌なのだった。

 ベッドの上でごろごろと寝転がりながら、苦い思いを味わう。本当なら甘い行為であるはずなのに、諒にメールを打つことも、苦痛になってきた。

 諒の言葉が思い出される。

 服や髪型の相談を持ちかけてきたら、疑いが濃厚である。

 まったくもって起こり得そうな話だから困る。

 嫌な考えから逃れようと、私は諒にもう今日は寝るとメールを打ち、部屋の灯りを消す。それまで弄っていた携帯を枕のそばに置くと、ぎゅっと目を閉じた。眠ることですべてを忘れ去ってしまいたかった。

 そんな私の願いを打ち砕くように、ドアをノックする音がきこえた。私が目を閉じてから、数分後のことだ。

 最初にノックされたとき、私はきこえないふりをしたが、しつこくノックの音が続いたため、とうとう私は起き上がった。

 部屋の扉を開けた。風呂上りで寝間着姿の姉が立っていて、いつも通りのおどおどとした顔を浮かべていた。眠りを妨げられて不機嫌そうな私の顔を見て、姉のおどおど具合はさらにひどくなる。

「あっ、あの、ごめん。寝てるのに起こしちゃって」

 私が喋るより先に、姉はそういって謝る。

 びくびくと怯えたような姉の姿に、私は強くものをいうことができなくなった。くっきりした眉をふにゃりと下げて、誰かに懇願するかのような顔は、憐憫に近い感情を人に呼び起さずにはいられない。

「なんなん、どないしたん?」

 私は不機嫌さと冷たさを滲ませていった。

 姉はさらに困ったような表情を浮かべた。

「い、いや、ごめん。紗香が寝てるときにきくんやなかった。明日でも、いいんやけど」

「寝てる相手起こしといて、よくいうわ。で、なんなん?」

「いや、その…」

「なによ?」

 私は姉に迫る。

 すると、姉は決然としたように、口を開いた。

「もしさ、…もし、私がさ、男からデートに誘われたっていったら、あんたは引く?」

 ああ、なんやって。

 思わず殺気立った声を出しそうなった。意識の片隅で徘徊していた眠気が、一気に意識の圏外へと吹き飛ばされていった。私は目を見開かざるを得なかった。

 男に誘われるやて、この姉が。

 俄かには信じがたかった。

「…別に私が引くことはないけど、その誘った人のほうが気になるわ」

 私はいった。嘘偽りなく正確にいえば、姉にも引くし、誘った男にも引いている。この姉を誘うとは、どんな変わり者なのだろうか。

「どういうこと? 話きかせてよ」

 そういって私は姉を部屋に招き入れる。部屋の灯りをつけ、姉をカーペットの上に座らせた。私はベッドに腰かけ、枕を抱きながら、姉に質問を浴びせかける。

「…で、とりあえずデートに誘われたってどういうことよ?」

「そのままの意味よ。今度一緒にご飯いきましょうよって、いわれた」

「それバイト仲間何人かでご飯にいくってこととちゃうやんな?」

「なんでよ。二人でご飯いきましょうってことよ」

「…まあ、確かに食事デートやな。それで、なんで誘われたん? 誘ってもらえるようなんかしたん?」

「別になんかしたってことはないけど…。けっこう急にいわれた感じやし、びっくりして…。せやから、あんたにききにきてん」

「私になにきくんよ?」

 私がきくと、姉は少し顔を赤らめ、ごにょごにょとした口調でいう。

「…いや、その、なんていうか、デートの仕方とか、その他いろいろ。あんたの方が、そういうの詳しいし」

「…ちょっと、なんか男を手懐けている女みたいに見んといてや。別になんもできへんし…」

 そして、私たちは互いに黙り込んでしまった。

 姉の私に対する認識に、ほんの少しだけ傷ついた。姉のいうことに間違いはないだろうが、面と向かっていわれると、それは違うと否定したくなる。なにより、姉が、それまで私の口からはほとんどいわなかったはずの私の恋愛遍歴を、多少なり把握しているらしいことに、なんともいえない気持ちになった。さっきの姉の目は、売女や尻軽女を見る目と同じだった。

 しばしの沈黙の果てに、私が口を開いた。

「ていうか、お姉ちゃんにデートに誘った人って、どういう繋がりの人なん? バイト、同級生?」

「バイト先の人やねん。今日バイトの帰りが一緒になって、そしたら急に誘われた」

「それって正社員の人とか?」

「ううん、同じバイト仲間。一応ね、年下の後輩」

 姉の返事に、私の背筋は凍った。

「年下?」

「うん、私の二つ下。あんたの一個上やな」

「バイト先に、二個下の後輩って何人いるん?」

「えっ? いや、二個下は一人だけ。その誘ってきた男の子だけ。ところで、それ関係あるん?」

「…いや、なんとなくきいただけ」

 舌打ちをしたくなるのを、私は懸命にこらえた。

 姉を誘ったのは村岡先輩以外あり得ないではないか。

 金切り声を上げたくなる。表情を殺し、冷静さを装い、私は姉に質問をする。

「でも、なんでお姉ちゃん誘われたんやろな? 急にいわれるって、あんまりなくない? 仲良くなって、盛り上がって、デートならわかるけど」

「まあ、仲はわりといいんやけどね。なんか前にその子にすごい助けられたことがあって」

「なんかあったん?」

「前にお客さんからすごい怒鳴られて、しょんぼりしてたら、その子が助けてくれたっていうか、励ましてくれて。そしたら、けっこう仲良くなったっていうか、いろいろ喋る機会ができて。それで今日一緒に帰ってて、またいろいろ喋ってたんやけど、そのときの流れで食事いきましょうってなった」

 先日の出来事が、脳裏に浮かんだ。蟷螂のような男に絡まれた姉、姉のそばに立っていた男。あれは、村岡先輩だったのか。後姿だけでは、さすがに誰か判別できなかった。

「ふうん。その人、どんな人なん?」

 私はきいた。口から勝手にそんな言葉が零れていた。ただ、姉の目から見た村岡先輩は、どんな人に映っているのだろう。それが少しだけ、気になっていた。

「すごいいい子。気さくやし、優しいし、すごいよく話しかけてくれるし。ただ、なんていうんかな…」

 姉はそこから先をいわなかった。

「なんていうか、なんなん?」 

 私は姉に先をいうよう求めた。

 すると、姉はふと限りなく優しい顔になって、口の端にほんのわずかな笑みを浮かべ、こういうのだった。

「…なんていうんやろね、それでいて繊細なところもあるんよ。そこまで気にせんでいいことを、ずっと気にしてるっていうか…。もう都合よく忘れてくれてもええのに」

 私は、姉の笑みや言葉の真意が掴めなかった。

「お姉ちゃん、それってどういうことなん?」

 そう私がきくと、姉は微笑みを浮かべ、ただこういった。

「ううん、たいしたこととちゃうよ。なんでもない」

そんな姉の言葉を、私は微塵も信じていない。なんでもないなんて、あり得ない。

 頷くことも、なにか言葉を返すこともせず、私は、ただ姉を見つめていた。

 私の反応を見て、姉はいう。

「とりあえず、すごいええ子。…顔は男前かどうかわからんけど、なんであんな子に誘われたんやろね?」

「いや、そんなん私にいわれてもわからんし」

「まあ、そうやけども」

 そして姉は頭を抱え、情けない声を出す。

「どうしたらええんやろ、私。いままで男とデートなんて、したことあらへん。ねえ、紗香、助けてくれへん?」

 そういって姉は、私を見る。まったくもってだらしのない顔だ。二十三年間も生きてきて、男とデートにいったことがないというのもだらしがなく、たかがデートにいく程度のことで妹である私に救いを求めるのもだらしがない。

 それくらい自分で考えたらええやん。

 そんな悪態をつきたくなる。なぜに昔好きだった男と他の女がデートすることに、私が関わらなければならないのか。

 考えれば考えるほど、忌々しい展開になってきた。


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