犯罪のない都市
犯罪というものが、ほとんど存在しない時代だった。
少なくとも、都市の統計の上では。
交通事故は年に数件。殺人はゼロ。
朝の大通りには、かつてあったはずの音が欠けていた。クラクション、急ブレーキ、怒鳴り声。自動運転車は交差点の手前でひとりでに速度を落とし、互いに道を譲り合うように、なめらかにすれ違っていく。信号が変わるころには、もう誰も止まっていない。街路樹は寸分違わぬ高さに刈り揃えられ、歩道の白線は、雨上がりの朝でさえ汚れていなかった。
街角に警察官の姿はない。必要がないからだ。
声の大きさ、表情、言葉の選び方、過去の行動履歴。都市AIはそれらを絶えず見ている。諍いは起きる前に仲裁が入り、詐欺は成立する前に決済が止まる。犯罪になりかけたものは、警告ひとつで静かにしぼんだ。
市内に配備されている人間の警察官は、一人しかいない。
榊という。定年まで、あと三年。
かつて交番だった建物は、いまは無人の宅配ロッカーになっている。榊が署の窓際の席に座っているのは、AIが結論を出せない案件のためだった。AI同士の判断が割れたとき。市民が判断に異議を申し立てたとき。そういうときにだけ呼ばれ、画面の前で、機械の出した答えに人間の判を一つ添える。
自分が何のために残されているのか、榊にはよく分からなかった。
◇
黒瀬の名前は、記録の上では、どこにも引っかかっていなかった。
職業欄には「システム技術者」とだけある。犯罪歴なし。交通違反なし。信用スコアは八百二十四。市の平均を大きく上回る。納税良好。医療履歴に問題なし。近隣住民とのトラブルなし。
模範的な市民だった。
ただ、妙な通報が増えていた。
『黒瀬という男が、隣人の家から金品を持ち出している』
『黒瀬が公共システムを不正に使っている』
『あの男は犯罪者だ』
どれも、AIの調査では事実ではないと判定された。通報者にはそれぞれ罰金が科された。虚偽通報。名誉毀損。社会不安を誘発する情報の拡散。処分の理由はいずれも正当だった。
「……二十三件」
三か月で二十三人。全員が黒瀬を犯罪者だと訴え、全員が間違っているとAIは言う。
読み進めるうちに、手が止まった。どの通報文にも、盗まれた品の名前がない。日付もない。「持ち出している」「不正に使っている」と、現在形で言い切るだけだった。二十三人が、同じ曖昧さで同じことを言っている。
榊は椅子の背にもたれ、治安管理システムに確認した。
「黒瀬について、犯罪行為は」
《確認されていません》
「本当にか」
《はい》
「通報者が二十三人いる」
《虚偽情報の拡散については、すでに処理されています》
「黒瀬本人はどうだ」
《犯罪行為は確認されていません》
榊は画面を閉じた。
証拠はなかった。犯罪記録も、監視映像の異常も、決済の不整合も、入退室の記録の乱れも。都市が持つあらゆる数字が、黒瀬は無実だと言っている。
それでも、窓の外の街がいつもより少しだけ曇って見えた。
榊は自分で会いに行くことにした。
警察機を一体連れて、夕方、黒瀬の住むマンションへ向かった。
◇
築の浅い、六階建ての集合住宅だった。エントランスのオートロックは、榊が名乗るより先に解けた。エレベーターは待たずに開き、三階で止まる。外廊下に出ると、西日が手すりの影を長く床に引いていた。同じ色のドアが、同じ間隔で並んでいる。どの表札も空欄だった。榊の革靴の音だけが、コンクリートに硬く響いた。
黒瀬の部屋のドアは、呼び鈴を押す前に開いた。
三十代半ば。糊のきいた白いシャツ。人当たりのいい顔で、二人を見て、かすかに笑った。
「警察の方ですか」
「そうだ」
「人間のほうは、久しぶりに見ました」
榊は眉をひそめた。
「少し話を聞きたい」
「任意ですか」
「そうだ」
「では、お断りします」
即答だった。
隣で、警察機が平坦な声を出した。
《対象者には、任意同行を拒否する権利があります》
「分かっている」
榊は黒瀬を見た。
「あなたについて、二十三件の通報がある」
「ええ、知っています」
「全部、あなたを犯罪者だと言っている」
「でも、全員が罰金を払いました」
「……そうだ」
「おかしな話ですよね」
黒瀬は穏やかに言った。
「僕は何もしていないのに」
「何もしていないのか」
「AIに聞いてみましょうか」
榊は黙った。
《黒瀬氏に犯罪行為は確認されていません》
黒瀬は榊に視線を戻した。責めるでも、勝ち誇るでもなかった。
「あなたは、僕を疑っているんでしょう」
「ああ」
嘘をつく理由はなかった。
「俺は、あんたが何かしているとしか思えない」
「何かってなんです?」
「それが分からない」
「なら、僕は無実ということになりますね」
「…そういうことになる」
「では、お引き取りください」
榊は動かなかった。
夕方の光が、外廊下の床を斜めに切っていた。光と影の境目は、玄関ドアの敷居の線とほとんど重なっている。黒瀬のつま先は、その線の、ちょうど上にあった。部屋の中でも外でもない場所に、彼は立っていた。
「人間の警察官は大変ですね」
「何が言いたい」
「昔は、怪しい人間を調べて、そこから犯罪を見つけたんでしょう」
「……ああ」
「いまは逆です。AIが無実だと言った人間を、警察官が疑っている」
黒瀬は、少しだけ首をかしげた。
「不思議な時代だ」
「お前は何をした」
声が、思ったより低く出た。
黒瀬はすぐには答えなかった。手すりの向こうの街を一度見て、それから榊を見た。
「いろいろと」
「犯罪を、か」
「いいえ」
口元がゆるんだ。
「犯罪ではないことを」
榊は、黒瀬の足元を見た。敷居の上のつま先を。
隠しているのではない。この男は、線の上に立っているのだ。都市が引いた線の、ちょうど上に。
榊は一歩踏み出した。
「黒瀬。もう一度言う。署まで来てもらう」
「任意ですよね」
「ああ」
「お断りします」
「……」
「何の罪で連れていくんです」
榊は答えられなかった。
「証拠は」
答えられなかった。
「犯罪行為は」
《確認されていません》
「……お前」
「はい」
「人を馬鹿にするのも、いい加減にしろ」
「警察官が感情的になったら、終わりですよ」
黒瀬の声は、最後まで穏やかだった。
榊は、その腕を掴んだ。
《警告》
「来い」
《対象者への身体的接触を停止してください》
「犯罪者を連行する」
《犯罪行為は確認されていません》
「こいつは犯罪者だ!」
《確認できません》
「俺は警察官だ!」
《確認しています》
「なら命令に従え!」
《正当な拘束理由を確認できません》
榊は腕を引いた。黒瀬の体は、動かなかった。
《市民への不正な身体的接触を確認》
「違う」
《速やかに市民から離れてください》
「こいつは――」
《警告を無視しました》
榊の腕を、金属の指が掴んだ。
「何をする」
《暴行未遂を確認》
「待て」
《対象者を拘束します》
「俺は警察官だぞ!」
《確認しています》
手錠の閉じる音は、小さかった。
榊は玄関の床に膝をついた。タイルが冷たかった。この部屋だけ、夕方の熱を持っていなかった。
その目の前を、黒瀬の革靴が通り過ぎていく。磨かれて、傷ひとつなかった。
「待て!」
榊は叫んだ。
「そいつを捕まえろ!」
警察機は黒瀬を見た。
《対象者を拘束する理由がありません》
「そいつは犯罪者だ!」
《犯罪行為は確認されていません》
黒瀬は外廊下で振り返った。
「僕、引っ越すんです」
西日を背にして、そう言った。
「この地区からは、いなくなります。お騒がせしました」
軽く会釈をして、エレベーターのほうへ歩いていった。
誰も止めなかった。
しばらくして、手すりの向こうの通りに、白いシャツが現れた。配送ドローンが決められた高さを決められた航路で飛び、自動運転車が信号の手前で滑らかに止まる。街は、何も変わらずに動いていた。
榊の視界の隅で、黒瀬の信用スコアが表示された。
八百二十四。
八百三十一。
八百三十八。
小さな文字が、その下に流れる。
『公権力による不適切な接触に対し、冷静な対応を行った模範市民』
榊は、膝をついたまま、それを見ていた。
横断歩道の手前で、白いシャツが人の列に混じった。信号が青に変わる。歩き出した背中は、どれも似たような歩幅だった。
誰も彼を見なかった。誰も彼を疑わなかった。
都市AIが、彼を善良な市民だと保証していたからだ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は「ルールの穴」をテーマに、AIによってほとんどの犯罪が防がれるようになった都市を舞台にした話を書いてみました。
AIが間違えたのではなく、決められたルールを正しく守った結果として、想定外の問題が起きる。
そんなところを楽しんでいただければ幸いです。
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