たい焼き屋の坂を登る
1.
7月初旬。涼しいクーラーの効いた教室。3限目が始まる前、珍しく英語の予習を済ませてきたので読書する。4月に入学してから3カ月ほど経ってクラスの雰囲気も落ち着いていた。江戸川乱歩の短編を数行読む。
訳が当たったけれど、予習のおかげで難なく答えられた。いつもやってくれば冷や冷やする必要もないのだけどなぁと思うけど、結局いつもはやらない。
お昼。なぜかお昼はクラスの女子全員で食べる決まりになっている。仲間はずれを作らないための配慮らしい。先生から強制されたわけではないが、暗黙の了解。高校生ともなると、随分色々と気を使わなければならないらしい。自分の気遣いが足りないような気がしながらも和やかに昼食。
午後から眠気と気だるさでまったりとする。生物の先生は、瞼が半分閉じた生徒を相手にいつのまにか幻の深海魚の話を始めている。誰に気にする者はいない。
ふと隣の男子生徒から肩をつつかれた。暇をしているらしくノートの切れ端を折りたたんだやつを渡される。開いて見ろということらしい。ちなみに私はその男子生徒を覚えていない。
「江戸川乱歩を読んでいた?」
それだけ書いてある。眠たいけれど、彼が何か返事を期待しているように感じたから下の方に付け足す。
「読んでいたよ。D坂。」
すっと紙を返すと、ちらっと見て頷いている。まだ何かあるかと思ったけれど、それ以上は何もなかった。
帰り道、今日はお昼に傍にいた女の子とあれこれしゃべったのと、生物のときにメモ書きを渡されたので高校生らしいコミュニケーションが取れたような充実感を覚える。帰る頃にはもう日が暮れかかっているので、日中ほどは暑くない。昼間は涼しい教室でのんびり授業を聞いて、帰る頃には日が暮れているっていいなぁと思う。こんな感じであと10年くらいはぼんやり過ごしたいとか考えてしまうけれど、そうもいかないだろう。残念。
翌日。休み時間に昨日の江戸川乱歩のメモを渡してきた男子生徒に話しかけられる。
「実は俺もあの小説読んだことあるんだよ。」
「そうなんだ。」
「白石さんは江戸川乱歩好きなの?」
「ミステリー作家の中では結構好きだよ。」
「そっか!俺も好きなんだよ、乱歩が!」
嬉しそうに同意されるも、彼の名前が全然思い出せないことに焦る。そもそも覚えていなかった。覚えていないものは思い出しようもない。どうにか彼のネームプレートを盗み見ようとするも窓からの光に反射して読めなかった。
「今度一緒に乱歩トークしようぜ。」
仲良くしてくれそうな様子の彼のために名前を覚えることを決意。ただし、どういうわけか私は人の顔とか名前を覚えるのが苦手だから自信はない。そもそも現状クラスメイトの顔の区別がいまいち付いていないのだ。だいたい似たように見えるので困る。だけど、もう3カ月もたつのにいつまでもこれでは良くないことに気がついたので、ちょっとずつ苗字くらいは覚えたほうがいいかもしれない。
自宅で音楽を聞いている。動画サイトで見つけた曲を適当に。いつ頃の曲なのかも分からない洋楽。母親が部屋にやってきて前髪を切ってあげるというので、切ってもらう。
「何かいいことでもあったの?今日は機嫌がいいわね。」
特に意識していなかったけれど、機嫌良く見えるらしい。ということは多分そうなのだろう。母親と私はどうにも分かりあえないことも多いのだけれど、母は娘の感情だけは素早く察知する。
「まあね。」
前髪が一センチほど短くなった。それだけでも視界がさっぱり。けれども短すぎないのでほっとする。自分で切るとこうはいかない。市松人形になったことは一生忘れない。