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その参(終)

        ◇


 甚兵衛は力の限りに町を駆け抜けた。脇に帯びた刀を握り、時には横道から現れる町人を避けて。

 店主の話だと、買い出しに出たきり、おすずが帰って来ていないとのことだった。話を聞いた甚兵衛は、妙な胸のざわつきを覚えた。

 この不安に心当たりがあった。あの日、おすずが破落戸に襲われそうになった時、庄右衛門が助けに入って事なきを得たと思った。

だがもし、その破落戸が、ただの破落戸ではなく、ヤクザ者で暴力団組織に組みする者共だったら。

 恥をかかされた報復に、庄右衛門を狙うかもしれない。おすずを誘拐する事も十分あり得る。もしも人質としてでも扱われたら。

 甚兵衛の考えは、全くの憶測である。もしかしたら、心配性の店主の早とちりで、おすずが寄り道をしているだけかもしれない。何か事故があって(それはそれで心配だが)遅くなっているだけかもしれない。

 それでも甚兵衛は、考えられる最悪の憶測に体を動かした。

 甚兵衛が向かったのは町外れの古い御堂だった。

 暴力団が庄右衛門に報復するなら、庄右衛門の得た情報も奴らの仕組んだことかもしれない。

 町の外れまで来た甚兵衛は、ふと地面に何か落ちているのに気づいた。見覚えのある櫛はおすずの物で間違いない。甚兵衛の憶測は確信へと変わっていった。



 木や竹が雑然と建ち並ぶ林の中に御堂はあった。御堂の柱や壁は、まるで大嵐の後のように崩れ、漆の剥がれた彫り物からは黒か赤かはっきりしない、気味の悪い色が噴き出していた。しかし、なかなか立派な造りをしていて、寺と言ってもいいくらい、大きな御堂だ。

 辺りは静まりかえっていたが、微かに御堂の中からは人の気配がした。何よりも見張りと思しき男が二人、正面の板敷きであぐらをかいていた。

 甚兵衛は近くの木々に身を潜めた。体は熱を帯びている。今の彼に竦みや震えなどは微塵もなかった。

 まずは庄右衛門の姿を探してみるが、見あたらない。すでに中に入っているなら、それなりの騒ぎになっているはずだ。まだ到着していないのだろうか。だが、今はそれよりもおすずだ。ぐずぐずもしていられない。甚兵衛は勢いをつけ、一か八かで飛び込む事にした。

 しかしその時、背後に気配を感じ取ることが出来た。甚兵衛は考えるよりも体が動き、抜き身の構えをとって振り返った。

 そこには、庄右衛門が険しい表情で立っていた。

「庄右衛門、殿」

 甚兵衛に声が漏れる。向こうも彼に驚いたようで、目を丸くして言った。

「なぜお前がここにいる」

 甚兵衛はどう応えたものか頭を巡らせた。しかし、時間がない。

「おすずがヤクザ共に……」

それだけ言うと、庄右衛門の目が怖いくらいに見開かれた。彼はすぐに甚兵衛の側まで寄り、「確かか?」と問いかける。

 甚兵衛は先ほど拾った櫛を見せる。

 それを見た庄右衛門が小声で言う。

「俺は中にいる奴らに用がある。正面から行けば奴らを引きつけられる。その隙に裏手から回っておすずを助けるんだ」

「それでは、庄右衛門殿が……」

「よいか」

 厳しい口調。

「今が、守るべき者を守る時だ」

 その言葉にはっとした。甚兵衛は、発しようとした声を必死に堪え、小さく頷いた。



 手はず通り、庄右衛門は堂々とした態度で、正面から御堂に向かった。

 当然、見張りの者に気づかれ、それから間もなく騒ぎが起き始めた。

 その隙に甚兵衛は林に身を潜めつつ、御堂の裏手に回る。

この建物にどれだけの人数が潜んでいるのか知らないが、少なくとも裏手の方に人気はなかった。皆が皆、庄右衛門に気を取られているわけではないだろうが、人がいないならそれに越したことはない。今の内に御堂に近寄る。大きいだけあって、出入り口は正面だけではないらしい。

裏口からこっそり中の様子を窺い、甚兵衛は建物内へと潜入した。

できるだけ物音を立てないように進んでいくと、突き当たりに引き戸があった。小さな隙間程度に戸を開け覗くと、そこは仏殿のようで、見るも無惨に色褪せた観音像が奉られていた。耳を澄ますと何か言い争うような声が聞こえる。聞き覚えのない男の声に混じって、庄右衛門の声もした。

ここは正面口と繋がっているのだとわかる。

もうわずかばかり視界を広げようと戸を開ける。その時、甚兵衛は部屋に残っている数人の破落戸と、部屋の隅で縛られているおすずの姿を確認した。

甚兵衛は自分の鼓動が跳ね上がるのを感じた。思わずこのまま飛び出してしまいそうだった。しかし、それでは庄右衛門が敵を引きつけてくれている意味がない。逸る気持ちを抑え、甚兵衛は機会を待った。

そして、その機会はわりと早くにやって来た。

外の方で怒号が響いたのだ。地を揺らすがごとき轟音は、戦闘の始まりだった。部屋に残っていた連中も大声を張り上げて外へと出て行った。

今だ。

素早く戸を開け、部屋を横切り、おすずの側に寄る。

気絶させられているだけで、目立った外傷や乱暴された様子はない。そんな彼女を見て、ひとまず甚兵衛は安心した。

 だがすぐに気を引き締めた。戦いはすぐ外で繰り広げられている。いつ気づかれても不思議でない。

 甚兵衛はおすずを縛り付ける縄を刀で素早く切り、体を揺さぶり呼びかける。

「おいっ、おいっ」

 声に反応して、彼女がゆっくりと目を覚ました。

「甚、さん……」

 初めは朦朧とした声を出したおすずは、すぐに意識をはっきりさせ甚兵衛の名を再度呼んだ。

「甚さんっ」

 おすずが甚兵衛にすがりつく。

 しかし、甚兵衛は急かすようにおすずの手を取り立ち上がる。

「さあ、早く」

 その声に応え、おすずも立ち上がった。

 戦闘中の屋外を横目に裏口へと向かう。

庄右衛門は無事だろうか。

 一瞬の躊躇で外に目をやる。が、庄右衛門の姿を確認する前に、こちらに向けて放たれた叫び声を聞くことになった。

「なんだテメェは」

 見つかった。

 焦りと恐怖が自分の内より湧き上がる。おすずの手を強く引き、裏口へと走る。

「待ちやがれ」

 声の主は当然のごとく甚兵衛達を追ってきた。

 不安、恐怖、焦燥の感情はすでに甚兵衛の全身を覆っている。林まで逃げ切れば藪に身を隠しつつ逃げおおせる事ができるかもしれない。

 そんな淡い期待など持ったが、あまりに見つかるのが早かった。加えて、おすずの手を引きながら追っ手を振り切れるとも思えなかった。

 甚兵衛は戦々恐々とする体とは裏腹に、冷静になっている思考を憎らしく思った。

 何とか裏口を抜け外へと飛び出す。

 ここで甚兵衛は足を止め、おすずを林の方へと促す。

「甚さん」

 おすずの悲痛な声が耳に届く。

「逃げろ。私が食い止めておく」

 彼がそう言った時には、すでに追っ手も足を止めていた。追っ手は三人増えていた。奇しくも見覚えのある三人だった。木刀を持った長身と、筋肉質と小太り。以前おすずを囲い、庄右衛門に追い払われた三人だ。違うのは、その時は素手だった筋肉質と小太りが、長い棒を武器として持っている事だ。

 甚兵衛には、庄右衛門のように刀を抜かずして倒すなどということはできない。彼自身もそれを十分承知していた。

 甚兵衛は脇差しに手を伸ばすと、一気に鞘から引き抜き、構えをとった。

 刀を抜かれて、筋肉質と太った男は身を竦めたが、長身の男だけは平然としていた。そして、彼は太った男を睨みつけ、「行け」と顎で命令した。

 太った男から、血の気が引くのがわかった。冷や汗をだらだら流し、全身が痙攣している。この男は以前、庄右衛門と対峙していた時も、何もせず、真っ先に逃げ出していた。どうやら、もとは小心者のようだ。

 動こうとしない彼を、長身の男は背後から蹴りつけ、無理矢理前へ出した。その瞬間、悲鳴とも叫びともつかぬ声が、彼から溢れた。

 甚兵衛は迫りくる太った体を何とか躱し、彼の頭部目がけて刀を振り下ろした。だが、甚兵衛自身、やはりまだ恐怖心が残っていたのであろう、刀を振り下ろしたのは良いが、当たったのは刀の腹の部分であった。それでも太った男は、斬られたと思い、そのまま失神してしまった。

 間髪を入れずに、筋肉質の男が飛び出してきていた。この男もやはり動揺の色は隠せないようであった。咄嗟に甚兵衛は刀を振った。敵の棍棒を掠め、顔面に峰打ちが入った。

 残るは長身の男のみとなった。

「野郎、あまり調子に乗るなよ」

 そう言うと長身の男は、木刀を構えた。と思ったが、男は右手に木刀の柄を握り、左で刃とも言うべき部分を持った。木刀を両手で水平に掲げたのである。すると、乾いた金属音と共に、刃の根本から、本物の刃が顔を出した。

 甚兵衛は驚きを隠せなかった。彼は内心、敵の武器が木刀なら、と安楽に考えていた。一撃二撃打たれても死ぬことはないと。しかし突然、命の関わる戦いとなってしまった。

 そうすると、急に甚兵衛は、治まったはずの恐怖と震えに襲われた。徐々に震えが全身を支配していく。頭が真っ白になり、意識が遠退きそうになる。竹刀での試合とは違う、本当の真剣勝負という恐怖の塊に、甚兵衛は戦意を失いつつあった。

 しかし、長身の男はそんな甚兵衛に構うことなく攻撃を仕掛けてきた。男の一撃が甚兵衛を襲う。はっとして甚兵衛は逃げるように後ろへ退く。ところが敵はそこから突きを放ってきた。甚兵衛は思わず「わぁ」と叫び刃を振るった。金属のぶつかる音が響き、敵の切っ先は上手い具合に弾かれた。それで敵の体勢が僅かに崩れた。

 もはや甚兵衛に一片の余裕もなくなっていた。

 逃げよう。

 そう思うが早いか、甚兵衛は身を翻した。その時である。彼の視界におすずの姿が飛び込んできた。彼女は逃げずに、木陰に隠れて、甚兵衛を見守っていたのであった。甚兵衛は、庄右衛門の言っていた『大切な人を守る戦い』を、今自分がしているのだということに、漸く気づき始めた。

 甚兵衛は内心から湧いてくる恐怖と震えを抑えられないまま、敵へと向かっていった。長身の男も体勢を整え、構えていた。

 おすずを守る。

 それは恐怖と震えに混じって起こった、彼の気持ちであった。

 甚兵衛は敵の頭を狙い、刃を振った。長身の男は目の前に迫る切っ先を寸でのところで受け止めた。刃と刃が鈍い音を放った。その金切り音の余韻も消えぬ間に、甚兵衛はすでに次の一太刀を相手に向かって振り下ろしていた。袈裟型に入った切っ先が振り切られるのと同時に、長身の男から低い呻き声が漏れた。



        ◇



 甚兵衛がおすず救出のため、御堂の裏手に回っていた頃、庄右衛門は正面から破落戸共と対峙していた。

「何だぁ、オメェはぁ?」

間延びする口調で見張りの一人が睨みを効かす。

庄右衛門はそれに動じることなく、静かに言い放った。

「テメェらの頭に用がある。下っ端は引っ込んでな」

 常の彼とは全く違う、荒々しい口調で庄右衛門が口にする。いや、荒々しいというよりも威圧的な凄みを効かせている感じだった。破落戸連中を引きつけるには十分だろう。

 庄右衛門の挑発に反応して、見張りが彼に襲いかかるが、当然のごとく、一瞬で相手は伸された。

 庄右衛門が倒れた見張りを芥のように蹴り除けて歩み寄ると、もう一人の見張りが慌てて、堂の中に向かって叫んだ。

「お、お頭、お頭ぁ~」

 幾分か尻窄みの声だ。

 その声に反応して、入り口の戸が開いた。

「うるせぇぞ」

 そう愚痴って顔を出した男は、すぐに庄右衛門に気づき、先ほどの見張りと同様に睨みを効かせる。もちろん庄右衛門は動じない。

「テメェが頭か」

 すると男は鼻で笑い、部屋の中に向かって言い放った。

「お頭ぁ、変なのが来てますぜ」

 戸が大きく開かれ、部屋の中が明るみになる。真っ先に目に飛び込んできたのは、色褪せはしても神々しい観音像、そして部屋でふんぞり返る破落戸共の姿だった。

「何だァ、テメェは?」

 部屋の奥、観音像を背に座っていた一人の男が言う。

 他の連中の倍はあろうかという大男だった。

「あんたが頭のようだな?」

 庄右衛門は目だけでなく、声でも相手を睨みつける。

 すると、頭の側にいた破落戸の一人が声を出した。

「あ、お頭、こいつですぜ」

 木刀を脇に差した長身の男が目を丸くして、庄右衛門を指した。

「ほほう」

 ニヤリと気味の悪い笑みを浮かべ、緩慢な態度でお頭が立ち上がる。

「娘をかっさらった事を伝えるまでもなく、向こうからやって来るとは、感心だなぁ」

 お頭の言葉で庄右衛門は部屋の隅で縛られたおすずの姿を確認する。庄右衛門の怒りが強まる。

「質問に答えろ。半月前、町の池に上がった男を斬ったのはあんたらか?」

「あん?」

 お頭が小さく疑問符を口にし、そして閃くように言い放った。

「ああ、なんだ、テメェそいつの連れかぁ」

 ゆっくりとお頭が歩を進め、部屋の外へと顔を出す。

「そうか、そうか、くく、はーははははは、こいつは傑作じゃねーか。殺された者のために仇討ちとはぁ、なぁ」

 お頭に合わせて、周りの破落戸連中も一斉に笑い出す。

その中で庄右衛門だけが、静かに内心を燃え上がらせていた。

「なぜ、そいつを斬った?」

 庄右衛門が問う。低い声だが、周りの笑いよりも大きな声だった。

「ああん、なぁに、賭場で負けた腹いせよ。相手も突っかかって来たんでなぁ」

 まだ笑いを抑えきれない様子でお頭が応える。

 それを聞いた庄右衛門は、自分の感情を抑える必要がなくなった。

「そうか。ならば俺も腹いせに、テメェらを切ってもいいって事だな」

 脇差しを握り締める手に力がこもる。

 破落戸の頭はまだ余裕を持って、クックッ、と笑いを堪えている。

 いつの間にか、庄右衛門の周りを破落戸共が囲っていた。

「たった一人で仇討ちに来るたぁ感心するが、こちとら塗られた泥の落とし前をつけてもわらねばならねぇんでなぁ」

 周りの破落戸の手には、刀や棍棒といった武器が握られている。庄右衛門は不意打ちに注意を払いながら、自分の刀に手をやる。

「おっと、妙な真似をすると娘がどうなるか知らねぇぞ」

 庄右衛門が抜く前に、お頭が言う。

 庄右衛門の手がピクリと止まる。が、彼は表情に笑みを浮かべた。

「生憎だが、そいつァ、俺の役目じゃねぇ。それに、誰が一人と言った」

 その言葉を合図に、庄右衛門を取り囲んでいた破落戸の一人が小さな呻きと共に倒れた。一瞬にして空気が変わる。破落戸共は何が起きたのかわからず、ただ途方に暮れた。お頭も例外ではなかった。

 破落戸を倒したのは、たった一つの投石だった。しかも正確に頭部を狙い、昏倒させるほどの強さを持って投げつけられていた。

「な、何をした」

 誰かがそう叫んだ。

 それと同時に、竹林の中から何人もの男が現れた。全員、腰に脇差しを差しているが武士ではない。どちらかというと破落戸と大差ない格好の者もいた。皆が皆、庄右衛門のように威圧的な睨みを破落戸共に向け、その凄みは、破落戸がするそれとは格が違う。

 その眼光だけで、数人の破落戸はたじろぎ、身を震わせた。

 庄右衛門は硬直する破落戸を押し退け、現れた男達の方へと歩み寄る。

「うちのシマで好き勝手してくれた上、うちの若けぇのに手を出しちまったんだ」

 庄右衛門の口調は、すでに敵を引きつけるためとか言った口八丁なものではなかった。

「テメェらがどこの流れ者か知らねぇが、藤田組を敵にした以上、その落とし前、きっちりつけて貰うぜ」

 振り返りざまに庄右衛門が放った言葉は、破落戸連中を震え上がらせるには十分だった。

 御上と繋がっているだとか、裏社会を暗躍しているだとか、物騒な噂が絶えない極道中の極道、それが藤田組だった。

 そんな組織に目をつけられたのだ。ただの破落戸風情が敵うわけがなかった。

「か、構うな、やれっ、やっちまえ」

 破落戸の頭の、もはや自棄になった叫び。上手くこの場を逃げ切れたとしても、おそらく地獄の果てまでも追われる。それならと、今なら十人にも満たない相手を数で圧倒できると踏んだのだろう。

 お頭と同じく、自棄になった破落戸が数名、悲痛とも呼べる叫び声を上げて庄右衛門達に襲いかかる。それにつられるように残りの怯えきった連中も続く。それは虚しい怒号にも思えた。

 破落戸の持つ棍棒は、刀の前には全くの無力であり、刀で対抗するにも、破落戸のそれは藤田組の上等な刀の前に一瞬にしてへし折られた。

 藤田組の圧倒的優位な混戦の中、庄右衛門は怒号とは違う叫びを聞いた。

「なんだテメェは」

 声の方を向く。御堂の中、おすずの手を引く甚兵衛の姿が見えた。そして、慌てて部屋の奥へと走り去る彼らを、数人の破落戸が追っていく。

 庄右衛門は戦場を駆け抜け後を追う。しかし、庄右衛門は御堂に入るより前に、ある事に気づき足を止める。

 先程までここでふんぞり返っていたお頭の姿がなくなっている。慌てて周囲を見渡す。

 すると、どさくさに紛れ、竹林へと逃げ込もうとするお頭を見つけた。

「逃がすなっ」

 庄右衛門の叫びに、藤田組の一人が反応した。咄嗟に落ちていた石を拾い、お頭の背後に向けて投げつける。

 石はそのままお頭に向かい、その背中を捕らえた。体格の大きいお頭にとって小さな石の衝撃など、普通なら何の意味も成さない。が、例えどんな大男でも、逃走中の背後からの攻撃は、かなりの衝撃となる。

 お頭は見事に体勢を崩し、その場に倒れ込む。それでもなお逃げよう足掻く。体勢を立て直した時には、すでに庄右衛門が逃げ道を塞いでいた。

「こ、このっ」

 お頭が刀を抜いて庄右衛門に斬りかかる。しかし、庄右衛門は軽やかに斬撃を躱した。

お頭は強引に体を捻り、彼を追う。だがその攻撃も空振りに終わる。無理な体勢での攻撃が祟って、お頭の足がもつれた。庄右衛門はその一瞬の隙を狙い、間合いを詰めた。

そして抜刀の勢いで、お頭の巨体を切り裂いた。


        ◇


 甚兵衛が長身の破落戸を打ち負かした直後、彼は全身の力が抜けて、その場に倒れ込んだ。意識ははっきりとしている。ただ体が脱力しているだけだ。

「甚さん」

 声が聞こえた。しかし、首も動かず、声も出ない。

 しばらくすると、おすずが彼の顔を覗き込んできた。

「甚さん、しっかり、甚さん」

 彼女の必死な呼びかけに、甚兵衛は何とか声を発することができた。

「はは、緊張が切れて力が入らぬ。大丈夫だ、すぐ良くなる。ほら、もう腕を動かせる」

 辛うじて回復した腕を伸ばし、おすずの頬に触れた。

「怪我はないか」

 おすずは甚兵衛の手を握り、涙目の笑顔を浮かべた。「ありがとう。甚さん」

 その声が、彼の奥深く染み渡っていった。



 しばらくして回復した甚兵衛は、御堂の方が静かになっている事に気づき、引き返した。

 庄右衛門がどうなったかわからない。万一の事などないよう祈りながらも、慎重に竹林に身を潜めながら御堂の表に回る。

 そして目にしたのは、倒れ伏している破落戸共と、庄右衛門を囲む男達の姿。

 耳にしたのは、藤田組という言葉と、庄右衛門の事を「若」と呼ぶ男達の声だった。



        ◇



 夕日の光が黄金に輝く中、甚兵衛達は町外れまで帰って来ていた。

 庄右衛門を取り巻いていた連中は先だって去っていた。ここに戻って来るまでの道中、事の顛末を庄右衛門が話してくれた。

 破落戸共がおすずを人質に庄右衛門を殺そうとしていた事。池に死体が上がった事件は、確かに藤田組という組織が関わっていたが、加害者ではなく被害者としてだった事。

 そして、それら両方の犯行は、町外れに住み着いた破落戸連中であった事。

 だが、何よりも驚いたのは、庄右衛門が藤田組の若頭であった事だった。

 それは、甚兵衛はもちろん、おすずにも衝撃が強すぎた。それを知った後、ここに戻って来るまで何を話して良いものかわからなかった。

「では、俺はここで別れさせてもらう。黙っていた事は詫びる。おぬし達はこれから俺と関わった事を忘れて過ごしてくれ」

 それだけ言って、庄右衛門は去っていこうとする。

 甚兵衛は焦った。このまま何も言わずに別れるべきではない。そう感じていた。

 しかし、何を言えばいいのだろう。自分の素性を隠していた事を怒ればいいのか。それとも、無礼な振る舞いをしてしまった事を詫びればいいのか。

 いや、違う。

「庄右衛門殿」

 甚兵衛は去ろうとする彼を呼び止めた。彼が振り返るのを確認し、感謝の意を込めて深く頭を下げた。

 甚兵衛にできる、言葉でない精一杯の誠意だ。

「よせよせ、武士ともあろう者がヤクザに頭など下げるものではない」

 庄右衛門の言葉を聞き思った。

最後までこの人に諭されてしまった。

甚兵衛はあらゆる想いを振り切る覚悟で頭を上げた。

「あの、またお店にいらして下さい」

 おすずの言葉に、庄右衛門は小さく頷くと、今度は振り返る事なく去って行った。



        ◇



 甚兵衛は暖簾を潜り、店内に入った。

「いらっしゃい」

 相変わらずの明るい声が店内に響き、おすずが奥から顔を出す。彼女は甚兵衛の姿を見つけると、小さく笑い声を上げた。

「甚さん、最近うちの蕎麦ばかりね」

「いや、道場の帰りで、近くまで来たから」

 照れくさそうに顔を赤くして彼が言うと、おすずは可笑しそうに、含み笑いをした。

「道場からだと、この店は遠回りになるんだけどなぁ」

 おすずのセリフに甚兵衛はさらに、顔を赤らめた。

 差し出されたお冷やで喉を潤し、いつも通りの注文をする。

 ちょうどその時、また来客があった。

「いらっしゃいませ」

 甚兵衛の時と同じくらいの明るい声が、店内に響いた。


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