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真夜中の国のアリス

作者: 卯月 朔


『そんなアリスに帽子屋は言いました。』




 たとえば、アリスがひとりでお留守番をするとき、お母さんはよくこう言っています。

 よい子のアリス、知らないひとがやって来ても、玄関をあけてはいけませんよ? お家のなかに、けして入れてはいけません。どんなふうに誘われても、お外へ出て、ついていってはいけません――アリスはかしこい娘でしたので、お母さんの言いつけをよく聞きわけて、この約束をやぶったことなど、いままで一度もありませんでした。

 でも、たとえば知らないひとが、玄関のまえではなくて、お家のなかにやって来た時には、一体どうすればいいのでしょう?

 もうお家のなかにいるのですから、玄関をあけないでおく、というのでは意味がありません。それなら、すぐに帰ってもらえばいいかとも思いましたが、しかし、それでも知らないひとをお家に入れた事実が消えるわけではないのです。アリスはかしこい娘でした。けれど、たった七つのちいさな女の子です。お母さんの言いつけをきちんと守っていても、それがやぶられてしまった時には、どうすればいいのかわかりませんでした。

 そもそも――かれはどうして、いつのまにやら、お家のなかにいるのでしょうか?

「紅茶は好きかい、お嬢さん? わたしは紅茶が大好きだよ」

 そう言って、びっくりしているアリスに笑いかけるのは、おとなの男のひとでした。

 アリスはとてもよい子でしたので、決められた時間にはきちんとお布団にはいって眠ります。だから、いまも、お気に入りの水色のパジャマを着て、ベッドのうえにいましたが、その男のひとはアリスのお部屋の真ん中にある、丸いテーブルセットに座っていました。

 濃い灰色の上着とズボンに、黒いベストと、白いシャツと、赤いネクタイを締めた、きちんとした三つ揃いを着ています。革靴もぴかぴかです。

 男のひとはおとなですから、アリスのお部屋においてある、アリスの背丈にあわせたテーブルと椅子では、座るのにちいさくて、とても窮屈そうでしたが、まるで気にしていないふうに見えました。くせのつよい髪をうなじのあたりでちょろんと結んで、お家のなかにいるのに、おおきな帽子をかぶっています。お行儀の悪いひとだわ――と、しつけのよいアリスは思いました。しかし、そもそも、いきなりお部屋のなかにいて、両目を仮面でおおっている相手に、お行儀のはなしなど通用するはずがありません。

「わたしはアリスというけれど、あなたは、だあれ?」

 眠ろうとしていたら、とつぜんに、まったく気付かないうちに、見知らぬだれかがお部屋にいたわけですから、アリスはたいそう驚いて、どきどきしていましたが、それでも勇気をだして言いました。

「知らないひとは、お家のなかにはいってはいけないの。お父さんと、お母さんに、叱られてしまうわ!」

「それは結構なことだよ、お嬢さん。いやさ、アリス。みんなそうして、おとなになるのさ」

 すばらしいことだ――と、男のひとは言いながら、アリスのちいさな椅子に座って、アリスのちいさなテーブルにお茶の道具を出して(いったいどこから出してきたのでしょう?)、とてもお上品に紅茶をたのしんでいます。

「あなたは、だれなの?」

 アリスはもう一度たずねました。

「ご覧のとおりの、帽子屋だがね。そういうふうに見えるだろう?」

「いいえ、まったく。帽子屋さんのようには見えないわ」

「それも結構。見えなくっても帽子屋さ。わたしはそういう、役回りだからね」

 おしゃべりをしているあいだにも、帽子屋という男のひとは、何杯も何杯も紅茶をおかわりして、おなかが痛くならないかしら、とか、あのポットにはどれだけのお茶がはいっているのかしら、とか、アリスは心配になりました。もしも、帽子屋がおなかを痛がりはじめたなら、いそいでお母さんを呼んで、介抱してあげなければなりません。

 けれども、そうすると、知らないひとがお家にいることがばれてしまって、お行儀のよい、かしこいアリスは、お母さんに怒られてしまうでしょう。帽子屋も、きっと、かんかんに怒ったお父さんに、ほうきで掃くようにして、お家から追い出されてしまうにきまっています。

 そう思うと、アリスはすこし残念な気持ちになって、もうちょっとだけ帽子屋とおしゃべりをしていたくなりました。あるいは、アリスが忘れてしまっているだけで、本当は、この帽子屋と、アリスは知り合いなのかもしれません。

 おしゃべりをしていたら思い出すかしら? アリスはそう考えます。

「それじゃあ、わたしの知らない、帽子屋さん。どうしてわたしのお部屋にいるの?」

 たとえ以前に会ったことがあるとしても、ともかくも今は思い出せませんから、アリスはそう言ってたずねました。帽子屋はもう何杯目かもわからないおかわりを、カップにそそいでこたえます。

「いつまでたっても白ウサギのやつが、きみを迎えにいかないからさ」

「わたしには、帽子屋さんにも、白ウサギにも、迎えにきてくれるような知り合いなんていないのだけど」

「いてもいなくても結構だよ。それでもきみがアリスなら、それだけで十全で、なにもかも万全だ」

「――帽子屋さん。あなたは、わたしを、知っているの?」

「知りもしないが知らなくもないさ。アリスの役回りをうけてくれるお嬢さんが、赤白の女王のいさかいを、止めてくれさえするならね。わたしにはそれで結構なんだ」

「うーん。あなたの言うことは、さっぱりわからないわ!」

「すっきりわかることなんて、そもそも最初からありっこないよ。お嬢さん」

 いやさ、アリス――と、帽子屋はかっこうをつけて言いました。

「ともかくも、なまけものの白ウサギめにかわって、わたしがこうして来たからにはね。きみは、あの不思議の国へ、行かなければならないよ?」

「いまから? だめよ、もう夜だわ」

 お出かけをするのなら、朝がきて、お日さまが昇ってからでなければいけません。アリスはもうすっかり眠るしたくをしていましたので、帽子屋の言うことにおおきく首を振りました。

「お月さまのでているこんな時間に、あなたとお外へ行くと言ったら、わたしはきっと、お父さんと、お母さんに、怒られてしまうわ! お外になんて、出してもらえやしないもの」

「結構。結構」

 紅茶を飲みながら、帽子屋はたのしそうに笑っています。

「それではね、お嬢さん。わたしだって、お嬢さんが、めったやたらに怒られてしまうのは、かわいそうだと思っているんだからね。お父さんと、お母さんには、言わないでいくとしよう」

「そんなのは、だめよ、帽子屋さん。かくしごとは悪いことだわ!」

「かくしてはいないさ? だれも気付かないだけでね」

 そう言って、帽子屋は、またしてもカップに紅茶をそそぐのです。

 アリスはいよいよ頭がこんがらがって、じぶんが帽子屋のことを知っているのか知らないのかも、帽子屋のポットにどれだけの紅茶が入っているのかも、お母さんとの約束も、そもそもどうしてこの帽子屋がとつぜんに、まったく気付かないうちにお家のなかにいたのかも、帽子屋のおおきな帽子だってぜんぜん気にならなくなっていました。

 けれどこれだけはわかります。

「あなたの言うことは、まったく、ひとつだって、わたしにはてんでわからないことばかりだけれど。帽子屋さん。あなたはとっても、おかしなひとねえ!」

「――そうとも! きみはまさしく正しいお嬢さんだ」

 乾杯をするようにカップをたかく掲げて、帽子屋が言いました。

「歓迎するよ、わたしのアリス!」

 その時にはもう、アリスはお部屋にいませんでした。

 お家のなかにもいませんでした。床も天井もありませんでした。壁も窓も見あたりません。

 アリスはお空のうえにいたのです。

 あたまのほうに、アリスのお家がある町のあかりがちいさく見えました。足のほうにはまんまるいお月さまが浮かんでいます。アリスはまっさかさまになって、お空をのぼりながら落ちていました。お月さまのかかるお空のてっぺんにむかって、ぐんぐん、ぐんぐん、ぐうんと、落ちているのです。

 ほろのように広がるパジャマをすそをおさえながら、アリスはおおきな声でさけびました。

「――こんなのはでたらめだわ!」

 女の子がおおきな声を出すなんて、とてもはしたないことですし、夜は静かにしなければならないことをアリスは知っていました。けれど、そうしなければ、びゅうびゅうと吹きぬけていく風にさらわれて、帽子屋に聞こえないと思ったのです。

「でたらめもでたらめ、ぜんぶがぜんぶちぐはぐに決まっているよ、お嬢さん」

 アリスとおなじように、あたまをしたに、足をうえにして、お空をのぼりながら落ちている帽子屋が言いました。かれはおおきな帽子にポットをくくりつけて、いまも椅子にすわっているようなかっこうで、紅茶を飲みつづけています。まったくどうして、カップのお茶がこぼれないのか、アリスにはちっともわかりません。

「白ウサギが迎えにきていたのなら、きみはそう、おはなしのとおりに、ふかいふかいウサギ穴に落っこちていたんだろうけどね。白ウサギはなまけもので、かわりに帽子屋が迎えにきたんじゃ、どう考えたって、まともに進むはずがないのさ」

「ああ、もう、ほんとうに、あなたの言うことなんてわかりっこないわ! このままじゃ、わたしは、お空のてっぺんをつきぬけて、お月さまのむこうにまでいってしまいそう!」

「それも結構。しかしながら到着だ」

 帽子屋が言うがはやいか、すってんころりんとアリスはころがって、しりもちをつきました。ずうっとお空にいたはずなのに、どうしてでしょう? アリスはおおきくてりっぱなお屋敷のなかから、とびらを押しあけて、お外にころがり出ていたのです。

 お外は森のようでした。まっくらで、アリスと帽子屋のほかには、ひとっ子ひとり、ねこの子いっぴき見あたりません。お空のうえに、ちかちかと色とりどりのお星さまと、おおきなおおきなお月さまが、ぐうるぐうるとうずまきながら浮かんでいます。

「ここは、どこなのかしら? 帽子屋さん」

「残念ながら、月のむこうではあるまいね。お嬢さん。けれど、もう、こんなふうじゃあ、不思議の国ともいいがたい」

 落っこちたり、でんぐりがえったり、すっかり目のまわっているアリスのとなりで、しゃんと立っている帽子屋がこたえました。右手にポット、左手にはからのカップを持っています。ようやくポットのお茶がなくなったのかしら――と、そんなふうに考えてしまうアリスは、おそらく、これまでの出来ごとにびっくりしすぎて、じぶんがびっくりしているのだということを忘れてしまっているのでしょう。

 だからもう、お母さんとのたいせつな約束も、すっかり覚えていないのです。

 そんなアリスに、帽子屋はにっこりと、まるで紳士のように笑いかけて言いました。

「ともあれ歓迎しようじゃないかね、お嬢さん。いやさ、アリス――」




「――ようこそ、真夜中の国へ」




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