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道化  作者: 小岩井
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後編

それからの話をしよう。


男は結局作品を書き上げ、それを女の下へ送った。


そして、毒を飲んで死んだ。苦しみに満ちた死に顔だった。


作品には、女への恨みつらみが克明に書かれていた。


しかし、男は死ぬことを許されなかった。


愛を知らない罪深い男に、神は罰を与えたからだ。


「これからお前は永劫に世界をさ迷え。

しかし、愛する女から永遠の愛を誓われたなら、お前は人間としての命を取り戻す」と。


男は真っ先に女の下へと向かった。


もう一度チャンスが与えられた今なら、やり直せるかもしれない。


そんな期待は見事に裏切られた。


「あなたと文通をしていた……」


男が名乗っても、女は首を傾げるばかりだ。


男はやがて、自分という存在が既に消されていたのだと悟った。


消しゴムで消すように簡単に男の存在は人々の記憶から抹消されていたのだ。


数少ない友人の下へ行っても、親の下へと行っても、結果は同じだった。


男は絶望したが、神の呪いが彼を死なせない。


ここに来て、男は自らに課された業の深さを思い知った。


「俺が何の罪を犯したというのだ!」


男の放浪の旅が始まった。


男は手当たり次第に女性に声をかけた。しかし、もとよりどちらかと言えば硬い男である彼が、女性と会話しても弾みはしなかった。


男はすぐに諦めた。きっとこのまま歩き続けなければならないのだと確信した。


「まともに誰かを愛することもできないのだから、愛されることなど夢のまた夢だ」


男はそう言い訳した。


男は自分がもはや愛されない人間なのだと思っていた。自分の努力不足などではなく、ただどうしようもない運命なのだと。

そう考えれば、自分のせいにはならなかった。運命に責任を負わせられる、そう考えた。


自分が責任を負うなど御免だと、一度死してなおそういう考えだった。


神の呪いは恐ろしかった。どんな疲労感も、空腹も死の要因にはならず、ただ痛みや苦しみだけが男を苛むのだ。


しかし傲慢な男は、浮浪者であるより旅人であることを選んだ。


そうすれば、浮浪者くらいは見下すことができたからだ。


そうして、百年が経ち、男は自らの名前を忘れた。


呼ばれることのない名前などあってもなくても変わらないのだから。


しかし、その使命だけは忘れていなかった。


さらに百年が経つと、男は使命すらも忘れ、何のためにかは分からないが、とりあえず旅をしていた。


そんなある日の朝、男は倒れた。


倒れ込んだ場所はある村の農地であった。


最初に男を見つけたのは、その村の女であった。


女は年若く、そしてみずみずしくまた純粋であった。


女は生来からの優しさで、男を介抱した。


女の両親は、素性の分からぬ男を疑ったが、女に説得されてしぶしぶ男の宿泊を了承した。


男はしばらく眠っていて、目覚めたのは次の朝だった。


男の目にまず飛び込んだのは、女の嬉しそうな笑顔だった。


どこかで見たような顔だったが男は思い出せない。


「やっと目が覚めたのね!」


男はその言葉で大体の状況を把握した。


「……俺はずっと寝ていたのか」


女はここまでの経緯を簡単に説明した。男も自分の推測と大体合致していたので、黙って頷いていた。


不意に女が男に名前を尋ねた。


男はそこでやっと自分が名前を忘れているという事実に気がついた。


男は狼狽し、しかし特に何も思い付かなかったので、


「……忘れてしまったんだ」と正直に言った。


女は少し驚きながら、


「……じゃあ記憶がないってこと?」


「そうなるな」


男は困りながら、いろいろ考えていると、


「じゃあどうしてここで倒れていたのかも分からないのね」


そう、女が尋ねた。


男は自分の中の記憶の断片をたぐり寄せながら、それを言葉にしていく。


「最初は何か悲しいことがあって……、それから旅を始めた気がするな」


「悲しいこと?」


「分からない。でも胸を引き裂かれるような悲しみだけが微かに残ってるんだ」


男がそれだけいうと女は、


「じゃあしばらく泊まって行けばいいんじゃない?

行くところもないんでしょう?」


「いや、俺は……すぐにでも……」


「でも行くところもないのにどうするつもりなの?」


「……」


余計な気遣いだと言おうとしてやめた。男はこんな余計な気遣いをする女が前にもいたような気がしていた。


誰かは分からない。さっきの悲しみと同じで、ひどくぼんやりとしている。


「分かった、しばらく世話になるよ」


男はその記憶に背中を押されるようにして、女の申し出を受け入れた。


「あのね、あなたって体つきがガッシリしてるし、実は仕事を手伝ってくれたら嬉しいな、とか思ったりしてるの。」


「こんな素性の分からない男を……か?」


「だって、あなたは悪い人じゃないもの。顔や仕草を見れば分かるわ」


女は少し笑いながらそう言った。


『悪い人じゃない』という言葉を男は何故か否定したくなったが、やめてしまった。だから、理由を問うだけに留めた。


「どうしてそう思うんだ?」


「だって、あなたは一生懸命考えてくれてるじゃない。

私の言葉に一生懸命考えて答えてくれる」


「演技かもしれないぞ?」


「そうね、記憶をなくした男なんてお芝居みたいだわ」


女はまた少し笑った。男は少し調子が狂わされるのを感じていた。


「……やりにくいな」


「ん? 何か言った?」


「いや……」


こうして、男は女と共に、女の両親の畑仕事を手伝いながら暮らした。


生前、男は明らかに頭脳労働を生業としていたが、幸いにして長年の旅で体が鍛えられていた。それは農業でよく活かされた。


記憶をなくしたことも新しい仕事をすぐ覚えることに繋がった。


勤勉な彼は女の両親からも可愛がられ、男は女の家庭によく馴染んだ。


女はまるで自分のことのように男が自分の家庭に馴染むのを喜んでいた。


そんなある日、男は村の祭に行くことになった。


男は一度断ったが、女がどうしてもと誘うので行くことになった。


男は女の少し強引な部分が苦手だった。こちらを引っ張られるような感覚だ。


自分はここでいいのに、「もう少しだよ」と引っ張り上げられる。そんな感じだ。


男は自分があまり好きではなかった。何か心の中に自分を卑下する意識がある。


「自分なんて」から始まるいくつもの言葉が男の中にあった。それらは男の可能性を押し並べて潰していく。


そんな自分の過去を男は知りたいと思っていなかった。これだけ自信がないのだ。過去の自分はきっとろくでなしだったのだろう。


今の生活には充分満足している。昔を思い出す必要などない。男はそう思っていた。


祭に行くと案の定、女に連れられていろいろ男は回らされた。

いつも女は楽しそうだった。だが、男は一度として笑わなかった。


最後は女と一緒に芝居を見た。

芝居の幕間に女は隣で言った。


「ねえ、笑い方まで忘れちゃったの?」


「そうかもな」


「いっつも申し訳なさそうな顔とかしかめっ面しかしてないよ」


「そうかもな」


「でも、笑った方がいいと思うな」


「……どうしてだ?」


「あ、お芝居始まるよ!」


男は芝居を見ていたが、全然面白くはなかった。ありふれた恋の話は男の心の琴線に全く触れなかったが、隣で見ている女にはとても楽しいものらしかった。


男は場面に応じて、次々と変わっていく女の表情を見ていた。その方がよほど面白かった。


気がつくと、そのまま芝居が終わっていた。


終わると、女は男の顔を見て、

「お芝居、面白かったの?」と問う。


「……何故聞く?」


「だって、笑ってるもの」


たしかに男は小さく笑っていた。


「笑うのもいいでしょ?」


「ああ、たしかにそうかもな」

「笑ってたら、辛いときでもへっちゃらだってお母さん、言ってた」


「あの元気なお母さんなら言いそうだな」


「だから、あなたも笑ってね」

男は黙って頷いた。


「せっかくだから、もう少し話さない?」


男が了解すると、


「ありがとう! あのね、いい場所があるの!」


いつも通りに女に連れられていくと、小高い丘にたどり着いた。


すると、女は男から手を放して、人差し指を一本立てる。


男が指示の通りに上を見ると、

「きれい……だな」


夜空に光る満天の星に、男は息を呑んだ。


「でしょ? 私だけの秘密の場所なんだ」


しばらく、二人で星を眺めてから、女の方から口火を切った。

「……ねえ、何か昔のこと、思い出した?」


「思い出さなくてもいいことばかりだから、いいんだ」


「どうして、分かるの?」


「昔は、悲しんだり、怒ったり、そんな気持ちがばかりだったんだよ、きっと。

なんとなく分かるんだ」


「……それでも、昔のあなたがいるから、今のあなたがいるんじゃないの?」


「忘れた方がいいこともあるさ」


「私はね、あなたに自分を好きになってほしいの。

私は私のこと、好きよ。そりゃ仕事じゃ失敗ばかりだけど……

でも、そういうのを引っくるめて自分が好き」


「……」


男は女の言葉を反芻していた。

「それでね、私は自分と同じくらい、お父さんもお母さんも友達のことも好きなの。

だから、優しくするの、優しくしたいなって思うの。

あなたは自分のこと、好き?」


「……好きじゃないな」


「でも、私はあなたのこと、好きよ。

あなたは優しくて、力持ちだし、それに何より笑顔が素敵。

こんなに良いところがあるんだから、自分のこと好きじゃないなんて言わないでよ」


「……」


「本当はね、あなたが記憶を取り戻さなければいいって思うの。

そしたら、ずっとここにいてくれるでしょ?

私ね、あなたとずっとずっと一緒にいられたらなって思うの」

「それは……俺と」


男はその先を心のどこかで求めていたような気がした。でもそれは自分には相応しくないといつしか諦めていたものでもあった気がする。


幸福なんて、愛されるなんて、自分には必要ないんだ。


そんなものなくたって、生きていけるだろう。


何故求める?


男の心がざわつく。だが、男は女の言葉を遮らなかった。


「私を、あなたのお嫁さんにしてくれる?」


「俺で本当にいいのか?」


「まだ自分のこと、好きになれない?」


男の頭に黒い影がよぎる。過去の怨嗟が男を襲ってくる。


しかし、男はそれを振り払った。


「……少しは好きになってもいいのかもしれない」


「うん……」


星空の下、男は女を黙って、抱き寄せた。





その日の夜。


男の夢に、どこかで見た顔が出てきた。


それは男に向かって話しかける。


「私のことを思い出させてやろう」


その言葉と共に、男は全てを思い出した。ぼんやりとした過去の思い出が全て鮮明な映像や言葉となって男の頭の中を駆け巡った。


「お前は永遠の愛を得た。よって人間の生に戻してやろう」


「永遠……」


「不服か?」


「私は、永遠の時をさ迷いました。

だからこそ、永遠の恐ろしさが身に染みて分かっています。

だから、彼女にそんなものは背負わせたくない。

私の業は、彼女が背負うべきものではない」


「身を引く……というのか?」


神の問いに男はゆっくりと、だがしっかりと答える。


「生を与える代わりに、私の存在を消してください」


「本当にいいんだな?」


「はい」


安らかな顔で男はそのまま消えた。世界からも。


――次の日の朝、男はいなくなっていた。男のことを覚えている者もまた誰もいなかった。


しかし、あの女だけはその日、何故か涙を流していたという。

好きな人を傷つけてしまった、全ての人にこの作品を送ります。


これが私の贖罪となることを祈ります。


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