3.1
真上に架かる天井の板の遙か上、朝霞も抜けたそのさらに向こうで夜は白々と明けた。
それでも起床するにはまだ早く、前髪を掻きあげた手はそのままにどのくらいかの時間が過ぎた。
つい何分か前に入り口の戸が音を立てたのは確実で、不安感が眠気に勝るのにはそれからいくらも時間を要さなかった。
空気の粒子も凍てつくような朝ぼらけに、布団を出たばかりの身体は音を立てて固まった。そうはいっても、そのまま動かずにいようものなら、冷水の粒を吸い入れた皮膚はたちまちに冷凍魚の鱗になっただろう。
身体が、床と同じぎしぎしという音を立てる。
彼女に貸したかつての僕の部屋の戸は開きっぱなしで、なかに彼女の姿はない。さらに、やはり入り口の戸の鍵が開いていたことからも察するに彼女が小屋を出て行ったのは十中八九間違いない。
この寒いのに、彼女が着ていた服はたいした厚手のものではなかった。
一度自分の部屋に戻った僕は、羽織ったオーバーとは別にもう一枚厚いのを手に小屋を出た。
外の立ちこめる霞に気後れはしたが、それもほんの一瞬で、まもなく遠く聞こえる草踏む音を追いはじめた。
彼女が何者なのか知らないし、考えればこの小屋を訪ねてきたのも本当はどんな目的があってのことかしれない。
それを思うと、彼女はその手口を常習とした物取りで、今まさに消え失せようとしているのか。あるいはただ夢を歩いているのか。そのどちらなのか、どちらでもないのかさえも僕に判断できることではなかった。
いずれにせよ彼女を引き留める以外ないのだが、ある程度まで距離を詰めたところで彼女を呼びとめるのを躊躇した。
彼女はあっちへ行ったかと思えばこっちへ行ったりして、その宛てのない足どりは僕には恐怖だった。
怖い。
それでも僕は、いつも努めて平気なふりをした。
初めての山の夜も、夜の火影も、姿や声がわからないものが本当はとても怖いのに、その臆病をひた隠しに隠して澄ました顔をしてきた。
一人でいるときさえもそんなだ。
「継美さん」
彼女の前ではどうにか恰好がつくようにと努力した。
その彼女にこんなにも怖じけるなんて。つくづく嫌になる。
「朽木さん?」
応答があったのは、彼女が動きを止めて一呼吸おいたあとだった。
声さえ聞ければもう大丈夫だ。半透明の白い幕の向こうで僕に返事をしたのは、僕がそうあってほしいと思う彼女そのものだ。
「おはよう。日が昇りきらないあいだ、ここは冷え冷えの冷蔵庫だよ」
近づく度にはっきりと現れてくる青白い肌の彼女は、どうしてか困った顔をした。
「おはようございます。ええ、冬みたいな寒さで驚きました。……あの、どうしてこちらにいらっしゃったのですか?」
僕がオーバーを渡すと、彼女はお礼を言ってそれに袖を通した。
「うん、目が覚めてね。継美さんが外に出て行ったみたいだから、こんな早くにどうしたのかなと思って追ってきたんだよ」
彼女はジッパーを上げて白い息を吐いた。
「勝手にごめんなさい」
「怒ってるわけじゃないからいいんだよ。だけど心配だったから。なにかあったの?」
横を向いた彼女は顔を一層険しくさせた。
それに僕は、僕が思うよりも突っこんだことを彼女に訊いてしまったのだと悟った。
「笑わないでくださいね」
彼女以外のすべては寒さと静寂にまだ凍りついている。
今日は少し寒くなる。暖かかったのは昨日の一瞬で、今日は再び春に戻った。
「手紙を」
彼女は僕を流し目に見た。
「手紙を、送りたいと思ったんです。それでポストを探していたんですが、やっぱりなかったみたいなので」
「ポスト探し?」
早朝から。山のなかで。
突飛なことに僕は声を出して大笑いした。
「ああ。ごめん、笑っちゃったね」
まだ笑いをかみ殺している僕を見ずに、彼女はばつが悪いといった面持ちで下を向いている。
「うん、ポストか。麓まで下りればあるんだけど。そうだね、笑ってしまったお詫びに、今日はそこまで案内させてもらえるかな」
僕には計り知れない部分を彼女は持っている。
それというのは、不可解な行動はもとより、もう眼を上げてにこやかに首を縦に振ったこの感情の転換の素早さに他ならない。
男性と女性は根本的なところが違っている、といつか聞いたことがあったが、彼女の場合それが色濃く出ているにすぎないのだろうか。
「それじゃあ、外はまだこんなに寒いことだし、とりあえずは小屋に戻ろうか」
一面に敷かれた霞を身にまとった彼女は、穏やかに笑った。




