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春の訪問者  作者: (せ)
5/13

2.2

 細い山道は辺りを鬱そうとした雑木林に囲われていた。

 ここには、わたしが一歩進むごとに、さにゅ、と言って土に埋まる下草と、そんなことが起こっているとも気づかずに上ばかり見ている大木しかいない。

 朽木さんと別れて以来、わたしと視線の高さが重なるものとは一度も出会っていない。

 永久に続くと思ったひとつの風景は、あるときを境に遠くまで開けた川辺に変わった。

 川縁は広い範囲で砂利がむきだしになっていて、わたしがそこに踏みこむと小石たちは軽い音を立てて転がった。

 今し方まで見えていなかった空のずっと高いところでは大きな鳥が大空に影を映し、その下の水辺では小鳥がなにかをして遊んでいた。

 木たちのさざめきは今はもう遠くて、ここには川の流れる音が満ちあふれている。

 浅瀬に膝までつかった小鳥はわたしが近づくごとに大きくなり、程なく羽ばたいて、どこかへ消えた。

 わたしは背負っていたリュックを砂利の上に置いて、小鳥がいたところに膝を抱えて座り込んだ。

 水面を揺らすのはうんと遠くのなにかで、それがどんな力であるのか、わたしにはわからなかった。

 眼を向けた川の向こう側もこちら側とさしたる違いはない。樹木は緑で雲は白。それらが馴染んだ川もそれはそれで深い青になったり透明な黒になったりとみんな好き勝手している。

 そのなかのわたしも自由で、なんの予告もせずにリュックを近くに引き寄せて、なんの断りもせずにスケッチブックにそこのすべてを描きはじめた。

 胸がすくまで好きに絵を描いてやろうと、鉛筆をがりがりさせては紙をめくり、そうしてはまた鉛筆をがりがりとさせた。

 そうしているうち、おしりに食い込む小石の痛みに耐えられなくなった自由なわたしは、スケッチブックをほっぽり出して砂利の上にごろんと寝転がった。

 手の平で顔を覆い太陽の日射しから眼を守りながら、身体をもぞもぞさせて具合のよい体勢を探った。

 わたしは思いたって自分にルールを課した。

 ――魚が跳ねるまで絶対起きあがらない。

 指の隙間から覗く空はちっぽけで、そこを時々黒い影が渡ったりもした。

 わたしがどこまで行こうとも、空はいつも同じ間隔を保ちながら背中につきまとってくる。町を離れたこんな山のなかにまでも。

 でも、追ってくるのはそれだけで、彼に所属するもの――彼の生身の身体も、彼の想いも追っては来なかった。


 今日は遠方からの風が小さな夏を連れてきたためにとても暖かい。


 一瞬か、それかとても長いあいだ失っていた意識を取りもどしたのは、リュックのなかのケータイが鳴った気がしたためだ。

 身体を起こそうととっさに全身に力を入れたが、さっき決めたルールを思いだして、ぐっとそこで思いとどまった。

 ふとしたときにルールを定めるのは小さい頃からの癖で、そのひとつひとつは今まで確実に守ってきた。一種の願かけで、きちんと守れた暁には必ずいいことがあると信じている。

 寝たままの体勢で手を伸ばしてリュックを掴まえ、なかからケータイを取りだす。

 圏外につき着信、メールともに0件。

 そうだった。

 ケータイをリュックに戻し、目を閉じる。しかし、まもなくまぶたになにかの影が重り、なんだろうとまた目を開く。

「朽木さん」

 横になったまま出したかすれ声は、朽木さんに届く前に薄くなって散った。

 空の光は朽木さんの輪郭に縁取られ、そこから零れた色と形のない矢がわたしのまわりに降り注がれた。

「山菜採りの途中なんだけどね、もしかしたら僕が教えた川に継美さんが来てるかなと思って川沿いに歩いてきたんだ」

 朽木さんが遮られなかった光の矢は、雲の流れに合わせて濃淡を強くしたり弱くしたりした。

「起きないの?」

「え。あの、ええと」わたし、魚が跳ねるまで起きられないんです。

 わたしの言った言葉に、朽木さんは事情を掴みきれないという顔で首を傾げ、少し考えたのちにまたふっと笑顔を作った。

「魚なら今さっき跳ねたよ。僕が脅かしてしまったせいでね」

 わたしの言葉を受けいれてくれた朽木さんに面食らってしまい、朽木さんをしばらく無言で見つめて、それからのっそり起きあがった。

「朽木さんのおかげだわ」

 髪の砂を払いのけたわたしは、川に向かって両膝を抱えた。

 わたしは隣に座った朽木さんの顔を見ることができなかった。

 何時間か前までは少し格好いいなと思っていただけなのに、今は寝転がっていたところを見られてこんなに恥ずかしく思うなんて。

 それは、なんでもない時間の不思議で、なんの力も加わっていないはずの心が絶えず変化するのだ。

 ちょうど目前の水面を揺らす力がどこからかやってくるのと同じで、わたしの心もうんと遠くのなにかから影響を受け続けている。

「僕がうっかり小石を蹴っ飛ばしてしまったんだ」

 わたしは朽木さんの方を見て、ばっちりと眼が合うとすぐに逸らしてしまった。

「そうしたら途端に継美さんが動いたから、その音に気づいて目を覚ましたと思ったんだけど、違ってたかな」

 そうか。その音で起きたのかも。

「こんなところで寝て身体は痛くならなかった?」

「ええ、少し。でも、もう大丈夫ですっ」

 わたしはそんなことをしゃべりながらも、髪はくしゃくしゃになってないかとか、横顔は変になってないかとか考えを巡らせた。

 そんなわたしは、せせらぎの音を見ながら、それでいながら一心に朽木さんを横目で見つめた。

「ほら」朽木さんはわたしを見た。

「袖が少し濡れちゃってるよ」

「えっ」

 わたしは左腕を上げて確認した。

「本当だわ。……失敗」

 わたしが肩をすくめて笑うと、朽木さんも一緒になって笑った。

「さっきはなにしてたのかな?」

「あ、ええとですね」

 わたしはまた視線を気持ち安らぐ方に戻した。

「眠ってた、は眠ってたのですが、その前はちゃんとスケッチブック一冊制覇の目標に向けて絵を描いていて、けどこの陽気になんだかうとうとしてしまって……。ええ、でも一瞬です。本当に一瞬だけ寝てしまったみたいで、それから目が覚めたんです。それでですね、この、ええと、これは『携帯電話』っていいまして」

 朽木さんは笑ったまま、知ってるよ、と言った。

「えっ、と、そうでしたか。あの、ええと……、ごめんなさい」

 わたしったら、恥ずかしい。朽木さんが文明から少し離れて生活をしているものだから、なにも知らないんだと勝手に決めつけてしまった。

「気にしないよ。大丈夫」

 なにを言えばいいのかわからなくなった。わたしは身体を縮こまらせて俯いた。

 真下にあるたくさんの小石はわたしの影の色に染まり、そのうちのひとつは執拗な袖の滴りを受け続けていた。

「僕はね」

 朽木さんは言った。

「子供の頃、あの小屋に父親とふたりで住んでいたんだ」

 わたしは頭を上げて朽木さんの方を向いた。

 朽木さんは、なにを思う表情でもなく、ただただまっすぐ前を見つめている。

「子供の頃から、ずっとですか?」

「いや、小学校に上がるくらいまでだったかな。それで何年か前にふとここを思いだして、また住みはじめたんだ」

 朽木さんはこちらを向いて、おかしいかな、と微笑み、また川に眼をやった。

「そうは言っても、冬には雪が積もる前に山を下りるんだけどね。ここに来た最初の年に山の冬を身をもって体験して、一人の力じゃとっても冬は越えられないって確信したんだ。残念ながらね」

「それじゃあ、あそこは朽木さんの別荘みたいなものかしら」

「別荘?」

 何気なく言った言葉に朽木さんは盛大に笑って、「ただの山小屋に別荘はよかったね」とまた大笑いした。

 わたしがむくれてなにか言い返そうと朽木さんを見たとき、朽木さんの眼は真剣なものに変わっていた。

 それで、そうかな、うん、言われてみればそうだな、そうだそうだ、とかぶつぶつ言って、くるっとわたしに笑顔を向けた朽木さんは、もうそれ以外に考えられない、と言ってわたしの意見に同意してくれた。

「つまり、継美さんは僕の別荘の初めてのお客さんっていうことになるね」

 嬉しそうに言う朽木さんよりもわたしはもっと嬉しくて、また顔を膝の陰に隠した。

 それからわたしはずっとそのままの体勢でいた。

 そうしていると、神経は次第に研ぎすまされていって、髪にあたる風や、遠ざかっていた草木のさざめきを微かに感じとれるようになる。大岩にぶつかる川のしぶきはさっきよりも多く、細かくなり、鼓膜を振動させる。

 そういえば、わたしが踏んづけた草は死んでしまったのかな。あの声は死に際の叫びだったのかも。

 さにゅ。さにゅ。

 そう思うと、耳から離れない。

 あの草たちはまだ生まれたばかりだったのかな。いや、もしかしたらもうお年寄りだったのかも。

 きっとここにいる木々のほとんどは、誰もわたしよりずっと長いあいだ生きているんだろうな。

 

 わたしは、今考えたことをそっくりそのまま朽木さんに話すことにした。


 あの新緑の若葉も長い月日の末には散るんだろうとか、さっき朽木さんが跳ねるのを見た魚も岩にぶつかって突然死んでしまう日が来るのかもしれないとか、思うことは取り留めなく胸から溢れでた。

 朽木さんは黙ってそのひとこと、ひとことを受けとめる。

 本当は朽木さんの顔を見たいけど、眼が合ったら照れくさくなるから、わたしは下を向いたままで話を終えた。

 朽木さんは小石をひとつ拾って、それをよどみなく流れる川の水に放り入れた。

「そうだね。葉はいずれ散ってしまうし、魚もいつかは死んでしまうね」

 わたしは顔を少しだけ上げて、朽木さんを盗み見る。

 朽木さんは、川か、そこにいる魚か、それか対岸の木々のすべてを見やっていた。

「それに、山の木のほとんどは、ぼくたちの生まれる前から、ずっとそこにあるんだろうね」

 わたしは、朽木さんがなにを見ているのか、視線の先をそっと調べようとしたが、遠い景色の途中視線を見失った。

「でもね、この山には新しく生まれる木もあるよ」

 朽木さんは立ちあがって、もう一度太陽からわたしを隠した。

「絵、がんばって」

 朽木さんは山菜のたくさん詰まった袋を拾いあげて、少しずつわたしから離れていき、ついにはわたしの目で追える範囲からいなくなった。

 あれからわたしは空の鳥を数えたり、丸い石を探したりした。そのあとも後かたづけをもたもたとしていたものだから、最後にリュックの中身を確認しようとしゃがみ込んだときには、空はもう鮮やかな赤に染まっていた。

 中空の大気を焼く静かな夕日は、わたしの手の甲にほのかな赤色を落とした。

 変わったのはほんの些細なこと。

 今日が昨日よりも少し暖かくなったことと、それから、少し前に出会った大人の男性にちょっとだけ惹かれたこと。

 ただ、それだけ。

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