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サイノクニ

母校

作者: 斉藤周二
掲載日:2026/05/06

 吐き気と苦笑い。N十年振りに跨ぎ入った「母校」の敷地に抱いた感覚は、そういうものだった。蝉が鳴き続けていた。人々がざわめきながら動いていた。警備員の誘導棒が赤く点滅していた。浴衣姿の女児が両親に手を引かれてはしゃいでいた。空は不穏に曇っていた。校舎の時計は十八時二分を指していた。



 生まれ故郷の「団地」と、「母校」を巡る十三万字の「小説」を、俺は三月に書き終えていた。文学賞には黙殺されるだろう。流通に載せようがない、ニッチすぎる「小説」だった。

「母校」について調べられることはすべて調べ、思い出せることはすべて思い出し、書くべきことはすべて書いた。書くべきことの大半は嫌悪と侮蔑と憎しみと断罪だったが、そうではないものもいくらかは、書いているうちに生じてきた。



 なにを感じていいのかわからないまま、俺は周囲を眺め渡した。体育館の周りには工事用のガードフェンスが張られていた。消防の赤いワゴン車が停まり、五、六人の消防隊員がなにかを話しながらそちらに向かっていた。俺は四階建ての校舎を見上げて眺め回し、それから近づいた。生徒玄関の庇の下の、コンクリートの水飲み場。なにも変わっていなかった。ハンドルを捻り、水を出して、指先で受けた。水は温かった。

 生徒玄関からガラス越しに中を覗き、乱雑にビニール傘が差し込まれた傘立てと、下駄箱の向こうの掲示板を眺めた。相変わらず、なにを感じていいのかわからないままだった。ガラスには風に揺れる記念樹の葉と、重い曇り空が映っていた。

 溜め息をつき、校庭に向かって歩き始めた。校庭からは津軽三味線の音色が聞こえていた。プール脇の椰子の木と、波板屋根の駐輪場。粗雑に置かれたプランターとじょうろと三角コーン。そうしたものを眺め、同級生のくだらないやり取りを思い出しながら歩いた。家族連れだの少年少女だのが過ぎていった。

 校舎を見上げても、美術室がどこにあったのかは思い出せなかった。便所脇の壁際で前髪を直すロングスカートの女子を横目に、さらに歩いた。ブロック積みのプール更衣室、簡易便所、折板屋根の体育倉庫、石灰倉庫、グラウンド整備用のタイヤ。倉庫の前には警察官詰所の立て看板と、白い天幕のキャノピーが出ていた。右に入り、誰もいない中庭を歩き、テニスコートを裏から覗き、武道場とその脇に倒れた脚立を眺め、倉庫の前に戻った。校舎はほとんど変わっていなかった。紅白の小さい櫓が立った校庭の向こうには、木々を透かして夕陽が見えていた。


 十八時十三分。グラウンドに照明が点いた。雷が鳴った。俺は排水溝を越えて、校庭に足を踏み入れた――。 



 十八時二十九分。校庭を離れ、武道場の脇に入り、室外機に隠れるように腰を下ろし、バックパックからビールを取り出して、親指をタブにかけ、力を込めた。ぶじゅるるるる、ぱん、と音がして、缶の口が開いた。俺は泡がちのビールを口に運んだ。ビールは温かったが、気分は悪くなかった。校庭の音は止み、じりじりとした蝉の声が大きくなっていた。夕陽が室外機に金網と蔦の影を柔らかく落としていた。

 それから俺は缶を置き、腰を浮かせてハーフパンツのポケットから煙草を取り出して咥え、武道場の網戸を背に座り直し、火を点けた。用心深く辺りを眺めたのは、校内が禁煙であることを気にしたからではなかった。ヤンキー気分を味わうためだ。座り方もヤンキーに倣った。実際にここで中学生が煙草を吸うならば、見張りを立てた方が安全だろう。そんなことも考えた。排水溝に灰を落とし、飛び始めたコウモリをフェンス越しの空に見上げながら煙を吹き、自然に出てきた言葉はこうだった――やってらんねえよな。


 また雨が降り始めた。弱い雨ではなかった。上を見た。武道場の軒は雨を防げるものではなかった。俺は缶とバックパックを掴んで立ち上がり、立ち眩みを感じながら中庭を横切って、教室棟のバルコニーの下に入った。眺めれば、人々も俺と同じように屋根の下に退避し、あるいは傘を差し始めていた。長く続く雨ではない。俺はビールを口に運び、手元開閉器盤の上に缶を置き、白く煙る校庭を眺めながら、雨音の向こうに再び流れ始めたサザンオールスターズを聴いた。

 雨はすぐに小降りになった。軒下の少年たちは優しいR&Bをかけて歌い、少女はぴょんと跳んで中庭のバスケットゴールにシュートをする振りをした。俺はバックパックから白ワインの瓶を取り出し、かちかちと蓋を開けてぐびぐびと液体を煽った。ビールの空き缶を回収して滴を切ってバックパックに突っ込み、ワインの瓶を手に、もう一度校庭に向かった。俺はスピーカーの音に合わせてサザンオールスターズを口ずさみながら校舎をぐるりと振り返り、もう一度振り返って校舎を背にし、歌いながらまた歩いた。泣かないで――。


 校庭には鉄杭が打ち込まれ、川寄りの半分ほどの領域は立ち入りが禁止されていた。俺はロープに近づき、地に膝をつき、土を触った。土は湿っていた。それから視線を上げていった。グラウンドには掠れながら白いラインが引かれ、八つのレーンを区切って向こうへと伸びていた。この眺めだ、と俺は思った。地に近いところから見上げるグラウンドのこの眺めが、俺が知るこの学校の辛うじて美しいと呼べ、幾ばくかの感傷を生じさせる風景だった。こうだった。確かにこうだった。大半は苦笑いの感情の中に、切なさが混じっていなくはなかった。みんなここを、一所懸命走ったんだ。

 雨に髪を濡らした少年たちがはしゃいでいた。誰かが警備の老人に注意をされていた。俺は立ち上がり、野球部のバックネットに向かって歩いた。草の匂いを感じた。よい匂いだった。すれ違う人々の中になんとなく知り合いを探してしまったが、誰もいなかった。キムラジュンゴもキタムラタカオもイトウサトシもサイトウヒロアキもいなかった。ホソヌマケンジもタケダユウキもアライムネカズもシシクラシュウヤもいなかった。誰がいるわけもなかった。そういう町だった。俺はもう一度グラウンドにしゃがみ込み、しっかり埋まったホームベースの上の土を手で払った。



 俺は「小説」の執筆によって作られた記憶を「思い出し」ながら、書かれなかったエンディングの場面を回想する「僕」の立場で、「N十年振りの母校」を訪れ、「あの夏の日」の「ヤベ」との出来事を追体験しようとしていた。



 十八時五十九分。いつの間にかすっかり暗くなっていた。照明塔の周りに虫たちがぶんぶんと飛び始めていた。焼き鳥の匂いを嗅ぎながらワインを煽り、プールの外の古いトイレで尿を済ませてしまうとこれ以上やることがなくなった。サザンオールスターズも止まってある種の感情群も去り、花火をどこで見ようかと俺は考え始めた。中庭が第一の候補だった。観られるには観られるし、人が少なくて鬱陶しくないはずだ。どこかの段に腰を下ろすこともできるだろう。そんなことを考えながら玄関に回り、職員玄関からかつては自分の作品が飾られていた階段を眺めた。長渕剛の『しゃぼん玉』のジャケットをスクラッチで刻んだ作品だった。校舎に入れるのかはわからなかったが、おそらくは車椅子の使用者のトイレの利用が認められているだけなのだろう。かつて用務員に連れられて屋上で観たことがあったのかなかったのか、そんなことさえわからなくなっていた。

 プールに反射する光を椰子の木の向こうに垣間見ながら、もう一度中庭に戻った。最盛期には中庭に警備本部が構えられていた記憶があるが、今の警備は体育倉庫の前にテントがあるだけであり、中庭では男児たちが「だるまさんを転んだ」をやっているだけだった。


 俺の頭によぎったのは、「小説」の場面――書かなかった場面――だった。


 非常階段は当然立ち入り禁止になっていたが、バリケードは古い学習机に黄色いビニールテープが雑に張られているだけのものだった。

 校庭からはなんとか音頭の類がひび割れた音声で流れてきていた。俺はもう少し辺りの様子を観察した。人目はある。非常階段は校舎四階の照明で灯されている。警備はどうか――土手に交通誘導警備員がいるのか。それはよろしくない。折悪しく川の方から聴こえてきたアナウンスも、俺の意欲を削いだ。人が入っています、花火を打ち上げることができません、ただちに退去してください――。


 十九時十六分。花火がいつ始まるのかはわからなかった。俺は一度校舎を出ることにした。蒸し暑かった。段差であれ、花壇であれ、人々は座れる場所があれば腰を下ろしていた。俺はワインを口に運んだ。ときどき女の匂いが通り過ぎた。校門を出ればバリケードが張られ、警察のワゴン車が停まっていた。俺は警察の反対側、体育館、そして教室棟の裏手に回った。

 校庭の音が遠くなった。かつて住み込みの用務員が飼っていた犬は、もちろんもういなくなっていた。用務員も同様だ。バラストが敷かれた広い駐車場は、しばらく前に一戸建ての小住宅街に変わっていた。住民たちがこの中学校で繰り返されてきた事件の数々を――鉄パイプ事件だの日本刀事件だのリンチ殺人事件だの失神ゲーム事件だのの平和ならざる事件の数々を――知っているのかは知らなかったが、給食室は相変わらず平和なままだった。

 土手には誘導警備員だけではなく警察官がいたが、警察官は打ち揚げ場所に近い高水敷の立ち入り禁止エリアへの進入を止めているだけだった。俺は暗く聳える非常階段を見上げた。意識すればなにがあるかは見えるが、木々で死角になってはいた。俺はまたワインを煽り、考えながら校舎へ、そして中庭へと戻った。中庭には人間が増え、当然人目も増えていた。やめる、という常識的な考えが支配的になってきていた。それから俺はテニスコートに入っている人間たちを眺め、黄色いビニールテープを眺め、本当に無理なんだろうか、と考え、ひとまず瓶をバックパックにしまい、テニスコート脇を抜け、草を踏み、非常階段脇の空調設備のところまで移動してみた。


 潜入は呆気ないものだった。照明から身を隠す必要もなく、金属製の非常階段に響く足音を殺す必要さえなかっただろう。誰もなにも気づかず、気にしなかった。それでも一応は身を屈めながら四階の踊り場の手摺子の隙間から土手の様子を覗けば、やはりこの場所は土手の誘導警備員からは木々に阻まれて完全に死角になっていた。木々の間からは地上で蠢く善良な人間どもが垣間見えた。愚民どもが、と思いながら、俺は階段に腰を下ろした。

 目の高さで蝉が鳴いていた。コウモリが下を舞っていた。暗く濁った空に鉄塔が突き出ていた。木々の隙間にソフトボール部のブロック積みの部室とバックネットだけが見えていた。階段は滑り止めの凹凸があり、湿っていた。俺はバックパックから瓶を取り出して、ワインを飲み直し始めた。十九時五十三分。目の前の照明が落ちた。打ち揚げが始まった。

 花火は目の前に開いた。破裂の衝撃は空気を動かして校舎の窓ガラスを震わせ、胸に腹に響いた。非常階段の金属が、ざらざらした校舎の壁が、灰色の中庭が、あれこれの色に照らされた。赤、青、緑、紫、焔、そして光の色。俺はしばらく花火を眺めたあと、視線を落とし、手摺子の影が階段に動くのを、ぼんやりと眺めた。影は手前に向けて生じ、それから向こうにぐるりと動いて消え、また現れた。顔が火照っていた。酔いが回っていた。空に吹く風が気持ちよかった。俺はまたワインを煽った。

 しばらくして尿意を感じ、俺は瓶を踏面に置いて四階の踊り場に上がり、校舎寄りの隅でジッパーを降ろし、じょぼじょぼと尿をした。廊下の窓ガラスの向こうに駅前のマンションの光が見えた。花火は後ろで上がり続けていた。手すり越しの真下には草木に囲まれて、みっつ並んだキュービクルの汚れた頭が見えていた。尿がどこに流れたのかは暗くてわからなかった。陰茎をしまい、ついでのように喉の奥に人差し指と中指を差し入れ、俯いて軽く吐いた。尿をかけられても仕方がない学校ではあったが、吐物はさすがに少し申し訳なく感じた。雨が洗い流してくれればいい。そんなことをぼんやりと考えた。

 なんとなく、非常扉のノブを握って引いてみた。もちろん鍵がかかっていた。扉に顔を近づけ、ガラス越しに暗い廊下を覗いた。非常口の緑色の光と消火栓の赤い光が、天井と壁と床に反射していた。室名札、掲示物、天井の時計、そんなものが廊下の突き当たりに向かって連なっていた。かつては一年生が使っていた階だった。今どうなっているかはわからない。それ以上に考えるべきこと、感じるべきこと、思い出すべきことはなにもなかった。俺は顔を離し、階段に戻り、再び腰を下ろした。

 一度、ワインの瓶が倒れて転がったかもしれない。そうしたことが、どうでもよくなっていた。怠かった。俺はなにも思わず、ただ酒を飲み、煙草を吸い、打ち揚がる花火を眺めた。ざわめきは地上にあった。誰も俺に気づかず、気にしなかった。空は近くにあった。花火は正面にあった。花火が止めば秋の虫の声が広がって聴こえてきた。煙は非常階段まで流れてきた。火薬の匂いがしていた。

 やがて破裂音の塊とともに視界が明るくなり、スローモーションのように金色の光が広がった。光の線はすぐに粒に変わり、星のように消えた。下の広くで拍手と歓声が起こった。真上から火の粉が降ってきた。玉皮の残骸が肩に背中に当たり、かん、と音を立てて非常階段に当たった。校庭のスピーカーから聞き取りにくいアナウンスが聴こえ、『螢の光』が流れ始めた。花火は終わった。


 帰路もまた、呆気ないものだった。当たり前のように非常階段を降り、当たり前のように中庭に出て、当たり前のように人波に紛れて、当たり前のように学校を出ていくだけだった。俺はぼんやりと、商店街のアコレの店員のことを考えた。生真面目な、美しい女だった。彼女は今日も、花火も見ずに働いているのだろうか。それから、先ほど眼前に生じた光景を思い出した――。



 十八時十三分。グラウンドに照明が点いた。雷が鳴った。俺は排水溝を越えて、校庭に足を踏み入れた。 


 校庭には商店街の店々の協賛提燈が連なって風に揺れていた。それは、俺が「小説」に書いた通りの光景だった。


 岩田屋酒店、とんかつ桐、そうご電器、ヘアーサロンベスト、ニーザファーマシー、理容美容永島、ベビー子供服ハトヤ、餅菓子製造販売伊勢屋、東京クリーニング、銘茶やまもり、斉藤青果店、津軽、ファミリー衣料イシイ、山本ふとん、デリカショップサンアイ――。


 南アジア系の女児がヨーヨーを弾きながら、にこやかに誰かに話しかけた。夏服と浴衣の少女たちが提燈の下で円になって、手を握り合った。俺は店名のひとつひとつを眺め上げて見つめた。そのほとんどが、今は存在しない店舗だった。N十年前に「団地」に存在していた五本の商店街のほとんどすべては壊滅し、店舗は消え、跡地の大半は一戸建ての住宅になり、聞き慣れない苗字の新しい住民が住み着いていた。今の住民のほとんどすべては、かつてどこになにがあったか、それがかつての団地住民にとってどんな意味を持っていたのか、そこにどんな情緒と生活のきらめきがあったのか、知りもしないし気にもしないだろう。そうした事実を踏まえ、俺はN十年前の「あの夏の日」、花火大会の日にあり得た校庭の風景を想像し、ありし日の商店街を彩っていた店名を、鎮魂歌として列挙した。その想像の産物が、今目の前に、現実として揺れていた。

 スピーカーから音楽が流れ始めた。愛の言霊、サザンオールスターズ、一九九六年。一年も違わず、「あの夏の日」に流れていたはずの曲だった。

 俺は驚き、笑い、それから泣きたくなった。そして、誰であれ、古い人間を捕まえて、こう話しかけたくなっていた。

 俺、この提燈の意味がわかる人間なんですよ。ここは俺の地元なんです、ここは俺の母校なんですよ、と。

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