究極の道楽
エドワード卿は退屈していた。
ヴィクトリア女王の平和な時代には、エドワード卿のような若い貴族たちが成すべき仕事は無かった。命をかけて戦うこともなく、領土を広げる必要もない。ただ毎日を、刺激のないレモネードのような暮らしをしていればよかった。
その冬、エドワード卿は伯爵の領土ソールズベリーのカントリーハウスで過ごしていた。
ロンドンの別邸ならばまだよい。気の利いた倶楽部や劇場があり、毎週必ず、誰かの屋敷でパーティーが開かれる。
しかし、このカントリーハウスでは二十代半ばのエドワード卿が満足できる娯楽は少ない。市街地には貴族が遊ぶ館はなく、お忍びで出かけるほどの楽しい場所もない。
このカントリーハウスで過ごす冬の間、友人貴族たちを呼び寄せてはパーティーをし、時には狩猟大会を催してエドワード卿はなんとか退屈をしのいでいる。
招待するのは、オックスフォード・コレッジ時代からの親しい友人、彼らの家族や親類、社交界で親しい人間などである。
この冬は、グレアム卿とその夫人、セリントン卿夫妻にベンフォード卿夫妻、まだ独身のハミルトン卿は婚約者を連れてやってきた。
エドワード卿にも妻がいる。一昨年生まれた長男も、ここ、カントリーハウスで育てている。彼と同じように退屈していた妻も、客人の訪問を喜んだ。ひと月も前からもてなしの計画に時間を費やし、ずいぶんと憂鬱な冬の気晴らしになった。
灰色の空の下、エドワード卿らは領地の丘で乗馬をし、狩をした。黒のコートに身を包んだ彼らの姿は、冬の空をさらに重々しくさせる。
何日も滞在する客人たちを飽きさせぬよう、地元劇団を呼んで寸劇や音楽会を催し、女性たちには、商人を呼んでファッションショーをする。これらの用意周到な催しが、主人の気の利いた心配りの見せ所である。
晩餐の後は、男性はビリヤード台がある娯楽室へ移動する。
片隅にバーがあり、彼らは男性同士の雑談を楽しむ。
「僕はね、民衆が僕たちのことを無産階級だと言うのが理解できないのだ」
そう言い出したのは、父親もそのまた父親も貴族院議員のグレアム卿だった。
「皆、僕が鉄道会社の株を多く持っている事が気に入らないらしい。かといって、僕が株を手放せば株価は下落し、誰もが損失を被る。実際、社長は手放せと言うどころか、買い増してくれと誘ってくる。僕が投資すれば会社はますます事業を広げられ、世の中は便利になり生活が潤う。そんなことも民衆はわかっていないのだ」
「配当金を辞退しろと言う輩もいるくらいだからね、まともな計算ができないのだよ」
セリントン卿の一族も多くの企業の株を持ち、その配当金だけでも遊んで暮らせるほどだった。
「まったくだ。配当金は株主の当然の権利だし、僕が辞退したところで他の貴族や株主が黙っていまい。裕福な株主が配当を辞退しなければならないという前例を僕が作ってはならない」
「民衆はそんなものだ。株を買っても売っても保有したままでも、何かしらケチをつける。私は配当で得たお金を教会や孤児院に積極的に寄付をしているし、そんなことは気にも留めてないよ」
「そう。何を文句を言われる筋合いがあろう。彼らは僕のことを、自分たちが働いて儲けた金で生活してる道楽息子だと言う。だが彼らはわかっていない。僕が道楽に金をつぎ込むことで産業が潤うことを。僕の道楽は大いに民衆に還元しているのだ」
「その通り。私と妻が毎年アスコットハットを注文することで、その店の給料が支払われている」
「そこで僕は考えた。どうせ道楽なら極めてみようと。究極の道楽とは何だろうと考えたのだ」
グレアム卿の言葉に場の仲間たちはニヤニヤと唇の端を上げた。
「世界各地の美味を楽しむとか? 僕の知人にうまい牡蠣を食べに海を渡った男がいる」
エドワード卿はビリヤードのキューを撫でながら言った。
「ベンジャミン子爵だろう。彼はわかりやすい行動をとる男だ。だが、美食はフランス貴族に任せればいい。僕はキュウリサンドとアールグレイがあれば充分だ」
「胃袋はひとつだからね」
「世界中から美しいガラクタを集めるのも平凡な貴族のすることだと」
ハミルトン卿がそう言うと、グレアム卿が人差し指を上げた。
「そう、そこなんだ。僕が言う究極の道楽とはそうじゃない。美食もガラクタも所詮自分が満足してしまうものだ。僕が言うのは、満足しない幸福なんだ」
「満足しない幸福とは、また哲学的なことを」
セリントン卿はクックッと笑った。
グレアム卿は講義をするように指を立て、仲間たちを見回した。
「例えばだな、どんなに遠い辺境の地へ大変な道のりだったとしても、美しい景色を見たら満足してしまう。それまでの苦労も旅費も報われてしまうのだ」
「わかった。畢竟するに君の思う究極の道楽は、自分には何の得にはならない事柄に力とお金をつぎ込むことだね。それによって自分が何か得をしてはつまらなくなると」
「まさにそうだ! 」
グレアム卿は言った。
「僕がやってみたいことは、ロンドンで起きた難事件を解決してみせることだ」
エドワード卿が眉を上げて見せる。
「名探偵グレアムか。今だったらシャーロック・ホームズだと言われるぞ」
「名前は出さない。だって道楽だろう。解決の手がかりを匿名で警察に送るのだ。僕が欲しいのは名誉ではないからね」
「面白そうではあるが、警察が簡単に解決できない難事件がそうそうロンドンで起こるとも思えないし、そんな難事件を君が解決できるとは、もっと思えない」
ハミルトン卿の言葉に、皆が笑った。
「いや、解決するのは容易いが、難事件が頻繁になければ、僕と言う存在が定着しないことが問題なのだ。せめて年に数回あれば、警察でも謎の匿名探偵の存在を認識するだろう。だが、数年に一度だったら? 事件を担当した警部が退職し誰も匿名探偵のことなど覚えていなかったら? うまい具合に僕の得意分野の事件が起きてくれればいいが、そのあたりが実現性の薄いと思われるところなのだよ」
「何の褒美も名誉もない、この上ない時間つぶしになる。頭の体操にもいいだろうしね。ただお金はあまりかからなそうだなあ」
「うむ。君でなくとも、優秀な貧乏学生でもできることだ」
「貴族の道楽とは言えないね」
皆に反対意見を言われたグレアム卿は肩を窄めてリキュールのグラスを上げた。
「なら、例えばこういうのはどうだろう。ある無名の女優を、彼女の知らないところで国一番の有名な女優にするというのは」
と言うエドワード卿は伯爵家の長男であった。彼はその地位と顔立ちにより、数多くの女性を虜にしてきた。
「女優のパトロンは昔からみんなやっていることだろう。それの何が面白いんだ」
「まあまあ、話を聞いてくれ。僕は、ある女優を、彼女に気付かれないよう、一流女優にするのだ。評論家に金を握らせて有名雑誌に取り上げさせ、一流演出家に彼女を推薦し、ナショナルシアターの舞台に立たせる。そういったことを僕は、あくまでも匿名で、彼女に僕の存在を気付かれないように行なうのだ。僕の存在というより、そういった陰の力を気付かせてはいけない。女優には運が回ってきたのだと思わせるようにするのだ。そして僕ひとりだけが、有名女優になった彼女を見て、これは僕のおかげだ、と心の中で微笑むのだ」
「そんな回りくどいことをしなくても、君が連れ立ってマダム・ローズのサロンに顔を出せばあっという間に彼女は有名人だ」
「それじゃ単なるパトロンになる。僕は彼女とは一切関わりを持たず、本人も気がつかない。ただ僕は、彼女が有名になったのは自分のおかげだとこっそりいい気分になるだけだ。ナイチンゲールが、その鳥を呼ぶために僕が作った庭だと知らずに集い美しい歌声を聴かせ、世間もただその歌声を楽しむ。僕がしたいのはそういうことだ」
「君の言う道楽とは、禁欲的なものだね」
「グレアム卿の言う究極の道楽の定義から言ったら正しいと思うがね」
「うむ。確かに、彼女と恋仲になるのではなければ何の得にもならない。君自身にとっては利益など何も無い。ただ少し平凡だがね」
「僕なら」
と言い出したのはベンフォード卿であった。
ベンフォード卿は伯爵の一人息子であったが、勉強が好きで、オックスフォード時代に家督は従兄弟に譲り自分は学者になりたいと言い出し、父伯爵から大いに怒りを買ったことがあった。
「世の中の、何のためにもならないような研究に一生を費やす」
ふふ、と皆が笑った。決して馬鹿にした笑いではなかった。
「君らしいね」
学者になりたいと言うくらいだから、社交界が苦手で、付き合いも狭かった。世間では彼をちょっとした変わり者と見ていたが、ここにいる友人たちはそんな彼を理解していた。
「その研究をすることで、誰も儲からないし、腹一杯にならない。パリへ一時間で行けるようにもならなければ、生活が便利になることもない。そんな魅力的な研究を、僕はしてみたいんだ」
「ほう、それは魅力的だ」
「うん、生活が豊かになることもなく、誰も得をしない研究、それこそ僕にうってつけじゃないかと思う」
「女優のパトロンになるのと違って、君にしかできないことだからね」
「で、何を研究するんだい」
「それはまだ言えない」
友人たちは、彼の専門が何なのかも知らなかった。彼に興味がなかったわけではなく、学問に興味がなかっただけである。
その後、エドワード卿は旅行へ出かけ、しばらく友人たちと会わなかった。
次にエドワード卿が友人たちと会ったのは、初夏のロンドン、マダム・ローズのサロンだった。
「まあ、ロイ、しばらくですわね」
エドワード卿をロイと呼ぶのは、母の幼馴染ジュリアス伯爵夫人だった。
「貴方がいないロンドンは寂しかったわ」
「何をおっしゃいます。近頃は美形のオペラ歌手に夢中だと評判ですよ」
「あら、本気ではないわ。貴方がいない寂しさを紛らわせていたのよ」
立ち話をする傍を子爵夫人が耳たぶの大きなガーネットを揺らしながら通りかかる。
「ごめんあそばせ、皆様。私、ナショナルシアターに、評判の女優の舞台を観に行かなくちゃなりませんの」
「存じていますわ、アン・ブラウンでしょう、近頃独特の個性がもてはやされている女優ですわね。私はまだ観たことがないけれど、評論家の間で噂になっていますもの」
「ええ、本物かどうか、この目で見て確かめようと思いますの。では皆様、良い夜を」
子爵夫人の後ろ姿を見送るエドワード卿にジュリアス伯爵夫人が聞く。
「ロイはご存知? 女優アン・ブラウン」
「さあ、名前くらいは聞いたことがあるような」
伯爵夫人から解放されたエドワード卿は、手品師がテーブルマジックを見せているテーブルについた。
「アン・ブラウンって女優」
隣に座るセリントン卿がこっそり言う。
「最近人気らしいね」
エドワード卿はカードをめくる手品師の手元を見つめながら、頷いた。
「ナショナルシアターのオーディションで一番冴えない女優を選ぶよう頼んだ」
手品師は、彼らの目の前でテーブルのカードを小鳥の文鎮に変えてみせた。
「マジック成功だ」
エドワード卿とセリントン卿は拍手した。
その夏のサロンは、新進気鋭の女優アン・ブラウンの話題で持ちきりだった。
「もう観たかしら、アン・ブラウンのお芝居」
「ええ、有名評論家のどなたかが言ってらしたけど、東方の国の陶器のように不思議な魅力があるのよ、彼女には」
「今までにない、つかみどころのない女優らしい」
「独特の訛りもまた、夜露に濡れる薔薇の庭のようで神秘的なのだとか」
事情を知っている貴族たちは、新し物好きの客たちが盛り上がるのを夏の間中眺めていた。
「エドワード卿もさぞ愉悦しているだろうな」
ロンドンの夏も終わる頃、セリントン卿のバーに集まった男たちは、口々に言った。
扉が開き、血相を変えたエドワード卿が飛び込んできた。
「これを見てくれたまえ」
エドワード卿は、持っていたタブロイド紙をビリヤード台に放り投げた。
玉がそれぞれに動き穴に落ちる。
「ああ、まったくゲームを壊して」
ハミルトン卿はタブロイド紙を取り上げ見出しを読み上げた。
「女優アン・ブラウン、愛人の脚本家と失踪」
アン・ブラウンは、エドワード卿が密かにスターに仕立て上げた女優だ。
「ほお。これはこれは」
セリントン卿は冷やかし半分の声を出した。
「僕が一番腹が立つのは、ここだ」
エドワード卿は小見出しの文を差した。
「脚本家グレイ氏は愛人である無名女優アン・ブラウンを売り込むために、評論家や劇場の関係者らに働きかけた……。ほお」
「全部、僕がしたことだ! 脚本家の某なんぞに評論家を動かすそんな力など無い。それを」
「手柄を持っていかれたってわけか」
「別に僕は、自分の手柄を自慢したいのでは無い。僕が誰にもわからないように彼女を有名にしたのに、脚本家の某が裏から手を回したと言われるのが癪なのだ。誰にも分からないように僕が企んだのに」
「せっかくの君の苦労が水の泡だな」
「ああ、そうだ。時間をかけて考えた道楽が台無しだ」
エドワード卿は大袈裟に天を仰いでみせた。
クスクスと皆は笑った。
「また新しい道楽を考えなければ」
グレアム卿は、黙って微笑んでいるベンフォード卿に声をかけた。
「ところでベンフォード卿、そっちの役に立たない研究はどうだい? 」
「それがその……、僕のほうもうまくいかなかった」
「ああ、研究は失敗したのか」
「いや、研究の成果は出た。出過ぎたくらいだ。ただ、企業が研究を買い取りたいと言い出して」
「おお」
「世の中に役に立つ研究になってしまったということだ」
「何ということだろう」
「全く何の利益ももたらさない究極の道楽というのは、なかなか難しいものだな」
皆は快活に笑った。(了)




