3.2
彼女はなにをするにも密かに緊張していたが、さすがにもう慣れてきたようだ。
昨日の夕飯からはダイエットのことも口にしなくなり、今朝の朝食も遠慮なしにすっかり食べきってしまった。
僕の支度を待つ彼女は、玄関から頻りに「まだですかー。まだですかー」と言ってくる。
せっかく麓まで下りるのだからと、買うものはないかとか、他に用事はないかとか、おとなげなく気持ちがうわついてしまう。
「ごめん、待たせたね」
大きな黒い瞳はじっと僕を見つめた。
「ああ、本当にごめんね。すぐに出発しよう」
そう言うと、彼女はにこっと笑ってこぶしを振りあげた。
「手紙はちゃんと持った?」
「はい、このとおり」
彼女はなにか文字の書かれた紙切れをちらつかせて、それをリュックに突っこんだ。
「ポストまではどのくらいですか?」
手に持っていたリュックを背に乗せて、彼女は元気に声を張りあげた。
それにしても、郵便箱を目指して男女ふたりが息んで早立ちしようとは、こんなに滑稽なことがあるだろうか。
特に足どりの軽い彼女は僕の半歩先を歩く。
「一、二時間かな。山の入り口まで行くから、継美さんもここに来るとき通ったと思うよ」
「あそこまでですか」
うなだれた彼女は、今までよりも歩調を半歩遅らせた。
草と花屑を踏みならす音は、ふたつ整ってなだらかな並木の斜面を下った。
「昨日は少し暑いくらいだったかもしれませんね」
「そうかな」
「ええ。もう終わりが間近ですけど、それでもこの季節にはこれくらいが一番です」
同じ晴れでも昨日とはだいぶ違っていて、こんなにうららかな日よりに心はとても幸せなになる。
高い木々に囲まれてはいたが、枝葉の隙間から洩れる柔らかな日の光に辺りはほの明るく照らされていた。
「朽木さん」
通り風に僕が目を閉じたときだ。
「あの、朽木さんは山にこもってなにをしているのですか」
彼女は風にさらわれた髪留めを拾うように、くずれた髪を手で直しながらそう僕に訊いた。
なんだろうな。うん。そういえば、わからない。
などとは言えずに、僕はしばらく黙りこむ。
「朽木さん?」
「うん、ごめん。ええと、なんていうかな。別になにか怪しいことをしているわけではないんだけどね」
言いよどんだ言葉に僕がなにか隠しごとをしていると思ったのか、彼女は訝しげに僕を見張った。
「あ、本当だよ。人里離れた山の奥に住んでいるからって、本当に怪しいことを目的にしているんではないんだ」
怪しくない、の一点張りはまさしく怪しさの極みで、それで疑いを晴らそうとするなんて、まだ大海をこの手で塞ごうとする方が可能性があるというものだ。
「そうだね……、うん。ただ、そこでじっとしているのが性に合っているのかな。だから、山にこもっているんだろうね」
「ただ、じっとしているのが?」
「そう。……こう、地に根を張ってね」
口を利いてくれた彼女に僕はそっと胸をなで下ろした。
しかし、それはともかくとして、今度は尋常でなく熱いまなざしを向ける彼女の心情が汲みとれず、いたく困惑した。
「わかります!」
急に興奮した彼女は、僕も知らない僕の心理をああでもない、こうでもない、と自問自答しだした。そうして導き出された彼女の結論で、ついに僕は悟りを開いた隠者にまで成り上がったのだった。




