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姉の旅立ち  作者: ENO
第2部 バイタルサイン
17/57

17 恋愛模様 (1)

 地元の駅に着いたのは、夕方六時過ぎだった。改札を潜り抜けて、駅舎を出た時、夕闇に彩られた空が見えた。一陣の冷たい風が吹き、季節は間違いなく冬に近づいていることを知る。

 駅前のバスロータリーには、買いもの袋をぶら下げた人たちが、長い列を作ってバスを待っていた。今の時間帯は主婦が多い。駅前のショッピングモールで買いものをすることが日常の業務となっている彼女たちには、疲れたような、放心したような、かすかな輝きさえ失った虚無的な表情しか見て取れない。楽しそうな表情は、彼女たちの繰り返す日々のどこで生まれるのだろう。

 虚ろな人々を横目に、私は歩く。そして、まったく別の人々を見かける。

 関係性を周囲に誇示したい意識がむき出しの、繋ぎあう手と手。世間の倦怠や辛苦をなにも知らず、試験管の中で純粋培養されたような日々に生きる、十六か十七の高校生の恋人たち。親に買ってもらった学生服を中途半端に着崩し、お洒落を気取っている。浅くもなければ深くもないだろう二人にしかわからない会話をして、恋人ごっこに夢中になっている。そんな高校生二人の顔には、大人たちが決して浮かべることができないであろう純粋さや、歓喜や、輝きがあった。

 高校生たちをちらと見るだけでも、自分の高校時代が懐かしくなる。もっとも、いま目の前を歩く高校生二人のような関係は、私には築けなかった。彼らのように両想いで、甘く、理想的な関係など、一回も築いていない。

 一瞬、あの先輩のことが脳裏をよぎった。私は慌ててその残像をかき消す。思い出したところで、どうにもならないのだ。ただ、切なくなるだけ。

 高校生たちは私とは違う道をゆく。私はいつもの癖で、ショッピングモールに入っていく。平日ではあっても、ここのショッピングモールはほどほどに人で溢れている。主婦や学生の姿が目立つ。

 ショッピングモールの奥にある雑貨屋を目指して、私は歩いた。フロアの中央部にあるエスカレーターのそばを通り過ぎるとき、私の足は止まった。

 エスカレーターで上階へ昇っていく男の横顔。髪型は変わっていたが、その顔は忘れるはずもなかった。

 髪の毛が逆立つような感覚に襲われる。

 村岡先輩や。

 私の足は、見事なまでに動かない。足首を鎖で繋がれたかのようだ。

 昔特徴的だったパーマのかかった髪型が、いまではストレートになっている。だが、髪の色は昔と変わらず黒だった。先輩の服装に目を向ける。青のカーディガン、その下には白のワイシャツを着ている。ズボンは黒のジーンズだ。着こなしのよさと服装から滲み出る小洒落た雰囲気も昔のままだった。

 懐かしさと気まずさ、私に振り向いてほしい気持ちと振り向かないでほしいという気持ちがぶつかり合う七秒間。エスカレーターは心憎いほど、ゆっくりと上昇してゆく。先輩は、こちらを振り向くことはなかった。

 高校以来、全然会っていなかった。最後に会ったのは、村岡先輩の卒業式だった。人でごった返す渡り廊下で、短い立ち話をした。受験が終わり、志望校に合格したという話を先輩からきかされた。私は素直に喜んだが、そこで彼に自分の想いを伝えることはできなかった。そして、それっきりだった。先輩は、私を覚えているだろうか。それさえもわからなかった。

 なにも見なかったふりをして、このまま立ち去ろうか。私はそう思った。何年かぶりに先輩と顔をあわせることが、とてつもなく気まずく感じられた。ありきたりな先輩と後輩の再会を果たせるだろうか、それとも私は忘れられていて、ぎこちない再会を果たすのだろうか。私は、かつての恋情を抑え込んで冷静でいられるだろうか。考えれば考えるほど、踏み出そうとする足が重くなる。

 数秒だったのか、数分だったのか、私は過ぎゆく人の中で、立ち止まっていた。不意に、私の肩と誰かの肩がぶつかった。そのはずみで、一歩足が出た。それまでの思考が一気に弾け飛んだ気がした。一歩踏み出しただけで、なにもかもが変わる。動け。私は私自身に考える暇を与えず、早足で歩き始めた。

 エスカレーターを駆け上った。三階へいこうとする先輩の後姿が見えた。私も三階へ上る。書店の方向に彼は歩いている。

 偶然を装う気はなかった。そのまま近づいて、声をかければいい。

 私が、村岡先輩、と声をかける寸前で、彼が先に元気よく声を上げる。

「あっ、寺田さん」

 自分の名を呼ばれたと思い、私の心臓は激しく鳴った。だが、先輩は私に振り返ることなく、前に駆け出していく。

 先輩の前に女がいて、その女に声をかけたのだとわかった。

「寺田さん、お疲れ様です」

 昔と変わらぬ声で、変わらぬ爽やかさで、彼は挨拶をする。

 黒髪の女は、少しどぎまぎしたようで、ぎこちなく彼の挨拶に応える。積み重ねた文庫本を両手に持っている。本をどこかへ運ぶ作業の途中だったらしい。

 私はとっさに物陰へ隠れる。心臓の鳴りが収まらず、思考は混乱している。

 なんで。なんでなん。

 こともあろうに、お姉ちゃんと先輩が、同じバイト先だというのか。

 挨拶をして、先輩はそのままバックヤードに向かう。姉は本を抱えたままで、先輩の背を見送る。姉の視線はまるで吸い込まれるように、先輩に向いている。

 姉の仕草に、私は嫌な予感がした。

 カーディガンを脱ぎ、制服のエプロンを着けた村岡先輩がバックヤードから出てくる。再び姉に駆け寄り、作業の手伝いを始めた。

 私の位置からでは、二人が交わす会話はきこえない。本の平積みや棚の整理をしながら、二人は楽しそうに話をしている。口の動きや手ぶりが姉より先に出るのを見る限りでは、会話を振っているのはもっぱら村岡先輩のようだ。会話が進むにつれ、姉の顔が自然と柔らかで、明るくなっていく。

 過去がフラッシュバックする。文化祭の委員会、夕暮れの教室、先輩と二人でした会話。時間は流れても、人の仕草はさして変わらない。たぶん先輩の口調や口癖も変わっていないのだろうなと推測する。同年代にはない、垢抜けた感じと爽やかさ。

 どんな話をしているのだろう。くすくすと笑いあう二人が、羨ましく思える。よりにもよってあの姉が、私がかつて好きだった男と話をしているのだ。気にならないわけがない。

 近づきたいのに、近づけない。私はただ、建物の柱の陰に隠れ、様子を伺うことしかできなかった。ほんの数分前まで、先輩に声をかけようとした勇気は消え去っていた。

 姉と村岡先輩は会話をしながら、作業を続ける。姉が手に持った本を本棚の高いところに収めようとするが、背丈が足りずに届かない。その様子を見た先輩が、すかさず姉のかわりにその本を収める。助けてもらった姉のはにかむ顔が、憎らしい。自分でも驚くほどの黒い感情が、湧き上がってくる。潰えた片思いなのに、そして自分には彼氏もいるというのに、なぜ嫉妬とも怒りとも憎しみともいえる感情を抱くのだろう。もしかすると、あのころの私はついぞ見ることができなかった村岡先輩の優しげで穏やかな顔や表情を姉が見ているからかもしれない。誰もが近づくのを遠慮するような剣呑さを、誰にも知られず私は放出する。

 やはり嫌な予感がする。具体的になにがどうこうというわけではない。ただ、私の五感が、この先起こるだろう私にとってよくはない事態を警告している。

 駅前で見たあの高校生たちのように、外界から隔離されたような無邪気さで会話し、作業する二人を見ているのが、だんだんと辛くなってきた。

 よりにもよってなんであの姉とやねん。

 そんな思いになる。二十三年間も干からびた人生を送っていた姉が、高校時代に気が狂うほど恋をした憧れの人と軽々しく話をして、笑いあっている。

 舌打ちをして、私はその場を立ち去った。いつもの塾の駐輪場に向かい、バイクを走らせた。

 風が、強く私の頬を打つ。もっと強く打てばいいのに、と私は思う。あの光景を見た旨の痛みを、そして姉を蔑み、嫉妬し、羨望する私の醜い心を、強く打つことで清めてほしい。

 なんで私は、こないに醜いんや。

 夕と夜のちょうど中間にある時間帯が生む独特の薄い闇の中を、原付で疾走する。学習塾や美容院ぐらいしか入ってないだろう中層ビルの群れや宅地開発の波に呑まれつつある田園、一日の作業を終えて静まり返る直前の工場を通り過ぎていく。

 やや冷たくなった十月の風は、薄着の私に容赦なく吹き荒ぶ。それでいい。剥き出しの肌に感じる痛みが、私の醜悪さを浄化してくれる。昔の恋にいまだしがみつく私を、どうか彼方へ押し流してほしい。

 痛みをぐっとこらえながら、さらに私は加速する。国道を越え、坂を上り、家にたどり着く。

 バイクを停めて、力なくヘルメットを脱ぐ。とぼとぼと玄関に向かい、扉を開ける。お母さんの声がする。

「おかえり。あら、あんたなんか疲れた顔やん。どうしたん?」

 キッチンで晩御飯の支度をしていた母は、暢気な顔でそういった。

「ううん、なんもないよ。今日の授業が大変やっただけ」

 そう私は嘘をつく。

「あっそう。大変真面目なことで、お母さん感心やわ」

 さして感心したようでもないのに、母はそういった。

「あー、なんかしんどい」

 私はそういって、疲れを紛らわせるために大きく伸びをする。

「ねえ、お母さん」

「なによ?」

「昔のことを忘れるのって、意外と難しいねんなあ」

「そうなん? 年取ると忘れてばっかりやけど」

「私も時間がたったら、そのうち忘れてしまうんかな?」

「時間がたてばたつほど、いろんなことが起こるからね。目の前のことに必死で、昔の事なんて夢幻みたいになってまうわなあ。…それはそれでええとは思うけど」

「なんでなん?」

「昔のことより、いまのほうが大事やからよ。昔のことをあれこれ考えてても、いまなにがどうなるってわけちゃうやん? 昔のことなんて、ぼんやり忘れていくくらいがちょうどええんや」

「ふうん」

「…なんか小難しい話になったけど、どうしたん、急に? なんかあったやろ?」

「ううん、なんもないよ、お母さん」

 そういって、私は二階に上がった。

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