その弐
◇
それから数日が過ぎ、甚兵衛がいつものように町を歩いていると、不意に彼を呼ぶ声がした。
甚兵衛は声のした方を振り向くと、すぐ近くにおすずの姿があった。使いの用であったらしく、彼女は胸に包み袋を抱えていた。甚兵衛が気づかずにすれ違ったのを、わざわざ呼んでくれたのだった。
「お勤めご苦労様」
おすずが言った。
「あ、ああ」
甚兵衛はぎこちない声を出した。この前の事があって以来、おすずには負い目がある気がしていた。あの場に彼がいた事を、彼女は知らないのだから、わざわざ避ける必要はないのだが、彼は蕎麦屋にも行くことも、その近くを通ることもしなかった。だから、いきなり現れた彼女を恐ろしく思った。
おすずは甚兵衛の心配に気づくことなく、いつもと同じ親しみある笑顔を彼に向けていた。その笑顔を見ると甚兵衛は、少し気持ちが軽くなった気がした。
一言二言、言葉を交わした後である。
おすずの勧めで蕎麦を食いに行くこととなった。甚兵衛は少し躊躇ったが、断るわけにもいかず、彼女に従った。
行く途中、一軒の小物屋から一人の男が出てきた。どこかで見覚えがある。彼が不意に甚兵衛たちの方に顔を向けた。先日、おすずを救った男であった。
「あ」
おすずが小さく声を漏らした。向こうもこちらに気づいたようであった。
「庄右衛門さま」
おすずは、やや足早に彼に近づき、軽く会釈をした。
「ああ、この前の、確か、おすずさんだったか」
庄右衛門が応えると、おすずは笑顔で、再び頭を下げた。
「この間はお世話になりました」
「いやなに、大事なくて良かった」
「庄右衛門さまは、こちらに用事で?」
おすずが、先程庄右衛門が出てきた小物屋を見て問いかける。
「なに大した用ではなかったがな。これから飯でも食いに行こうかと思っておったところだ」
それを聞くと、おすずは目を輝かせた。
「それでしたら、是非うちへ来てくださいな。先日のお礼をさせてください」
「それはありがたい。ではお言葉に甘えさせてもらうとしようか」
その時、庄右衛門が甚兵衛に気づき、視線を向けた。
「おや、そちらは?」
その視線に、甚兵衛は内心どきりとした。甚兵衛は日がな町をふらついているとは言え、それでも武士である以上は、帯刀はしている。この庄右衛門という男の視線は、穏やかではあるが、武士に対する鋭い雰囲気が混じっていた。
甚兵衛が黙っていると、おすずが口を開いた。
「あ、こっちは甚兵衛さん。うちの常連さん」
そして、次に彼女は甚兵衛の方を向いて、庄右衛門を紹介した。
その後、三人はそろって、蕎麦屋の暖簾を潜った。おすずは甚兵衛と庄右衛門を空いた卓子に案内し、注文を聞くと、奥へと入っていった。
「おぬしは見たところ武士のようだが……」
向かいに座った庄右衛門が言う。
「ええ」
「いや、ずいぶんあの娘がおぬしに対して親しげに話すものだからな」
「ええ、お恥ずかしいことで」
「いや咎めるつもりはないのだ。気に障ってしまったなら謝ろう」
その時初めて、甚兵衛は庄右衛門の顔をはっきりと見つめた。それほど若い歳ではなさそうだった。それでも日に焼けた浅黒い顔からは、老いを感じさせない。切れ長の目に、頬はすらりと引き締まっていた。割と良い顔立ちをしている。
「自分でも、武士としてそれはどうかとも思うのですが、性分なもので」
「ふむ、まあ俺に武士のなんたるかを言う資格などないがな」
そう言って庄右衛門は笑い、甚兵衛は首を傾げた。
「武家の方ではないのですか」
庄右衛門は帯刀している。武士でないのなら、帯刀は御法度である。
「ああいや、そういうわけではないのだ。ただ、まあ何と申すか、俺は野武士といったところだからな」
歯切れ悪く濁した。そして重苦しそうに告げる。
「訳あって人を探している。おぬしは先日、この町で起きた殺しを知っているか」
半月ほど前、町外れ付近の池で死体が上がった。大きな刀傷があったので、事故ではなく殺されたと見て間違いないだろう。
「知っています。噂ではヤクザ組が絡んでるとか」
死体が上がった池から程遠くない場所に、大きな暴力団組織の屋敷があった。町人は怖がって誰も近寄らず、武士ですら避けたがるほどだ。平気で殺しをする集団だとか、御上ですら手が出せずに放置しているだの、実は御上と繋がっていて、裏で町を牛耳っている組織などの噂は絶えない。
今回の事件も、御上の対応がずいぶん消極的なので、誰もがその暴力団が絡んでいると考えている。
「それがどうかしたのですか」
甚兵衛の問いかけに、庄右衛門は一層暗い目つきをした。
「殺されたのは俺の友人だった」
庄右衛門の言葉に、甚兵衛は驚愕した。そして、庄右衛門が何を考えているのかも自ずと理解できる。
「仇討ち、ですか」
庄右衛門の目がぎらりと光った気がした。気迫が肌に伝わる。甚兵衛は、試合稽古の時のような圧迫感を感じずにはいられなかった。
幸いにも、その緊張は一瞬で治まり、庄右衛門の目を見ても落ち着いているようだ。
甚兵衛は、庄右衛門が本気で仇討ちを考えているのだと確信した。
しかし、だからこそ甚兵衛は、彼に告げるべきだと思った。
「止したほうがいいです。仇討ちは御法度ですし、上手くいったとしても、必ず報復されます。ヤクザ者が絡んでいるのだとしたら尚更」
そうなのだ。おそらくこの事件は十中八九、ヤクザ組が裏にいる。いくら腕の立つ庄右衛門でも、単身で刃向かって敵うものではない。命を粗末にしてしまうだけだ。
庄右衛門は甚兵衛の言葉を受け止めたのか、聞き流したのか、何か難しい顔をしていた。彼の心内が読めない。沈黙の中、もしかしたら自分はとんでもなく失礼なことを言ってしまったのかもしれないと、不安に思う。ついさっき言った自分の言葉を思い返す。そして、沈黙に耐えきれず、とにかく謝罪の弁を述べようと口を開きかけた時、庄右衛門の口が先に開いた。
「おぬしの言うこともわかる。だが、俺は……」
「お待たせしました」
それまでの空気を蹴散らす明るい声が、庄右衛門の言葉を遮った。
おすずが注文した料理を運んできたのだ。
「おお、すまぬな」
庄右衛門がこれまでとうって変わった口調で器を受け取る。
甚兵衛は、胸の内に蟠りを残しながらも、おすずの登場で場が和んだことに感謝していた。
食事中に血生臭い話をぶり返すこともなく、その後の話題は軽い世間話をしただけだった。
店の前で庄右衛門と別れ、甚兵衛は一人帰路についた。
庄右衛門の話を聞いた甚兵衛は、彼に対し一種の尊敬の念を抱くようになった。ああは言ったものの、甚兵衛がもし彼と同じ立場であったなら、おそらく同じように仇討ちを決意したかもしれない。しかし甚兵衛が、いざその仇と対面した時、果たしてそれを討てるであろうか。竹刀での試合で竦んでしまうほどの小心者である彼では、望み薄なのは明白である。対し庄右衛門は、敵を斬るという強い決意がある。彼なら斬れるだろう。野武士とはいえ、武士は武士。彼はその魂を持っている。
自分は武士という皮を被った、ただの犬だ。
そんな考えが、甚兵衛の胸を突き、彼は自分の小さな内心を呪った。
そしてもう一つ、甚兵衛には自らを奈落へと追いつめるかのような心持ちがあった。それは他ならぬ、おすずのことであった。
あの日、破落戸どもの手よりおすずは救われた。庄右衛門は彼女を救ったばかりでなく、そのまま彼女を送り届けた。甚兵衛はその場面を直に見ている。見ているからこそ、彼女の胸の内に住み始めた庄右衛門を感じずにはいられなかった。
おすずにとって庄右衛門は、言ってみれば英雄。甚兵衛は、たとえ彼女が知らないでも、薄情者の部類であることに変わりはなかった。そんな甚兵衛を、彼女が愛すはずもない。
甚兵衛は、そんな確証もなく、確認もしていない妄想に駆られ、おすずへの想いが断ち切られる事を恐怖した。それと同時に、庄右衛門に対する羨望と嫉妬の感情に絡まれた。
今の彼はまるで、道化を強いられた人形のようであり、あるいは自分の墓を暴く屍のようであった。
◇
甚兵衛は川縁に寝転がり、ぼんやりと空を眺めていた。目前に広がる青天井は、まるで彼を嘲笑うかのように、残酷に澄み渡っている。
気が狂いそうなほどの思念に締め付けられ、彼は精神的に疲れ果ててしまっていた。このまま身を投げる事すらも考えた。ところがそれを実行する事も出来ずに、ずるずると傷を引きずっている。
ふと彼は対岸の川沿いの道に目をやった。見覚えのある姿の男が歩いている。一昨日に知り合ったばかりの男だ。甚兵衛がその姿を追っていると、その視線に気づいたかのように、彼がこちらを一瞥した。しかし、何事もなかったように彼は平然と歩を進めた。
彼は川沿いを歩き、此岸に向かう橋を渡る。渡りきったところで方向を変え、ゆっくりと甚兵衛の寝そべる場所に近づいて来た。
「どうした? 何か悩んでる顔だな」
庄右衛門は川縁で寝る甚兵衛の側に立ち言った。どうやら彼もこちらに気づいて来たらしい。
「何にもないですよ」
甚兵衛が応えると、庄右衛門は小馬鹿にしたような笑い声を上げた。
「嘘をつくな。これでも鈍感ではないつもりだ。おぬしのように難しい顔をしている奴は、たいてい何かを抱え込み苦しんでいるものだ」
この言葉に対し、甚兵衛が何も応えずにいると、庄右衛門は得意げな顔をして言った。
「悩みがあるのなら話してみろ。何か力になれるやもしれんぞ」
言い終わると、甚兵衛のすぐ隣に彼は腰を下ろした。
甚兵衛には、自分の胸の内にある事を話せるわけがなかった。小心な自分を棚に上げ、勝手な思い込みや妄想で庄右衛門に憎しみを覚えている事など、本人の手前で言えるはずがあろうか。
甚兵衛が黙っていると、庄右衛門は催促するように彼に目をやった。何もかもを見透かすように鋭いが、どこか穏やかさを秘めた眼だ。
その眼に押され、甚兵衛は意を決したように背を持ち上げた。そして、上手く言葉を選んで話し始めた。
「この間、私は仇討ちはするものではないと言いました。特に今回のように大きな組織が絡んでるとなると尚更です。しかし、胸の内では貴方を流石だと感じておりました。そこまで友のために命を掛けられる貴方は、立派な武士です」
甚兵衛は、どこを見つめるでもなく、ただ視線を漂わせて話し続けた。
「私にはそれほどの覚悟を持つことが出来ません。いえ、まず度胸がないのです。武士の家に生まれ、武士として育ちました。ところが道場では試合に勝った試しがない。相手を目の前にすると、急に体が恐怖で震えるのです。情けないとはわかっていても、体は動いてくれない。それが悲しくて仕方がないのです」
そこで甚兵衛は話を切った。これ以上は話したくなかった。話せば、失いたくないものを自らの手で手放す結果になる。それだけは避けたかった。
庄右衛門は話を聞き終えた後も、暫くは黙っていたが、やがて静かな口調で言った。
「俺は確かに友を殺した奴を憎んでる。だが俺は、それ以上に自分を憎んでおるのだ」
甚兵衛にとって、それは意外な言葉だった。思わず視線を向ける。真剣な眼差しで、遠くを見つめる庄右衛門の顔がそこにあった。
「俺は友を守れなかった。その事が今も俺を苦しめている。守ってやるべきだった。俺はそういう立場でいたにも関わらず、情けない結果になった。だから、俺が仇討ちをするのは、友を守れなかった自分にけりをつけるためだ」
口調は静かであったが、彼の言葉には力強い意志が込められていた。甚兵衛がその話に聞き入っていると、庄右衛門はゆっくりと立ち上がり、甚兵衛を見下ろすと、諭すように言った。
「仇討ちは、守れなかった事に対する償い。罰みたいなものだ。今は情けなくとも、大切な者を守らねばならぬ時に、立派に戦えればいい。俺のように、罰を受けるようなことにはなるな」
庄右衛門の口元が緩んだ。悲しみを含んだような、優しい笑みだった。
甚兵衛は、その強い彼の瞳を見つめ、問いかけた。
「仇を成した後、自分に刃を突きつけられる結果になってもですか?」
庄右衛門も甚兵衛の瞳を見つめる。
「そうだとしてもだ」
やはり強い口調で庄右衛門が言った。
甚兵衛は、庄右衛門の言葉を胸に噛みしめると、体の荷が下りたような気がした。気持ちがさっきまでに比べ、格段に軽くなっていた。
「さて」
「もう行かれるのですか」
そう言って彼を見上げた甚兵衛は、瞬時にして身を竦めた。庄右衛門の目が恐ろしいほどに殺気立っている。今にも獲物に飛びかかる獅子のようだった。
「庄右衛門殿?」
途切れそうな声で問うと、思いの他穏やかな口調が返ってきた。
「すまぬな。そろそろ行かねばならん。実は先程、有力な情報が入っていたのだ。町外れにある古い堂に友を殺した奴が潜伏しているらしい」
「え」
甚兵衛も立ち上がった。
「それでは、いよいよ」
「ああ、身支度が調い次第、出向くつもりだ。ようやく念願叶って、というやつだな」
庄右衛門の表情、口調は至って平常そのものだったが、目に力が漲って、強い怒気を溢れている。
彼は、くるり踵を返すと、甚兵衛に背を向け歩き出した。その背中に、甚兵衛は何も言えずただ見送るだけだった。
仇討ちに向かった庄右衛門と別れて後、甚兵衛は心ここにあらずな状態で町をふらついていた。庄右衛門の後を追ったところで、自分にはどうすることもできないだろう。足手まといだとか、力不足といった卑屈な考えではなく、彼の問題に手を出すべきではないのだ。
そう思うことで、不安や心配などといった気持ちを抑えた。
昼過ぎの町中は賑わっている。今この時に、一人の男が命をかけようという事など露知らず、魚を売り歩く商人の張り上げる声が響く。どこぞの小間使いが呼び止め、魚を買う。簪や櫛などを並べる小店の前で買い物を楽しむ若い女たち。食事を終えた小太りの男が飯屋から暖簾を潜り出てくる。至って普通だ。
しかし、その普通の賑わいから外れた大声が、甚兵衛の耳をついた。
声の方を振り向く。
声の主は、着物の袖を捲り、前掛けをしたままの中年代の男だった。甚兵衛はこの男を知っている。
蕎麦屋の店主。おすずの父だ。
何やら必死な様子の店主に、甚兵衛は近寄って尋ねた。
そこでようやく甚兵衛の存在に気づいた店主は、息も絶え絶え言った。
「おすずが、帰って来ないんだ」