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姉の旅立ち  作者: ENO
第1部 京都の大学生
10/57

10 口笛男 (2)

 許せへん。

 私は、小さく呟いた。女にあそこまで執拗に迫り、怒鳴る男が許せなかった。酒に酔った男の様にも腹が立つ。私には、酔っぱらったついでに男は絡んだようにしか思えない。姉は、たまたま目をつけられた犠牲者ではないのか。

 男は書店を出て、エスカレーターの方向に向かう。私は、男を追った。十数メートルの距離だ。ちょっと早足になるだけで、すぐに追いつけた。

 夜八時を過ぎたショッピングモールは、どのフロアも、どの店舗も閑散としている。本来人が行き来するはずの通路やエスカレーター周辺にも、ほとんど人はいなかった。

つまりいま私の周囲にいるのは、姉を怒鳴りつけたその男だけ。対峙するにはちょうどいい。

 男がエスカレーターのステップに足をかける直前、私は男の背中に声を投げかける。

「ちょっと待ち」

 男が振り向く。近くで見ると、やはり蟷螂そっくりだと再認識する。男の大きな目が、酔いのせいで所在なくゆらゆら揺れる。それでも私を認識したようで、即座に声を発する。

「なんや、お前は?」

 乱暴な口調。男の首にかかるネームストラップが、だらしなくもつれている。それなりの名前が知れた企業に男が勤務しているとわかる。だからこそ余計に腹が立つ。

 私は怯えることなく、男にいう。

「さっき女の人に絡んでましたよね? あれ、ちょっとやり過ぎやと思いませんか?」

 私も怒りのせいか、ひどく険しい口調になる。

「あんたになんの関係があんねん。やり過ぎもなにも、俺は客として店員に文句つけただけや。なんもやましいところなんかあらへん」

 男は鼻息荒くいった。喋り終えると、肩が呼吸にあわせ上下する。

「あの店員さん、いまにも泣きそうな顔になってましたよ。怒鳴られてる間、ずっと謝り続けてたやないですか。あんなにしつこく大声あげて迫るなんて、やり過ぎですよ」

「なにを。なんや正義面したいんかわからんけど、俺は客として正しいことをしたんや。店や店員の手落ちを非難しただけや」

「いくら客でも、程度ってもんがあるでしょう。失礼ですけど、さっきのはもはや難癖ですよ。女に絡んでいびったようなもんでしょう」

「なんやと。俺が女をいびったちゅうんかい」

「そうとしか思えませんね」

「ほお、いいよるやんけ。何様のつもりじゃ、このボケが」

 男は姉にしたような怒鳴り方を私にもする。私は動じず、冷ややかに男を睨む。

「そうやって私にも絡むんですね。あれですか、女にしつこく絡むのが趣味ですか?」

 私はことさら憎たらしい口調でいってやる。

 男がさらに怒り狂うのがはっきりとわかった。そのぎょろっとした目が、さらに大きく見開かれたからだ。

「このあま…」

「殴るんやったら殴ったらどうです? 警備員さん呼ぶことになりますけど。それで私とあの店員さんに頭下げてもらいましょうか」

「生意気なこといいやがって…。なんのつもりや」

「私は、あなたの行動はやり過ぎだから、あの店員さんに謝ってほしい。それだけです」

「はっ、正義の味方気取りか。けどな、俺は悪いところなんかあらへん。謝る気なんてさらさらないわ」

「客として店に文句つけるのは正しいと思います。けど、それにも加減や程度があるんとちゃいますか? あそこまでする必要がありましたか?」

「不手際起こしたんやから、あそこまでいわれて当然やろ。なんもおかしいことあらへん」

「普通の人なら、文句をいっても、あそこまで怒鳴ったりはしないはずですよ」

「それはその人の場合で、俺とはまた違う」

「…あの店員さん、目に涙を浮かべてたんですよ」

「そんなん俺にいわれても知るか。あんな礼儀もなんもしらん、辛気臭い女のことに、なんで俺がいちいち気にかけなあかんねん」

「あんたが難癖つけて詰め寄るからでしょう」

 私は思わず怒鳴った。

 突然の私の剣幕に、男の肩がわずかにびくりと震えた。男が書店でやってのけたように、場の空気が一気に極限まで張り詰める。

「本なんて他の店でいくらでも買えます。表紙が破れてたからって、大声で吠え立てるほどのことでもないでしょう。酒に酔ったついでに、女をいびってみよう。そんな気持ちで、あの店員さんに絡んだんでしょ」

「なんやと…」

 痛いところをつかれたのか、男は苦い顔をする。

「大の大人が、たかが表紙が破れてただけで怒鳴り散らすなんて、考えにくいって私はいってるんですよ。酔いに任せて、女に絡んだんやろうが」

「なんやねん、このあまっ」

 男が激昂し、私に掴みかかろうとした。

 私は肩にかけていたバッグを手に持って、男に向けて思い切り振った。レジュメや教科書が入った、それなりの重みがあるバッグが、男の顔面にぶつかる。男の眼鏡がずれる。酔いで判断が鈍っていたのか、男はバッグを回避できなかった。衝撃で男はよろめく。

 私はその一撃だけでは足りず、男に間近まで近寄り、男の右足をブーツの踵で踏みつけてやった。全体重を踵に乗せる。ぎりっという生々しい音がするまで、体を捻るようにして踵を食い込ませた。先ほどのバッグの一撃と、この足への攻撃があわさって、男は苦悶の声を上げる。踵を足から離した。数歩下がり、またバッグを振って、顔面にぶつけた。今度は眼鏡が吹き飛ぶ。二度目の衝撃に、とうとう男はよろめいて倒れた。

 男の、呆然とした表情。まさか女にここまで殴られるとは思っていなかったのだろう。

 頭に相当量の血が上っていた。私は男にいってやる。

「さっきあんたがいびってた店員はなあ、私のお姉ちゃんや」

 その一言で、男の目がさらにぎょっと見開かれる。床に無様に倒れながら、私を見上げている。

「姉やから特別庇ってるわけちゃうけど、私はなあ、立場にものいわせて人をいちびる人間が大嫌いなんや。あんたみたいな人間、こっちがええ加減にせえよやわ」

 私はそういい、燃える目で男をきっと睨みつけてから、踵を返して書店の方向に歩き出した。

 男は私の一喝に意気消沈したのか、床にしばらく座り込んでいた。私は男が怒り狂って追いかけてくるかと思ったが、結局追いかけてはこなかった。

 お姉ちゃんの敵討ちやない。立場にものをいわせ、女にしつこく絡んだあの男が許せへんかった。それだけや。

 歩きながら、私は自分にそういいきかせた。

 書店に戻った。ほんの少し前の殺伐さが嘘のように消え失せ、閉店間際の寂しげな空間が広がっている。店内には早くも蛍の光が流れている。

 私は姉を探した。一言くらい、声をかけてやりたかった。

姉は客の目を避けるように、店の端にいた。同僚と思しき若い男が、姉につき添っていた。ちょうど私に背を向けるようにして男は立っていて、顔は見えなかった。姉の表情ははっきりと見えた。まだ落ち込んでいるらしく、暗い顔で時折鼻を啜っている。涙目になっているのは変わらなかった。けれど、姉は決して手で溜まった涙を拭こうとはしなかった。泣き出しそうにはなっても、泣かない、涙は拭かない、それが姉の意地なのだろう。

 同僚らしき男は、姉を慰めているようだった。姉より頭一つ分ほど背が高く、どちらかといえば細身で、黒い髪をしている。彼が姉にかけている言葉はここからきき取れない。

 その光景を見ていると、私は姉に声をかけないでおこうと思った。人を慰めるのは、もともと得意ではない。ましてや、私が姉を慰めるなど、滅多にないことだ。姉を慰める役は、あの男に譲っておこう。

 私は姉に見つからぬよう、顔を隠すようにして書店から立ち去った。男をバッグで殴りつけたエスカレーターのところまで戻ったが、そこに男の姿はなかった。

 怒りに任せて、やり過ぎてしまったな。

 そんなことを思い、少しばかり顔を顰める。エスカレーターのステップに足を置こうとした時に、背後から声をかけられる。

「あの、お姉さん」

 慌てて立ち止まり、私は背後を振り返った。

 見知らぬ男性が立っていた。大人しそうな顔をした、どこにでもいそうな中年男性。顔立ちはそれなりに整っていて、柔和な雰囲気。その雰囲気に私はなぜか初恋の先輩を思い出した。あの先輩が歳を取って老け込んだら、いまの目の前にいるこの男性ようになっているのだろうか。

 突然男性に声をかけられて、私は竦んでしまう。人にいきなり声をかけられると、誰でもそうなってしまうだろう。

「これ、あなたのでしょう?」

 男性はあるものを私に差し出す。青色の装丁をした、私の手帳だった。

「…どうして?」

私は思わず呟く。

 男性はにやりと笑う。男性のそのにやりとした笑い方は、私がこの世で一番嫌いな笑い方だった。そのにやつきは、私に過去の嫌な記憶を思い出させる。そのにやつきは、人間の持つ酷薄さや情け容赦のなさを表しているように見える。

「どうしてって、あれだけ派手にバッグを振り回すと、ものの一つや二つはバッグから飛び出てもおかしくはないでしょうな」

 男性はいう。

 私は赤面する。男性は見ていたのだ、あの蟷螂のような酔っ払いと私が争っている場面を。赤面すると同時に、背筋に冷汗がどっと流れる。この人はなにを思ってあの場面を見て、そして私に声をかけてきたのか。

 私は彼に頭を下げ、手帳を受け取る。男性に感謝の言葉をはっきりと述べることもなく、足早にその場を立ち去った。男性の顔を見ないようにずっと俯きながら、私はエスカレーターを駆け下りていく。

 お姉ちゃん、大丈夫かなあ。

 エスカレーターを駆け下りながら、なぜか私は姉のことを思った。昔から、人に罵られることはあっても怒鳴られる経験が少ない人だった。だから、さっきの出来事は相当に辛かったはずだ。塞ぎ込みはしないだろうか。わずかながら、不安に思う。

 姉は嫌いだ。けれど、心配しないというわけではない。


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