魔竜を倒した彼女が、王子ではなく荷物持ちの俺を選んだ理由
その日、長らく王国の仇敵だった魔竜が討伐された。
もちろん、俺が倒したわけじゃない。倒したのは雇い主の魔術師様で、俺は荷物を運んでいただけだ。
そして、長かった旅もついに終わりを迎える。
魔竜討伐の旅から帰還して一夜明け、俺は宿の一室で荷物を整理していた。
使い込んだ鍋に、残り少ない薬箱。底を繕った靴は、もう一度直せばしばらく履けるだろう。もっとも、伯爵令嬢である彼女が、今後もこんな靴を履くとは思えないが。
彼女は王国最強の魔術師だ。
魔竜を討伐するほどの腕前で、頭もよく、何があっても冷静だ。貴族の生まれで、容姿だって美しい。
そんな人の靴を俺が繕うことになるなんて、昔は想像もしなかった。
俺が彼女と初めて出会ったのは、十年以上も前のことだ。
俺は田舎の貧しい村の出身で、当時、父親の遠征に同行して村を訪れていた彼女に、命を助けられたことがある。
村の近くで魔物に襲われた俺を、彼女が魔術で救ってくれたのだ。
あのときの彼女は、まだ今ほど名の知られた魔術師ではなかった。それでも俺にとっては、物語に出てくる英雄そのものだった。
それから時が経ち、魔竜討伐の遠征に同行する荷物持ちを募集するお触れが出た。
俺は真っ先に志願した。
魔竜の討伐など無謀だと、誰もが口を揃えていた。当然、同行者だって命懸けだ。結局、俺以外に志願者はいなかったらしい。
だが、その分、報酬は破格だった。故郷の家族を養えるし、村の暮らしも少しは楽にできる。
もちろん、それは本当の理由だ。
ただ、あの人のそばで働けるなら、少しくらい恩返しができるかもしれない。そんな気持ちもあった。
そうして念願叶って彼女の荷物持ちになったわけだが、実際に一緒に旅をしてみると、一つ困ったことが分かった。
彼女は、生活能力については少々問題があったのだ。
放っておけば食事を抜くし、靴が破れても気にしない。怪我を隠して進もうとするので、一度本気で怒ったこともある。
あのときは解雇されるかと思った。
ところが彼女は、しばらくぽかんとしたあと、妙に素直に謝ってきた。
以来、俺が飯を作ればちゃんと食べるし、休めと言えば渋々ながら休むようになった。
まあ、世話の焼ける人だった。
そんな彼女とも、今日でお別れだ。
報酬を受け取ったら、俺は故郷に帰る。家族も待っているし、村のみんなにも無事を知らせたい。
何より、伯爵令嬢と荷物持ちでは、旅が終われば接点もなくなる。
それでいい。
憧れの人の役に立てたのだ。これ以上を望むなんて、贅沢というものだろう。最初からどうにかなるなんて思っていない。
それに、魔竜討伐の褒美として、国王陛下は王子殿下との婚姻を考えているらしい。
彼女には、そういう立場こそふさわしい。
強いて心配があるとすれば、ちゃんと飯を食うかどうかだけだが、そこは王家がしっかり管理してくれるに違いない。
「……もう、荷造りをしているのですか」
振り向くと、いつの間にか彼女が立っていた。
「はい。今日の褒賞式が済めば、仕事も終わりですから」
「故郷へ帰るのですか」
「そのつもりです。長い間、お世話になりました」
「……そうですか」
彼女はそれだけ言って、黙ってしまった。
いつもどおりの、感情の読めない顔だった。
「どうかしましたか?」
「いいえ。何でもありません」
彼女は少し考えるような顔をしてから、俺の手元を見た。
「その杖も、今日までお願いできますか」
「もちろんです。最後までお運びしますよ」
俺が答えると、彼女は小さく頷いた。
それから何か言いかけたようだったが、結局、何も言わずに部屋を出ていった。
変な人だ。
まあ、今に始まったことではない。
*
王宮の広間は、俺には場違いなほど豪華だった。
金の装飾に、立派な絨毯。貴族たちがずらりと並び、玉座には国王陛下が座っている。
俺は広間の隅で、いつものように彼女の杖を抱えていた。
彼女は玉座の前に立ち、国王からの賛辞を受けている。
旅の間は、焚き火の前で眠そうにしていたり、苦手な野菜を皿の端へ寄せたりしていた人だ。
だが、今の彼女は誰が見ても立派な英雄だった。
やっぱり、こういう場所が似合う人なのだ。
「此度の働き、まことに見事であった。そなたには相応の褒美を与えねばなるまい」
国王陛下が満足げに頷いた。
「そこで、我が息子との婚姻を考えておる。そなたほどの者ならば、王家に迎えるに不足はない」
広間がざわめいた。
やはり、噂は本当だったらしい。
胸の奥が少し痛んだが、覚悟していたことだ。
彼女が幸せになるなら、それでいい。
俺は抱えていた杖を持ち直した。
「ありがたきお言葉です、陛下」
彼女は静かに頭を下げた。
「ですが、一つお願いがございます」
「ほう。申してみよ」
「褒美を選べるのでしたら、あの方との結婚式をお願いします」
彼女が、こちらを指さした。
杖が床に落ちた。
乾いた音が広間に響く。
……え?
「……あの方、とは?」
国王陛下が尋ねた。
「そちらにいる、私の荷物持ちの彼です」
彼女はきっぱりと言った。
広間中の視線が、一斉に俺へ向いた。
いや、待ってほしい。
何の話だ?
「そなたの荷物持ち、とな?」
「はい」
彼女ははっきりと頷いた。
王子殿下も、国王陛下も、貴族たちも呆気に取られている。
当然だろう。
俺だって、まったく理解できない。
彼女は魔竜を倒した英雄だ。王子殿下と結婚できるというのに、どうして俺なんかを選ぶのか。
気づけば、口が動いていた。
「……な、なぜ、自分なのですか」
失礼な質問だったかもしれない。
だが、聞かずにはいられなかった。
彼女なら、きっと明確な理由があるのだろう。
この人はいつだってそうだった。どんな窮地でも冷静で、何をすべきか分かっている。
ところが。
「……それは」
彼女は言葉に詰まった。
珍しい。
魔竜を前にしても取り乱さなかった人が、困ったように眉を寄せている。
「あなたが、帰ると言ったので」
「……はい?」
「嫌だったのです」
彼女は俯いた。
「あなたが故郷へ帰ると聞いて、嫌だと思いました。もう一緒にいられないのが、どうしても」
俺は何も言えなかった。
「私は、あなたがいなくても生きていけます。食事も作れますし、靴だって直せます。……たぶん」
そこは断言できないのか。
……いやまあ、それはそれとして。
「でも、あなたがいないところへ帰るのは、嫌なのです」
彼女は顔を上げた。
「覚えていますか。旅立ちの日のことを」
「旅立ちの日、ですか?」
「誰も私が帰ってくるとは思っていませんでした。魔竜を倒せるなどと、本気で信じていた人はほとんどいなかった」
確かに、そうだった。
出発の日、見送りの貴族たちは揃って暗い顔をしていた。まるで葬式のようだったのを覚えている。
「でも、あなたは違いました」
彼女が言った。
「あなたは、帰り道の分まで茶葉を詰めてくれたでしょう」
「ああ……はい」
それなら覚えている。
彼女は紅茶が好きだったし、行きの分だけでは帰りに困ると思ったのだ。道中、同じ銘柄が手に入るとも限らないし。
「あなたは、どこまでも私の勝利を信じてくれていた」
彼女は少し笑った。
「それが、とても嬉しかったのです」
俺は思わず彼女を見つめた。
そんなことで?
ただ、茶葉を詰めただけなのに。
「それだけじゃありません。怪我をしたときも、疲れたときも、あなたはいつも私を待っていてくれました。私がどんな姿で戻っても、当たり前のように食事を用意してくれた」
彼女の声が、少し震えた。
「だから、旅が終わっても、あなたのところへ帰れるものだと……勝手に思っていました」
ああ。
そういうことだったのか。
俺が何でもないと思っていたことを、この人はずっと覚えていたのだ。
破れた靴を繕ったことも、怪我を叱ったことも、帰りのお茶を用意したことも。
俺にとって彼女が特別だったように。
「……あなたが好きなのです」
彼女が言った。
その顔は真っ赤だった。
「ですから、私と結婚していただけませんか」
王国最強の魔術師が、俺の返事を待っている。
魔竜を倒したときにも見せなかった、不安そうな顔で。
俺は慌てて落とした杖を拾い、それから彼女に向き直った。
「……自分で、よろしいのですか」
「あなたがいいのです」
即答だった。
まったく、この人は。
肝心なところでは、いつだって迷わない。
「……自分も、ずっとあなたが好きでした」
ようやくそう言うと、彼女が目を丸くした。
どうやら、まったく気づいていなかったらしい。
俺は苦笑した。
「喜んで、お受けします」
彼女はしばらく俺を見つめていた。
それから、旅の間に何度か見せてくれた、あの小さな笑顔を浮かべた。
*
「うむ! では、婚約は成立ということでよいな!」
国王陛下の声で、俺はようやく周囲の存在を思い出した。
そうだった。ここは王宮だった。
「あ、あの、陛下。よろしいのですか? 王子殿下とのお話は……」
「よい。そもそも褒美として持ちかけた話だ。本人が望まぬのであれば仕方あるまい」
国王陛下は愉快そうに笑った。
「それに、これほどまでに想い合っておる二人を引き裂くほど、余は野暮ではないぞ!」
「あ、ありがとうございます!」
「うむ! では、式は王宮で盛大に執り行おう。魔竜を討伐した英雄の婚礼だ。国を挙げて祝わねばな!」
「あ、あの、陛下」
俺はもう一度、恐る恐る口を開いた。
「何だ?」
「式の準備には、自分も加わらせていただけないでしょうか」
「ほう?」
「彼女は好き嫌いがありますので。料理や花などは、できれば自分が確認したいのです」
彼女は魚料理が好きだが、香草は苦手だ。花も、香りの強いものだと頭が痛くなるらしい。
せっかくの結婚式なのだから、嫌な思いはさせたくない。
「はっはっは! なるほど、花嫁のことはそなたが一番よく知っておるというわけか! よかろう。好きにするがよい!」
「ありがとうございます!」
俺が頭を下げると、隣で彼女が笑っていた。
「……何ですか?」
「いいえ。あなたは、どこへ行ってもあなたなのですね」
「そりゃ、そうでしょう」
そう答えると、彼女はますます嬉しそうに笑った。
何がおかしいのか、俺にはよく分からなかった。
やがて褒賞式が終わり、俺たちは広間を退出することになった。
さて、彼女の杖を運ばなければ。
そう思って持ち直したところで、彼女が俺を呼び止めた。
「最後に、もう一つだけ運んでいただけますか」
「え?」
彼女は俺の前で、両腕を伸ばしていた。
……なるほど。
「それは、ずいぶん大きな荷物ですね」
「重いですか?」
「いいえ。これくらいなら、お安い御用です」
俺は杖を近くの侍従に預け、彼女を抱き上げた。
広間から拍手が湧き起こる。
彼女は少し恥ずかしそうに、俺の肩に顔を埋めた。
「……落とさないでくださいね」
「何を今さら。今まで一度だって、あなたの荷物を落としたことはないでしょう」
「先ほど、杖を落としました」
「……あれは勘弁してください」
彼女が声を立てて笑った。
俺もつられて笑った。
今朝までは、この人と別れて故郷へ帰るつもりだった。
それがどういうわけか、結婚することになっている。
人生、何があるか分からないものだ。
「ところで、帰ったらお茶にしませんか」
腕の中から彼女が尋ねた。
「いいですね。ちょうど茶葉も残っていますし」
「帰り道の分ですか?」
「ええ。少し余りましたから」
「……よかった」
彼女は満足そうに微笑んだ。
俺はその笑顔を見ながら、王宮の扉へ向かって歩き出した。
荷物持ちとしての最後の仕事は、どうやら花嫁を運ぶことになったらしい。
もっとも、今度の荷物は、一生手放すつもりがないのだけれど。
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