グリス公爵夫妻の受難
王都での王太子礼とそれに伴う王太子の結婚式、舞踏会への参加を終えたグリス公爵夫妻はポエミア領へと帰って来た。長閑な牧草地帯が広がるポエミア領内は、出てきた時と寸分変わらず穏やかな空気が流れ、マリルはその静かな温かさにほっと息を吐いた。
王都の喧騒は、このポエミア領内には届いてこない。それがこれ程までに自分を安堵させるとは、マリル自身思ってもみなかった。マリルにとってこのポエミア領内は、既に第二の故郷となりつつあるのだ。
隣に座っていたアレクサンドルもマリル同様、纏う空気が殊更柔らかくなっており、マリルをエスコートして共に馬車を降りた。
目の前に広がる領主館は、マリルにとって大事な家でもある。けれども何故だろうか。領主館の中から、何故か慌ただしい声と共に、ポエミア領に残っていたフレデリックがエントランスホールから飛び出してきた。常になく焦ったようなフレデリックの姿に驚いているのはアレクサンドルも同じだったようで、些か固い声で「どうした、フレデリック」と声を掛ける。
フレデリックは二度、三度と大きく深呼吸をした後、巨大な爆弾を投下した。
「領主館に、獅王国の元皇太子殿下が…殷楽様がお出でになっています!」
その声に思わずポカンと口を半開きにし、呆けたように目を点にしたのは仕方が無いと思う。
けれども隣に立つアレクサンドルには、それ以上の驚愕が襲ったのだろう。
「……は?」
透き通るような青空の長閑な領主館のエントランスで、アレクサンドルはただ呆けたような声を出した。
*
「やあ、これはレンドルフ王国元第一王子、アレクサンドル・フォン・シュナイゼル殿下。お久しぶりですね」
「…お久しぶりです、殷楽蘇撤皇太子殿下。どうぞ私の事はグリスとお呼び下さい。その名は既に返上していますので」
「ははは、成程、確かにそうですね。分かりました、グリス公爵殿。では私の事も蘇撤とお呼び下さい。私も貴方も元王子、という点では同じですね」
機嫌よく話す蘇撤は、男性にしては長すぎる髪を結って背中に流し、ゆったりと足を組み替えてソファーに沈み込んだ。蘇撤が纏う衣服は獅王国由来の伝統衣装。その為、足を組むのに適しては居ないと思うのだけれど、いっそ優雅な所作で足元の裾を直した。
「それで蘇撤殿、この度はどのようなご用件でこちらに?」
アレクサンドルは蘇撤の対面ソファーに座りつつ、そう尋ねた。
蘇撤はただにこやかな微笑みを浮かべつつ、アレクサンドルの隣に腰掛けたマリルを見た。
「マリルが、何か?」
「私の妹がね、先頃結婚したのですよ。ああ、既に殷楽家を出た妹です」
「そうでしたか。それはおめでとうございます」
「ありがとう」
訝し気に蘇撤を見るアレクサンドルは、固まってしまったマリルの背をそっと撫でた。
「私の話は既にお聞きになっておられるでしょう? 私は最早獅王国を追放された身。頼れるのは国外に嫁いだ親族のみ。…詰まる所、新婚となった妹というわけです」
「それで私達となんの関係が?」
「妹の夫、私の義弟の名は、ヨアン・アドバンダ。グリス公爵夫人、貴女と血の繋がった兄ですよ」
マリルがその時受けた衝撃は、何とも言い表せないものだった。
頭が真っ白になるというのはこの事かと、後にマリルは周囲に溢す事となる。
「まあそういうわけで、世話になりますよ、義姉上?」
にこやかに告げられたそれにマリルは笑みを返そうとして失敗し、苦いものを含んだアレクサンドルの視線に思考を停止した。
グリス公爵夫妻の受難はこうして幕を上げたのだ。