前編
例えばの話だ。
ここに、一人の愚かな作家がいたとしよう。
その作家は、ワガママで欲深くそのくせ一人では何もできない男だった。
男の取り柄といえば、少し気の利いた言い回しができることと、ほんの少しの独創性くらいのものだった。
しかし、男にはやたら自信があった。
昔、男が恋文を書き、その結果が散々たるものに終わった時、男はこう言ったのだ。
「教養のない女だと分かったから、あの恋文は成功だった」
男は自らの文章が教養の指針となるような格調高いものだと思い込んでいた。
そんな傲慢の権化は恋する若者でもあった。
若さと恋が交われば、大抵苦悩が出来上がる。自惚れという調味料があれば尚更だ。
男は今日も悩んでいた。
男が恋の悩みだと信じているそれが、実は自らの不安さに由来するものだと気がついてない。
根拠のない自信をどうにかたしかにするための反応に過ぎないことを男は知らない。
男の悩みはいつも同じだ。「自分はどう思われるか?」
問い掛けの相手が、その時々に応じて変わるのみである。
社会、あるいは読者、さらには恋の相手だ。
今日、問い掛けるのは一人の女に対してだった。
この作家の端くれは自らの生活の糧である(無論それだけで食べているわけではないが)、執筆を止めて、その悩みに没頭していた。
女は、文通相手であった。何通目かの封筒の中には、年若い女性の笑顔が写真となって同封されていた。
男も写真を送った。普段身なりに気など使わぬ男だったが、その時ばかりは念には念を入れた。
無精髭を剃り、ボサボサの髪を切り、その上で近年稀に見る笑顔を男は写真に収めた。
女の文章からは落ち着いた人柄と気遣いが伺えた。それが男には好印象に映った。
「きっとこの女は自分を立ててくれるような人間に違いない」
男はそう思った。
何度も手紙を重ねるにつれて、その思いをも募らせていった。
仕事の合間に手紙を書くことが日常になった。
女から、相談を受けたときは出来る限り誠実に答えた。全ては「良く」思われたいがため。
段々と男には目標ができた。
金を貯め、遠くの街に住む彼女の下へと会いに行く。
ちょうど勤労の対価が、日々の慰めと酒に消えていた時だ。その目標はそれらよりよほど自分のためになるように思われた。
男は働き、そして書いた。頑張るが故の悩みもあった。
それは男にとっては苦しいものであり、またチャンスでもあった。
その悩みを手紙にしたためると、彼女から丁寧な返事が返ってくるからだ。
男はそんな日々に満足していた。
一歩一歩目標に近づいているという確信があったからだ。
この貧乏な作家の心は、しかし豊かであった。一見するとそう見えた。
少なくとも今日まではそうであった。
男は彼女の誕生日を知った時、その日を目標が成就される日と定めた。
彼女の誕生日を祝いにその街に行く。なんと甘美な響きであろうか、男は自らの案をそうやって自画自賛した。
断られるはずなどない。男の自信はもはや自分でもどうすることもできないほどに肥大していた。
男は自信を持って、その提案をした。いつもより、少しだけ丁寧に字を書き、いつもより、少しだけ文を飾った。
しかし、女からの返事は意外なものだった。
「その日は婚約者との食事があるのでまた今度にしてほしい」
要約すればそういうことだった。無論、彼女なりの丁寧な、過剰でない程度に言葉で書かれてはいたが。
しかし、男にはその部分しか目に入らなかった。
男は一瞬目の前が真っ暗になり、箪笥に小指をぶつけて、我に返った。
男の悩みは、そこから始まった。気がつけば、彼女から手紙を受け取ってから数日が経ち、今日は彼女の誕生日であった。
男は結局悩むのを止めて、手紙ではなく、小説を書くことにした。
小説は目標に向かっているときに書き始めたものだ。
だからというべきか、明るい恋愛小説であった。
男はそのクライマックス、幸せが主人公とヒロインを包み込む場面を書かねばならなかった。
昨日までの男なら喜々として書けた場面だ。実際、ここまで筆を止めたことなどほとんどなかった。
しかし、今は書けない。
それでも仕方なく、空疎で空虚な綺麗事を書き出していく。
どうにか作品を完成させると、男は自嘲気味に笑い出した。その笑いは間違いなく狂人のものであった。
男は笑いと共に言う。
「これが笑わずにいられようか!
真実の愛に敗れた者が片や自らの作品では、真実の愛を勝ち取りそれを我が物顔で説いている。
今、彼女は婚約者との愛を育む真っ最中であっても、指を加えて見ていることしかできない。
醜い嫉妬の炎に身を焦がしながら、かたや美しい愛情を描く。
これを滑稽と呼ばずしてなんと呼ぶのか」と。
男は机に広がる原稿を裏返しにした。それは先程の小説の最後のページであった。
男はそこにまた新たな物語を書き始めた。
恋は人間を狂わせるという話。
所詮これもまた私小説に過ぎないのです。
下らない阿呆とは他ならぬ私でございます。




