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その壱

 頭上の陽が燦々と照りつけている。雲は一つも無く、まるで幕を張ったかのような晴天が、どこまでも広がっていた。葉も赤く色づく季節だというのに、熱い日差しは容赦ないほどに肌を焼きつける。

 そんな中、甚兵衛は江戸の大通りを、何をするわけもなく、ただぼんやりと歩いていた。

 甚兵衛は、武士の家の生まれであり、まだ二十にも満たない若侍であった。城に仕えたり、週に何回かの道場通いをする他は、こうして町を散歩するのが日課なのだ。

 大通りを北へ南へと歩く人々は、途切れることなく列をなす。魚を売り歩く商人の張り上げる声が響くと、どこぞの小間使いが呼び止め、魚を買う。簪や櫛などを並べる小店の前では、若い女たちが買い物を楽しんでいた。その向かいの飯屋から暖簾を潜り、満たされた腹をかかえる小太りの男が出てきた。

 それを見た甚兵衛は、自分がまだ昼餉を摂っていないことに気づいた。天高く昇りつめた日輪は、すでに西へ傾こうとする時刻になっている。

 どこかで飯を食おう。

 そう考え、ふと思い立ったように、今まで来た道を引き返し始めた。一町ほど行き、まだ暖簾の掛かっていない居酒屋の角を曲がり、裏通りへと抜ける。そしてまたしばらく行くと、暖簾のかかった一軒の蕎麦屋が現れた。

 彼は暖簾を潜り、戸を開けた。こぢんまりとしたその中は、四人掛けの卓子を六脚並べてあるだけで、昼飯の時間帯にもかかわらず客も数人しかいなかった。

 甚兵衛が空いてる席に腰を下ろした丁度その時だった。

「いらっしゃい」

 透き通るような明るい声とともに、奥から一人の若い娘が顔を出した。

 彼女は隅の席に座る甚兵衛に気づくと、接客のそれとは違った、親しみのある笑顔を見せた。

「あら甚さん、また来てくれたの」

「ああ、ちょっと近くまで来たもんだから」

 甚兵衛はそう言うと、伏し目がちに彼女を見つめた。彼女の名はおすずといった。この店を営む主人の娘である。年のわりに幼い顔つきをしているが、容姿は整っていて、いわゆる美人というのに相応しい。

 注文も忘れ、おすずに見とれていると、彼女はくすっと微笑んだ。

「いつものでいい?」

 そこでやっと我に返り、甚兵衛は頷いた。

 そうして、おすずが奥へと消えていくと彼は、安心したようながっかりしたような、不思議な気持ちに陥った。それでもどうしてか、その感覚がとても心地よく感じられた。

 甚兵衛は顔を上げ、おすずの消えていった奥の方を見つめる。つくづく気立ての良い娘だと思う。加えて、親しみの持てる性格をしている。一応は武士である甚兵衛を「甚さん」と呼んでいるところからも、それは窺える。最もそれは、ここの店主と甚兵衛の父が旧知の仲であるからかもしれないが、おすずにそう呼ばれるのは悪い気はしなかった。

 しばらくして、おすずが奥の間から姿を現した。

「お待たせしました」

 盆から蕎麦の器を甚兵衛の前に差し出しながら、おすずは言った。

「お勤めご苦労様。今日は見回りか何かですか」

「まあ、そんなところだ」

「最近、物騒ですものね。でも甚さんが見回りしてくれているなら安心ね」

 おすずの言葉に少々苦笑いを浮かべていると、他の客から声が上がった。

「それじゃあ、ゆっくりしていって下さいね」

 そう言って、おすずは接客に向かう。

 残された甚兵衛は、何か思い詰めたように、目の前の蕎麦を眺めていた。


        ◇


 道場では試合形式による稽古が行われていた。門下生である甚兵衛も、それに加わっている。

 一組が終わると、すぐ次が前へ出る。お互いの気迫は竹刀を伝わり、相手へとぶつかる。片方が技を出せば片方がそれを防ぐ。そんな応酬が続き、どちらかの技が決まれば試合終了となる。

 そうして、甚兵衛の出番が回ってきた。相手は、甚兵衛の体格と大差ない、むしろやや痩身な分、甚兵衛の方が大きく見える。ぎらりと光る相手の鋭い眼差しに捉えられ、甚兵衛は身を竦ませた。体が硬直し、動こうとしてもまともに動かない。そして徐々に全身が震え出してきていた。

 相手の男が、それほどの手練れというわけではない。ただそれほどまでに、甚兵衛という男は小心者であった。剣術において、彼の腕は決して悪くはないはずだが、こうして一対一の打ち合いとなると、次第に恐怖が体を支配していくのであった。

 相手が構えた。はっとして、甚兵衛も構える。体はまだ震えたままであった。もはや彼の頭の中は真っ白といった状態である。

「始め」

 その合図と同時に、相手が飛び出した。繰り出された技が、甚兵衛の胴を目がけて向かってきた。咄嗟に脇を締めそれを防ぐ。しかし、その動作が彼にとって精一杯だった。相手は素早く構え直し、一気に甚兵衛の頭上を狙った。甚兵衛は頭部に鈍い痛みを覚え、そこで試合終了となった。

 道場を出ると、陽は西の彼方へと沈もうとしていた。昼間は賑わう大通りも人気が薄れ、夕方の帳に飲み込まれようとしている。

 甚兵衛は瘤になった頭を撫でながら、とぼとぼと帰路についていた。彼にとって試合で負けることなど、いつものことである。彼自身、肝っ玉の小ささなど、すでに諦めてしまっていることだ。それでも、胸の奥には常に悔しさが潜んでいる事を、感じられずにはいられなかった。考えれば考えるほど、彼は情けなくなった。一歩歩くごとに、それは大きくのしかかってきて、まるで日没迫る日輪ように、彼の気持ちは落ち込んでいった。

 刻々と陽が姿を隠そうとしていた。西日に照らされた町は赤く染まり、夜に向かう準備を着々と進めていた。店々の戸は閉められ、飯店の暖簾は下げられる。代わりに飲み屋などの提灯が、赤く灯り始めた。

 そんな景色を横目に、甚兵衛が川にかかる橋を渡ろうとした時だった。

 対岸の向こうに、数人の人影が見えた。よく見ると三人の柄の悪そうな破落戸(ごろつき)が、一人の娘を囲んでいる。破落戸のうち、一人は木刀を手にした長身の男。もう一人は小柄であるががっちりとした体つきをしており、最後の一人は、横に太った丸い体の男であった。

 三人の破落戸は眼をつけながら、じわじわと娘に近づいていく。娘は怯えて後ずさる。長身の男が何やら娘に向かって罵声を浴びせた。その時、娘の横顔が見えた。

 甚兵衛は思わず声を上げそうになった。絡まれているのは蕎麦屋の娘、おすずであった。

 瞬間、甚兵衛の胸に噴き上がるほどの動揺が走った。助けに行かなければ。そんな気持ちは起こっているのだが、まるで凍りついたように彼の足は動いてくれなかった。心臓が千切れるほどに脈打っていた。体の内から震え上がり、立つことすら危うい状態である。

 今の甚兵衛には橋の上で身を竦め、祈るような気持ちで成り行きを見つめるしかなかった。



 そんな時である。三人の破落戸とおすずの間に割って入る者がいた。はっきりとは見えないが、どうやら侍のようである。

 急に現れた侍に、破落戸どもは驚いた様子であったが、長身の男はすぐに気を取り直して言った。

「何だおめえは?」

 同時に鋭い目つきで睨みを効かす。しかし、侍はその問いに応えることはせず、おすずの方を振り向いて言った。

「下がっていなさい」

 突然の事で驚いたのは、おすずも同じであった。戸惑っていた彼女はその言葉に、ただ黙って従った。

 長身の男は、自分が無視されたことに腹を立てた。

「野郎っ」

 そんなかけ声と共に、手に持った木刀を高く上げ、侍に向かって一気に振り下ろした。しかし侍はその太刀筋を軽い身のこなしで躱す。

 すると間髪を入れず、今度は小柄な筋肉質の仲間が襲いかかってきた。侍はそれも素早く回避し、空を切った拳の隙を衝き、腰にした刀の柄で思いっきり敵の腹を打ち付けた。強烈な一撃を食らい、筋肉質の男はその場に突っ伏してしまった。

 そして再び長身の男が木刀を構え、侍に襲いかかった。侍にとって、その一撃を再度躱すのは容易い事であった。侍は先ほどと同じ要領で、今度は男の手を打ち付ける。鈍い呻き声と同時に、手から木刀が離れ、長身の男は警戒するように後ずさる。

「これ以上やると言うなら、容赦はせんぞ」

 侍が追い打ちをかけるように言い放った。彼は左手を刀の鞘にあて、鍔を指で弾く。きんという金属音が響き、鞘から僅かに刃が覗いた。

 それを見て、真っ先に太った男が逃げ出した。それを追うように、残りの二人も足早に、その場を立ち去っていった。

 辺りに静けさが戻った。侍は破落戸どもが消えていくのを見届けると、踵を返すように振り返り、おすずに向かって言った。

「怪我はないか?」

 その言葉を聞いて、ようやくおすずに安堵の色が浮かんだ。

「はい、ありがとうございます」

 彼女は深くお辞儀をし、自分を救ってくれた者に対し礼を述べた。

「もうじき陽も暮れる。女一人で夜道は危険だ。家まで送ろう」

 侍が言うと、おすずはさらに頭を下げた。そして二人は、夜の迫り来る通りを歩き始めた。

「あの、お名前をよろしいですか?」

 侍が、おすずを送り届け、去ろうとしたところを、彼女は引き留めて尋ねた。

 侍は歩みを止めて振り返り、優しい声で応えた。

「これは失礼。名は庄右衛門と申す」

 庄右衛門はそう言って一礼すると、再び歩み始め、やがて暗くなった通りの向こうへ消えていった。

 二人の後をこっそりと附けていた甚兵衛は、いたたまれない様子で、その遣り取り遠くから見ていた。

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