ルミリアと二人の王子 七夕
―――その出来事は、アレクサンドルの一言から始まった。
その日はいつものようにお父様と王宮へ向かい、勉強の為にアレクサンドルと早朝から講義を受けた午後のこと。
王宮の一角にある中庭で、休憩がてらアレクサンドルと共にそれぞれ他国の風俗や慣習を記した本を読んでいたルミリアは、アレクサンドルの楽しそうな声に本に落としていた視線を上げた。
「ああ、いやすまない、ルミリア。少し興味深い内容が書かれていてな」
「どんな内容ですの?」
開いていた頁にブックマーカーを挟んで閉じ、アレクサンドルの手元に視線を移す。
どうやらアレクサンドルが見ているのは、東方にある国々に関する本らしい。見たことのないしっかりとした紐で固く綴じられた本だ。
それにしても、アレクサンドルが楽しそうな声を上げるのは珍しい。
少しずつ年を重ねるごとに、アレクサンドルは王子らしい王子へと自ら生まれ変わって行っていたから、余計にそう思う。
「タナバタ、でございますか?」
「ああ。何でも、東方の国では七月七日に七夕という行事を行って、豊作を願ったり、人々が厄災事が無いようにと祈る行事らしい。ここにもそう書いてあるだろう?」
アレクサンドルが示した東方の風土や慣習を書いた頁には、『七夕』と書かれた項目に何かの木に吊るされた長方形の紙と、それに様々な願いを書くという習わしが描かれていた。
「面白い行事だと思わないか?」
「ええ、そうですわね」
ルミリアは前後の頁を捲りながら、「これはタケ、という木でないといけないのでしょうか?」と疑問を口にした。
「竹は東方の国では神聖な木とされているらしいからな。その神聖な木に祈りを込めて願いを書く、ということが重要なのだろう」
「なるほど」
東方の習わしには不思議なものが多い。
レンドルフやその周辺国家では、大陸に広く伝わる豊穣の女神とその夫である創造の男神が信仰されている。そのため各地に教会が開かれ、結婚式を行う際には教会で夫婦の誓いを立てるということが慣例となっている。
「ああ、そういえばルミリア。この日には別の伝承が伝わっていて、織姫と彦星という二つの神が一年で一度会える日、なのだそうだ」
「一年に一度、でございますか?」
「そうらしい。これを見ると、どうやら二人は夫婦らしいが、夫婦となってからはあまり仕事をしなくなってしまった。それを見た天上の神々は、二人を引き離すことで再び元の仕事を行わせる狙いがあったようだ。ああ、二人が夫婦となる前のように真面目に働くのなら、一年に一度会うのを許すという取り決めもあったようだな」
「何だか、可哀想ですわね。せっかくご夫婦となられましたのに、直ぐに離されてしまうだなんて…」
眉を下げてしゅんと落ち込むルミリアに、アレクサンドルは苦笑してルミリアの頭をそっと撫でた。
「そう悪いものでもないと思うぞ? 二人はそれでも愛し合っているのだろうから」
「そうですわね。…あっ、ドミトリアス様!」
「こんにちは、ルミリア、兄上」
僅かに髪を乱したドミトリアスは、腰に差した稽古用の剣を鞘ごと外し、二人が座るテーブルの足に立て掛けた。
少し疲れた様子にも見えるドミトリアスはルミリアと目が合うと、爽やかに微笑んだ。
「ドミトリアス、剣の稽古は終わったのか?」
「はい、兄上」
「そうか、お前も精が出るな」
何処か誇らしげな様子で目を細めるアレクサンドルに、ドミトリアスは恥ずかしそうに目を伏せた。
普段は大人びた様子のドミトリアスが、少しだけ年頃の子どもに戻る瞬間がある。そんな稀に見る子どもらしい愛らしさに、ルミリアも思わず笑った。
「ところで兄上とルミリアは、勉強をしていたのですか?」
「ああ、そうだ。と言っても、今は少し休憩を挟んでいるから、お互いに読書に励んでいたんだ」
「なるほど、そうだったのですね」
「ドミトリアス様、私達は今、東方のタナバタという行事についてお話ししておりましたの。宜しければお聞きになりませんか?」
「もちろん」
椅子に座ったドミトリアスは、アレクサンドルが持つ本に目をやり、アレクサンドルの説明を真剣な眼差しで聞き込んでいる。時折、ルミリアが身振り手振りを用いて東方の国の慣習や習俗について話をすると、驚いたように目を見張り、感心した様子で「兄上もルミリアも、よく勉強しているのですね」と何度も頷き、気が付けばあっという間に休憩時間が過ぎていた。
「エランドール侯爵令嬢、第一王子殿下、そろそろお戻り下さいませ」
「分かった。すまない、ドミトリアス。また今度じっくりと話そう」
「ええ、そうですわね。ではドミトリアス様、また」
「はい、兄上、ルミリア。また」
ルミリアはドミトリアスに優雅に一礼し、ブックマーカーを挟んだ本を持って先生とアレクサンドルの背を負った。
ドミトリアスが浮かべる、寂しそうな、それでいで何処か空虚にも感じられる視線に、ルミリアが気付くことは無かった。
「七夕ねぇ…」
「あら、お兄様はタナバタのことをご存じでしたの?」
「まあこれでも、外交の一族、エランドール侯爵家の嫡男だからね。当然知っているさ。…それで、七夕がどうしたんだ?」
「今日、王宮でアレクサンドル様とドミトリアス様とお話ししていて、面白い習わしだと思って、私達も少しばかりやってみたいと思いましたの」
「ふうん、そうなのか。ん? ドミトリアスは他に何か言っていたのか?」
何処か思案するように顎に手を当てたお兄様は、ルミリアの目と視線を合わせ、何かを探るように聞いた。
何か気になることでもあるのだろうか? 疑問には思ったものの、ルミリアがそれを深く追及することは無かった。こういった状態のお兄様に聞いても、大抵はぐらかされるか、別の話題に擦りかえられてしまうだけだと、経験上知っている。
最早諦めの境地と言ってもいい。
「アレクサンドル様はただ珍しい習俗を発見してお喜びになっていただけのようでしたけれど、ドミトリアス様は、そのタンザクとやらを書いてタケに吊るしてみたいと仰っておられましたわね。…って、どうしてそんなことを聞きますの?」
「んーまあ、別に? そうか、なら……」
「お兄様?」
「ん、いや、話は分かったよ。そうそうルミリア、お母様がルミリアをお呼びになっていたよ、早く行った方が良い」
「…! それを早く仰って下さいな!」
駆けだしたルミリアの背には、何かを企むように邪悪な笑みを浮かべるお兄様の顔など、最早映っては居なかった。
それから三日後、ルミリアは大量の木を馬車の荷に乗せて再び王宮へと足を踏み入れていた。
「ジュリアスが、これを?」
「ええ。お父様にお願いをして、東方から取り寄せたそうなんですの。タンザクも一緒に…」
騎士達の手によって中庭の回廊部分に立てられたそれらは、異様な威圧感を持って驚いた表情のドミトリアスを出迎えた。
「なんだかタケって、葉がトゲトゲしていますのね」
「うん。なんか、想像していたよりもずっと葉が細いし、上に向かう程幹がしなやかになっているね」
「ええ。東方の木というものは、なんだか不思議でございますわね」
しげしげと竹を摘んだり、眺めたり、握ったりして物珍しいその木をしっかりと目に焼き付ける。
そうしていると、経済学の講義を終えたアレクサンドルが女官と共に中庭へとやってきた。無論、女官をアレクサンドルの元へ向かわせたのはドミトリアスである。ルミリアにその権限は無い。
ドミトリアスは、二人で居たときの気安い雰囲気から一転し、改まった様子でアレクサンドルを迎えた。それはルミリアには、凡そ兄弟らしからぬ他人行儀な行いに見えたものの、騎士や女官も控えた公式の場では、やはり二人共、公人としての振る舞いを重んじ、誰であれ気を抜くことがないよう、自然と戒めているようだった。
「ごきげんよう、アレクサンドル様」
「ああ、ルミリア。ドミトリアス、これが竹というものか?」
「はい、そのようです、兄上。なんでもジュリアス様がエランドール侯爵様にお願いされ、取り寄せて下されたのだとか」
「そうか。実物はやはり絵とは比べ物にならぬな」
面白そうに見つめるアレクサンドルは、何処か楽しそうに目尻を緩めて先ほどの二人と同じように手で触れ、目で見て楽しんでいる。
「実はタンザクもタケと共に来ましたのよ。アレクサンドル様、ドミトリアス様、早速タンザクにお願い事を書きましょう!」
実のところルミリアも、これには大興奮し、短冊を書くのを今か今かと待ち望んでいた。そのワクワク感が移ったのか、ドミトリアスも早速短冊を手に、女官に用意して貰った羽ペンですらすらと何事か願いを書いている。それに引き続いたのはルミリアで、「アレクサンドル様も書きましょう。羽ペンはこちらに用意して頂いていますわ。さあ、どうぞ!」とアレクサンドルを少々強引に輪の中に入れた。
「そうだな」
苦笑したアレクサンドルも、羽ペンを手に取ると、真剣な表情で何かを書き連ねている。
ルミリアのお願い事は、最初から殆ど決まっていた。それを書き終えると、三人で一斉に竹の枝にそれぞれの短冊を吊るし、東方風の合掌でお祈りする。
ふふっというルミリアの笑い声をきっかけに、ドミトリアスとアレクサンドルも、楽しそうに笑い始めた。
ある程度笑いが収まった所でルミリアは三人のお願い事を改めて眺めてみる。
まず、ドミトリアスのお願い事は、『武芸が上達し、学力も向上しますように。私の願いが叶い、いつまでも幸福な日々が過ごせますように』というなんともドミトリアスらしいお願い事だった。
ドミトリアスの方をちらりと流し見ると、何処か恥ずかしそうに顔を背けてしまう。
次にアレクサンドルのお願い事は。『皆が幸福で、穏やかな日々を過ごせますように』というアレクサンドルの次期王としての決意が窺えるお願い事だった。
「お二人とも、とても素敵なお願い事ですわね」
ルミリアがそう微笑むと、ドミトリアスは肩を竦め、アレクサンドルはそっと苦笑した。
ずっとずっと、こんな穏やかな日々が続けば良い。
そう願いながら、ルミリアは感慨深そうに、そして何処か切実さの滲む目をした二人をそっと眺めた。
ルミリアのお願い事はただ一つ。
『皆と共に、これからも仲良く暮らせますように』
それが叶わぬ願いだったということを、未だこの幸せな時間を過ごすルミリアには知る由も無かった。
ルミリア7歳、ドミトリアス7歳、アレクサンドル10歳の頃の話。