1 死んだというのは聞かないが
私は、姉が嫌いだ。なぜなのかは、わからない。
物心ついた時から嫌いだった気もするし、ついこの前嫌いになった気もする。人が人を嫌いになる理由なんて、明確に説明できるものからそうでないものまで、千差万別、てんでばらばらであろう。
私はなぜ姉を嫌いになったのだろう。そんなもの、覚えてやいない。だが、事実として、私は、いつどんな時でも姉にいらついていて、嫌っている。
いま、姉は洗面台の前に立って、顔を水で洗っている。それからそのぼさぼさの髪を整えるとか、化粧をするとかいうわけではない。ごしごしと顔を洗い、白いタオルに顔を沈める。そして、一階のリビングに下りていく。
私は、その姿をドン引きしながら見ている。
姉が去った後、洗面台のカウンターを見下ろす。ぞっとする。姉の野暮ったい黒髪が、何本も落ちているではないか。水滴も飛び散ったままだ。ちゃんと綺麗にしていけよ、と心の中でぼやく。まさかと思って三面鏡を開く。鏡の裏にあるトレイには、私の櫛やドライヤー、歯ブラシなどが置いてある。プラスチックのコップに差してある歯ブラシが、濡れている。姉が、私の歯ブラシで歯を磨いた証拠だ。腹が立つ。自分の歯ブラシを使えよ。
私は声を上げる。
「もうお姉ちゃん、私の歯ブラシ使うの止めてよ」
あからさまな嫌悪の声を、家中に響かせる。
私は数えている。姉が私の歯ブラシを使うのは、これで四十三回目だ。何度注意をしたとしても、姉はそれをきかない。だから私は腹が立つ。腹が立つあまり、姉ちゃんの悪行は記憶に焼きつくのだ。
姉からの返事はない。私が毎度声を張り上げることに、慣れてしまったのだ。なんの返事もしなければやり過ごせるとでも思っているのか。
気分がむしゃくしゃする。なんで朝からこんな気分になるねん。心のぼやきを抑えられない。このむしゃくしゃした気分のまま、私は髪を整え、化粧をする。なんだか普段より化粧の乗りが悪い。そのことにまた腹が立つ。
結局、普段よりも二十分以上時間をかけて化粧を終えた。
私は、鏡に映る私自身の顔を見つめる。私の顔はどうも要点をはずしている。瞼は二重だが、それほど目は大きくない。鼻は中途半端な鷲鼻で、ぴんと鼻筋が通っているわけでも立派に鼻尖が突き出ているわけでもない。笑うと私の鼻の大きさがよくわかる。私の顔で一番の問題なのは頬と輪郭だ。まず生まれつき頬に肉がついていて、これ以上少しでも太れば顔がぱんぱんに見えてしまう。輪郭も丸い。この生まれつきの顔の丸さが、私の顔立ちを平凡なものにしている気がする。そのため、私は髪を頬に垂らし、輪郭の丸さを上手くごまかしている。髪の色は、少し暗めの茶色だ。明る過ぎる髪色は、私の好みではない。真面目そうだけど、垢抜けた女子大生。それが私の目指すところだ。とびきりの美人ではないけれど、可愛い感じの女の子。友達はよく私をそんな風に評する。私の計画通りだ。
人間、生まれ持ったものを簡単に変えることはできない。なら、頭を使って上手く取り繕うのみだ。
私は私の平凡な顔を怒りで歪ませながら、一階へ降りる。だんまりを決め込む姉に、痛烈な文句をいってやるのだ。勢いを強めにダイニングの扉を開ける。開口一番に目に飛び込んできたのは、テーブルに突っ伏する姉と、そんな姉などお構いなしに朝食を食べる両親の姿だった。
これが、我が家の食卓の風景である。特別な風景では決してない。毎日毎日繰り返される風景なのだ。
「ちょっとお姉ちゃん、また私の歯ブラシ使ったやろ」
私はいう。
姉は、まったく反応しない。ぼさぼさの長い黒髪が、テーブルの上に広がる。
「もうええ加減にしてや。人の歯ブラシ使わんといて」
憤慨の調子を強めて私はいった。この声の調子は、自分でもきついなと思う。
姉は突っ伏して眠り込んでいる。だが、私にはそれが演技だとわかる。伊達に何年もこの人の妹をやっているわけではない。姉は、必ず私の言葉をきいている。きっと細かくて面倒な妹だな、と思っているはずだ。
父と母は、この光景を見慣れているからか、黙々と朝ご飯を食べている。私たち夫婦は、あなたたち姉妹の諍いには関与いたしません、というような雰囲気を二人は醸し出している。そしてやけに柔和な表情をしながら、二人して朝の情報番組を映すテレビに視線を向けている。
姉は、身動き一つしない。私の姉は朝に弱い。起きてから一時間は眠気が消えないらしく、食卓に着いてからも、今のような状態になることがしばしばだ。本当に眠っているわけではなく、眠気で朦朧とした状態なのだろう。まったくもって自堕落だ。だが、なんにせよ姉が眠気を理由に私の詰問をやり過ごそうと決め込んでいるのは間違いない。その姿に私の怒りは煮え滾る。
「眠ってる振りしてんのもわかってんねんで。ほんま、次また同じことしたら、私、お姉ちゃんのこと絶対許さへんからね」
刺々しさを剥き出しに、私は言葉の刃を姉に刺し込んでいく。ここまできつくいわないと、姉はいうことをきかないのだ。
姉の首が少し動いて、仁王立ちする私をちらと見る。私の怒り具合を察したのだろう。乱れに乱れた黒髪の隙間から、姉の眠たそうな表情が見えた。
「ごめんな。次から自分のでする」
そういって、姉はこと切れたようにまた突っ伏する。謝罪の気持ちなど微塵も感じられなかった。とりあえずごめんといえばことがすむと姉は思っているらしい。世の中を舐め切っている。私の心は氷のごとく冷徹だ。とりあえずの謝罪など、これっぽっちもいらないのだ。
私はまるでゴミでも見るような目で姉を見下ろす。もはやなにもいうまい。次また私の歯ブラシを使えば、その時は徹底的に姉を侮蔑するだけだ。
私は気持ちを切り替え、席に着く。卓の上には、暖かい白ご飯、お味噌汁、卵焼きが置かれてある。母が作ってくれたものだ。
いただきます。手を合わせて、はきはきとした声でいう。
母は、いつも他の家族より早くに起きて、朝ご飯を作ってくれる。たまに寝過ごして朝ご飯が用意されてない時もあるにはあるが、それでもほぼ毎日おいしいご飯を作ってくれるのだ。私は、朝のニュースをのほほんと気楽な顔で眺める母に感謝しながら、ご飯に箸をつける。私は、母のお味噌汁と卵焼きが大好きだった。お味噌汁の味は濃いめで、必ず大根と油揚げが入っている。卵焼きは味付けにマヨネーズが入っていて、独特の美味しさがある。この二つと白ご飯があるだけで、朝食には十分だった。
我が家の朝食に、会話はない。テレビからの音声だけが、流れている。私たち姉妹も、両親も、朝食の時に会話をすることは珍しかった。たぶん、眠気を堪えるのと食事に夢中になっているためだと思う。
黙々と三品すべて綺麗に食べ終えると、私は再びはきはきとした声で、両親にもきこえるようにごちそうさまでした、という。
私の性格は冷徹だが、親への感謝の気持ちがないわけではないのだ。
私が席を立った時になってようやく、父が口を開いた。
「今日は一限から授業か?」
「うん、もうすぐ出る」
私はいった。
「真面目だねえ」
父は感心したようにいう。
「なんなん、それ」
私はちょっと笑う。一限から授業に出ることがなぜ真面目なのだろう。私にとっては、至極普通のことなのに。
「父さんが学生のころでも、みんな授業は昼から出たり、それどころかさぼったりするのが当たり前やったけどなあ」
「一限からある以上、どうしようもないもん。それに、この授業必修でさぼれへんから、いくしなないねん」
私はいった。
「…そういうとこが真面目だねえ」
父さんはまた同じ言葉を繰り返す。感心しているのか、風変りだなと思っているのか、私にはわからない。
「とりあえず学校いくわ」
私はそういって、自分の部屋に戻る。大学へいく準備をしなければならない。
姉は、相変わらず突っ伏していた。