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白願の社ー神様のお仕事編

作者: リュウカ
掲載日:2026/05/04

宗教観は裸足でどら猫追いかけて、どこかに行ってしまいましたので独自設定が穴埋めしております。

細かいところは気にしないでください。

「何卒、何卒、お願い申し上げます」




川崎裕子は入院している夫――徹の見舞いの帰りに、小さい神社を見つけた。

住宅地の中に幅2m弱、奥行き10mほどの参道があり、その奥には一坪くらいだが人が何とか入れそうなくらいの小さなお社がある。参道には朱色の鳥居が三基あり、それで神社なのだとわかった。

どの神様を祀っているのかもわからないけれど、手入れは行き届いており、地元の方に愛されているのだとわかる。


ふと、お参りして行こうと思った。


着替え等を持っているけれど、洗濯をするにも明日だし、多少帰りが遅くなったところで、誰に迷惑をかけるわけでもない。


それに、お医者様に言われてしまった。

年も年だから、回復は見込めない。自宅に帰ることはできないでしょう、と。

それなら、神頼みするくらいしかできないではないか。


そう思い、足を奥へと運ぶ。


鳥居を一つくぐっただけで、周囲のざわめきが遠のいた気がする。


鳥居を三つくぐり、小さな賽銭箱の前に立った時には、自分の息遣いしかしていないのではないかと思うほど、周囲とは隔絶された空間だと感じた。何となく、ご利益がありそうな気がしてきた。


「お参りですか?」


着替えの入っているバッグを下ろし、手提げバッグの中の財布を探していると、声がかけられた。

誰もいないと思っていたので、とても驚いていると、お社の横に竹ぼうきを持った巫女さんがいた。巫女さんは金髪だった。


裕子は二度驚いて、うまく言葉が出てこない。


「あれ、驚かせちゃいましたか。私はエミールと言います。ヨーロッパからホームステイに来ています」


巫女はエミールと名乗り、簡単に自己紹介までしてくれた。


「ああ、これはご丁寧に。私は川崎裕子と申します。日本語、お上手ですね」


「そうですか!?その国の人に褒められると、うれしいですね」


会話が成立して、少し落ち着きを取り戻す。

エミールは裕子より頭半個分背が高く、碧い瞳にきめ細やかな白い肌をしており、長い金髪は首の辺りから三つ編みにされ腰まで伸びている。


「あの、こちらは、どちらの神様を……」


「あー……一応、白願(びゃくがん)様という土着の神様、ですね」


巫女装束に身を包んではいるが、お社の成り立ちはまだ朧気なのか、自信なさげに答える。


「何かを司る神様じゃなくて、人の想いの強さで、その人の願いを叶える神様、らしいです」


「人の想いの?」


「そうです。日本にはお百度参りという文化があると聞きました。一気に百度のお参りをして願い奉り、想いの成就を祈願するというやつです」


「ええ。そうですね。最近ではめっきり聞かなくなりましたけれど」


「白願様は百に一足りない、九十九度のお参りと参拝者の大切なものを一つ捧げることにより、願いを成就させると聞いています」


「大切なものを一つ……」


「そうです。本当に、大切なものを……ちょっと待ってください」


エミールは神妙に頷こうとして、会話を中断した。

右手を耳に添えると、誰かと会話しているようで小さな声でやり取りしている様子がうかがえる。


「っと、すみません。お話の途中で」


「いえ……」


早々に通話を終えたようだが、手には何も持っていない。

最近の科学技術は魔法のようねなどと思うが、それでも神様は変わらず人の傍にいてくださるのだと思うと、ふと安心感を覚える。


「えっと、ちょっと訂正です。九十九日の間欠かすことなく、九十九度参りを誰にも見られず、大切なものを捧げるのであれば、貴女の望みは叶えられるそうです」


「え、それは……」


「まあ、いきなり信じられないでしょうけれど。苦労はしますし、時間もかかりますけれど、そもそも神頼みってそんなものでしょう。騙されたと思ってやってみてはいかがでしょう?」


エミールは肩を竦め、やれやれと苦笑いを浮かべる。

その様子は裕子を騙そうとするものではなく、見知った人の悪い癖が出たと、でも呆れるのではなく好ましく思う表情に思えた。

それに、無料(ただ)で願いを叶えてもらおうなんて、相手が人であったとしても厚かましい。

神様にお願いするのであれば、その程度の苦労はしてしかるべきだろう。

それでも、確認しなければならないことがある。


「あの、それで、大切なものとは?」


「大切なものは大切なものですよ。俗に言う金銭や宝物などの財産やお酒や刀剣類、果ては人身御供なんかも」


「わ、私の命でも代えられますか!?」


人を脅かすような悪い顔をしていたエミールは、裕子の切羽詰まった様子に面食らう。


「真っ先に思い浮かぶのが、ご自身の命なのですね」


エミールは困ったように笑い、続ける。


「それはわかりません。白願様がご判断されることです。ご自身の命が軽いとは言いません。ですが、願いに相応しい奉納品であるかは、願いの内容によって判断されるでしょう。

もしかしたら、白願様が勝手に取り立ててしまうかもしれませんけれどね」


最後に少しだけおどけて言う。


「そう、ですか」


裕子は真剣に供物を何にするか考えだす。

なぜだか、九十九日間の九十九度参りを完遂すれば、願いは叶えられると信じられたから。


「よく、考えてみます。それでは、御免下さい」


「はい。ありがとうございました」


互いにお辞儀をして、別れの挨拶をする。

顔を上げれば、そこには誰もいなかった。


少し驚いたものの、現れた時も突然だったし、もしかしたらお狐様がいらっしゃったのかもと思えば、そうとしか思えなくなった。


そうであるなら、彼女の言っていたことは本当なのだろう。

最後の一が何かはわからないが、まず九十九をこなす必要がある。


思い立ったが吉日。

お昼過ぎの住宅地とはいえ、人目につかずに参拝できるとは思えない。それでも、まずはご挨拶をしなければ、と九十九度参りを始める。




「白願様、いきなり念話は止めてください。あれじゃ、失礼な人じゃないですか!」


エミールは社の扉を開き、一畳分しかないスペースにごろりと横になる男に食って掛かった。


「丁度よかったんだから仕方ないじゃない」


「何が丁度よかったんですか」


「なに、あの婆さん。きっちりお参りしてくれりゃ、願いを叶えることは簡単だからさ」


くるくるした髪の毛が特徴的な頭から、予想もしない言葉が聞こえてきた。天パともいう。


「え、じゃあ」


「きっちりお参りできればな」


エミールの表情は期待にほころぶ。


「それより、今日のお供えは?酒はないのか、酒は」


「ありませんよ。ご近所の方のご厚意で残されているんですから。贅沢なんて言っちゃいけません」


ちょっと上がった気分が、一気に引きずりおろされたようで、不機嫌が口から出る。


「なにおう。海老澤んちは家が絶えるところを、私の社を世話することと引き換えに存続させてやったんだぞ。その恩を忘れたというのか」


「そんなことがあったんですね。でも、だったら約束は守られているんじゃないですか。小さくとも立派なお社ですし」


「くっ。酒も条件に入れておくべきだった」


「はいはい。次の機会があればそうしましょうねー」


「お前は主を崇めるということを知らんのか。なんだ、その子供をあやすような言い方は」


「あははは。主を崇める気があるなら、翼がある身で改宗なんてしませんよ」


そういって、エミールは白く美しい翼を背中から広げる。

どう?綺麗でしょ?と言外に誇る表情(かお)に、白願は事もなげにぶった切る。


「お、おまえ、こんな狭いところで、そんなものを広げるんじゃありません。鬱陶しいったらありゃしない」


「い、言うに事を欠いて鬱陶しいってなんだー!そんなものとはなんだー!!」


外の静けさが嘘のように、社中のぎゃーぎゃーと賑やかな様は夜の帳が下りるまで続いたという。




「この時間は、さすがにまだ冷えるわね」


裕子は夜が明けるより早く鳥居の前に立った。

電車も動いておらず、帰る者も行く者もほとんどいない。新聞配達のバイクが通るくらいで、人気がない。


「さて、始めましょう」


決意を口にして、九十九度参りを開始する。


壱の鳥居の前で一礼、一歩進んで、弐の鳥居の前で一礼、一歩進んで、参の鳥居の前で一礼。

社の前で、二拝二拍手。

叶えてほしい、願い。叶ってほしい、願い。

思い描くのは、あの人が健康だった時分。

一拝して、短い参道を戻る。

参の鳥居をくぐり振り返り一礼、二の鳥居をくぐり振り返り一礼、一の鳥居をくぐり振り返り一礼。


これをあと九十八度。


時間を掛ければ、人目についてしまう。

かといって、礼を欠けば願いが叶わなくなってしまうかもしれない。

祈りを省くなんて、以ての外。


焦りを抑えつけ、二度目も同じペースで詣でる。

三度、四度と繰り返すうちに少しずつ焦りは失せ、代わりにあの人との時間が思い出される。


出会いはお見合いだった。私は二十四で、夫は二十六。生真面目だけど、それが怖いと思った。でも、話してみるとユーモアのある気さくな人だった。また会ってみようと思った。私は地元の信用金庫に勤めていた。夫は同じ地域の税理士事務所に勤め、独立を目指していた。逢瀬を重ね、惹かれていった。夫も同じだと知ったときは涙が出るほど嬉しかった。二人のこれからを話すことが増えた。夫は独立を目指し、我武者羅に働いた。私は仕事を辞め、花嫁修業に精を出した。その頃に婚約した。お見合いから半年が過ぎていた。入籍はお見合いした日にしようと、自然と決まった。それからは目まぐるしい半年間だった。白無垢を着て、盃を口にしたら、両親がむせび泣く姿が目に入った。それから―――


新聞配達のバイクがブロロと、目の前の道路を通り過ぎた。


「あっ」


人に見られただろうか。それよりも集中しすぎて、何回お参りしたのか数えるのを忘れてしまった。

もう一度やり直した方がよいだろうか。


『大丈夫。今ので八十三度目だから』


ふと、大丈夫と言われた気がした。

ああ、そうか、神様が見てくださっているのか。


私は安心して、続きをお参りした。


それから何度目か、終わりの鳥居での一礼を終えた後、雀が三羽ほど弐の鳥居と参の鳥居との間に降り立ち、私を見て首を傾げるとそのまま飛んで行った。


今日はこれまで、と言われた気がした。


終わったと思ったら、その場にへたり込んでしまった。思っていた以上に疲れたようだ。

気づけば、周囲は明るくなってきていた。


「おはようございます。早いですね」


声に顔を上げれば、エミールが立っていた。

へたり込んだ裕子を気遣うように、手を差し伸べている。


「おはようございます。少し、早起きしてしまったので」


人に見られてはいけないと言われていたので、なんとなく理由をぼかしてしまった。

エミールの厚意を受け、手を取って立ち上がらせてもらう。まだ、少し膝が笑っているようだ。


「ふふ、そうですね。私はいつもこのくらいの時間にお掃除に来ます」


お参りのことを教えたのは他ならぬエミールだ。裕子が何をしていたのか、察することは容易だった。そのうえで、気づいていない振りをして自分の来る時間を教えてくれた。


「そうなんですね。わざわざありがとうございます」


「それより、帰って少し休まれたらいかがです。汗が冷えると風邪引きますよ」


「え……あら、いやだ。汗だくじゃない」


言われて気が付いた。肌着が汗で冷たく濡れている。確かにこれでは体調を崩しかねない。


「ええ。早く帰ってお風呂に入るといいですよ」


「そうですね。そうします。では、御免下さい」


「はい、また明日」


エミールは小さく手を振りながら、家路に着く裕子を見送った。




「どうでした?うまくいきました?」


「全部を見ていたわけじゃないけど、まあよかったんじゃない?『人に見られないように』なんて言ったけど、声を掛けられなければセーフにしてあるし」


エミールは社の中で横になる白願へと、今日の結果を尋ねる。


「見られてもいいなら、そう言ってくださいよ。こんな朝早くから可哀想に」


「いいのいいの。神様なんて、人の迷惑なんか気にしちゃいないんだから」


「うわー……って、何見てるんですか?」


正しく人でなしを見る目で見ていると、白願がいつも通り横になりながら、TVでも見るかのように一点を見つめている。

視線の先には、ご神体として祭られている鏡――神鏡がある。


「んー、あの婆さんがお参りしながら考えていたことだよ」


「え!?プライバシーの侵害も甚だしい」


「何言ってんの。何をお願いされているのかわからなきゃ、何を叶えてあげたらいいのかわからないでしょうよ」


「いや、そうなのかもしれないですけど、納得いかないというか、なんというか……」


「なにおう。これが私の仕事だよ、まったく」


「あ、わかった。おっさんが難しい顔してみているから生理的に受け付けないんだ」


「よぉし、その喧嘩買ってあげようじゃないか。川の大岩に括り付けてやる」


「あっはっは!返り討ちにしてやります」


この日のじゃれ合いも、日が暮れるまで続いたそうな。




季節は廻り、めっきり肌寒くなってきた頃、裕子は病院の帰りに社に立ち寄った。

この日の九十九度参りは終えているが、それでもお参りをしたくなった。


「あら、この時間に珍しいですね」


「あ、エミールさん……そうですね、少し、通りかかったものですから……」


「なんだか、とても疲れてらっしゃるようですね。ちゃんと休まれていますか?」


「……ええ、おかげさまで」


エミールはいつもと異なる裕子の様子に、心配そうな表情を浮かべる。

体はエミールに向いているのに、視線は定まらず、顔色は白い。

看護疲れだろうか、今にも倒れそうなに見える。


「あの、つかぬ事を伺いますが……」


どこか怒られることを前にした子供のように、きょろきょろと落ち着きがない。

それでも、意を決して、


「九十九度参りですけれど、一日に二回、三回とお参りしてはいけないでしょうか」


エミールは少しだけ驚いた。

体力的にきついから、二日に一回とか三日に一回とか、ペースを落としたいという話かと思った。

だが、言葉にされたのは逆でペースを上げたいという希望だった。


「それは、なりません」


しかし、返答は否であった。


「白願様は九十九日間を欠かすことなく、と求められております。それを増やすことも、減らすこともできません」


厳しい言葉とは裏腹に、エミールの表情は物憂げだ。


「その、聞いていいのかわからないのですけれど、旦那様のお加減は?」


「……お医者様は、特に何も。でも、看護師の方から、食事の量が減ったと。眠る時間も増えてきていると」


「それは……」


「ええ。覚悟はしているつもりです。ですが、間に合わないかもしれない、そう思ってしまって」


毎日のお参りの際に、少しずつ話をしてきた。

裕子の夫の川崎徹が入院していること。医者からは年を越えることは難しいだろうと言われていること。お見合い結婚であったこと。いろいろあったけれど、金婚式を迎えられたこと。息子が一人いること。孫にも恵まれたこと。不器用な夫であるけれど、自分を大事にしてくれていること。


報われないかもしれない。


その一念が、焦りに変わった。


「失礼を申しました。できれば、白願様へは内緒にしておいてください。聞こえてしまっているかもしれませんけれど」


そう言って、裕子は足取り重く帰っていった。




エミールはそっと社の扉を開き、中の様子をうかがう。

白願の機嫌が良ければ、何とかしてくれるかもしれない。

そんな希望を持って。


「なんともならんよ」


いつも通り、ゴロンと横になっていた白願は振り返りもせずに答えた。


「まだ、何も言っていないですよ」


「私はね。いい加減だし、ルールも緩い。あの婆さんの願いも叶えてやりたいとは思っている」


なら、とエミールが口にする前に、白願は言い切る。


「だが、九十九日間の九十九度参りは互いの約束事だ。どちらかの都合で変えちゃならないんだよ」


「でも……白願様も叶えたいと思っているんでしょ。それなら、どちらかじゃなくて、両者の都合になるんじゃ」


「そうはならんのよ。私はこのルールでやってきた。それでも、全部の願いを叶えてきたわけじゃない。特に、生き死にに係わる願いなんざ吐いて捨てるほどあったわけよ」


だから裕子の願いだけを特別扱いすることはできない、とそう言うのだろうか。


「願いを叶えてやりたいとは思うけれど、間に合わなかったのなら、それはそれでそういうものだと、割り切るしかないだろう」


「それなら、裕子さんが体に鞭打ってまでお参りする意味って何ですか。裕子さんまで倒れたら、白願様は疫病神じゃないですか」


「いうに事欠いて、疫病神と呼ぶか。だがな、何と言われようとも、()()ルールを覆すようなことはせんよ」


「見損ないました。わざわざこんなところまで来るんじゃなかった」


エミールは社を後にすると、翼を広げ飛び立った。



今更ではあるが、エミールは人間ではない。

大陸は遠く、西の彼方よりやってきた古い神の使いだ。

普段はなんやかんやと偉そうなこと言いふんぞり返っているくせに、何も救わない(上司)に嫌気が差していた。そんな折、暇を見つけては世界を飛び回っていたときに、たまたま人の願いを叶えている神を見かけた。

それは口だけの神(クソ上司)よりも尊い存在に思えた。神の一柱が人に寄り添う姿をもっと見てみたいと、白願のところに押しかけた。

しかし、人の信心が減ったのか、白願に熱意がないのか、願いを叶える姿を見ることはなかった。


今回、白願は裕子の願いを叶えたいと言っていた。それなのに、ルールを理由に叶えることを止めようとしている。結局、(元上司)と同じなのか、と落胆した。以前、願いを叶えているところを見ていただけに、仕えていた神(クサレ神)より落胆の度合いは大きかった。


(あーあ、どうしようかなー)


白願の社を出てきたところで、行く当てなどない。

人ではないので衣食住の心配はないが、根無し草(浮浪者)は嫌だなと思いながら空を行く。


ボーっと飛んでいると、知っている姿が目の端に映る。

ふらふらと帰っていった裕子がタクシーに乗り込む姿だった。

はて、と思いながらタクシーを追う。


着いた先は、この辺では大きい総合病院だった。

裕子は会計もそこそこに慌てて病院内に走りこむ。


入院病棟の八階の個室まで、息を切らせて、倒れこむようにベッドの上に眠る男性の手を握った。

切羽詰まって手を握る裕子の様子から、この男性が夫の川崎徹であるとわかる。

徹は老人と呼んで差支えがなく、髪も薄くなり、シミも目立つ。

食事が減っているといっていたからか、だいぶ痩せているように見える。


裕子は祈るように口にする。

まだ逝くな。もう少し待って。

お別れができていない、神様……


その様子をエミールは窓の外から見つめていた。


少しして、浅黒く日焼けした中年男性が入ってきた。

裕子の肩に優しく手を置くと、ベッドに眠る徹の肩を軽く叩く。


父さん、来たよ――


意識がないためか、それ以上の言葉はなく、ベッドの反対側に回りやせ細った手を両手で優しく握る。


二人はしばらく手を握り、ベッドの徹を見つめていたが、看護師に呼ばれ退室していった。


その隙に、エミールは窓をすり抜け、徹の前に降り立つ。


(この人が裕子さんの――)


目の前で二人が手を握っている姿を見ていたからだろうか、自然と徹の手を握る。

思っていた以上に細く、冷たい指をしていた。

――これは、確かに、絶望してしまう。


徹の冷たく、枯れ枝のような手から、エミールはそっと手を離す。

立ったまま両手を胸の前で組み、翼を物に当たらないように気を付けながら広げる。

目を瞑り、祈りを捧げる。

そして、頭、首、両手、両足、そして心臓とをゆっくりと撫でる。


(本当なら(上司)から力を借りるんだけれどね……寒いのは辛いだろうから、温かくなるお呪い。少しはましになると思うけれど……)


自分に人の願いを叶える力も、癒す力もないことを悔しく思いながら、入った時と同じように窓をすり抜けて出ていく。

その直ぐ後に、息子に肩を抱かれ裕子が戻ってきた。


辛そうな裕子を見ることができず、そのまま飛び去った。



気が付けば、白願の社に戻ってきていた。

喧嘩した理由を思い出し、やはり寄らずに離れようとした。

その時、ふと白願の言葉が頭を過る。

()()ルールを覆すようなことはせんよ』

さっき、病院で自分がしたことを思い出す。効果があったかは不明だが、人が行うよりはマシな呪いをしてきた。

白願(本人)が無理でも他者(エミール)が何かをする分には問題がないのだ。


わかりにくい。

わかりにくい、が。

人事を尽くして天命を待つ、という言葉のように、神や仏を頼る前に己のできることをしなくてはいけなかった。

エミールは人ではないが、人より神に近い分、できることも多い。

死の運命を覆すことはできないが、裕子の九十九度参りが終わるまで引き延ばすことはできるかもしれない。


裕子の夫の徹は死期が近いように思う。そうすると、人ではないものも知覚できてしまうかもしれない。自分の姿を認めることにより、どんな影響が出るかわからない。白願に確認しなければ、と考えて暴言を吐いた自覚がある分、どんな顔をして白願に会えばいいのかわからず、一度出直そうと踵を返そうとして賑やかな声が聞こえてきた。


「そうでしょそうでしょ。最近は世知辛くなって仕方がない」

「まさしく、そのとおり!今時、六文で何が買えるのかと!」

「そうでしょそうでしょ。私のところにも参拝客なんて、ちーっとも来ない。人が来ないから、金も来ない。お供えもない。この社だっていつまでもつか」

「なんのなんの。夜露が凌げれば、それで十分!」

「確かに、眠る場所があるだけでも贅沢かもしれませんね。ただ、もう少し。もう少しだけ贅沢がしたい」

「なははは!神様だというのに、俗まみれですな」

「神と言ったって、知る人間も極わずかの消えゆく神ですよ。ただ、十月までは頑張りたいですな」

「ほう、十月に何かあるのですか?」

「十月にはただ酒が飲めるのですよ。出雲までは遠いですが」

「ただ酒とはいいですな!私も一献与りたいものですな!」


がはは、と笑い声が響く。

どう聞いても、酔っ払いが騒いでいる。

だけれど、うちにお酒なんかあったかな?

エミールは首を傾げるが、それよりも一緒にお酒を飲んでいる方はどなただろうか。


お客さんなんて珍しいと思いつつ、お客の前でひどいことにはならないだろうと打算も交えつつ、社に顔を出した。


「あの……」

「おう、お帰り」


お客の前という打算はあったけれど、あまりにあっさりと返された言葉に、思わず面食らう。


「え、あの、先ほどは……」

「ああ、そんなことはどうでもいいから、ほら、お客様にお酌して」

「ほー、異国の使いの方とは珍しい」

「見識を広めるためのホームステイですよ、ホームステイ」

「ああ、なるほど。いま流行りの」


どこで流行っているんだ。定期的に異文化交流とか友好とか親善とか、いろいろ看板を掲げて交流は行われているようだけれど、これって流行るものなのか?

益体もないことが頭を過るが、言われた通り酒瓶を受け取り、お客に酌をする。


「いやぁ、美人に酌をされると、よりうまさが増しますな」

「こんなので良ければ、いくらでも酌させますよ」

「本当ですかぁ……ああ、でも、久々の酒は沁みますなぁ、女子(おなご)が三人に見える。あひゃっひゃっひゃ」


そういうとお客はひっくり返って眠ってしまった。

それに白願様はほっとしたように、息を吐く。


「あの、いろいろ混乱しているんですが……」

「私も寝たいんだが」

「説明してほ……いえ、その前に」


エミールは居住まいを正すと、深々と頭を下げた。


「先ほどは言いすぎました。申し訳ございません」


「まあ、確かに言い過ぎだとは思うが……気持ちはわかる。私とて、なんとかしたい気持ちがないわけじゃない。だが、ルールを破ってしまっては、願いを叶えてやることもできなくなる」


「ですが、仮にも神に向かって疫病神などと」


「仮じゃないよ、仮じゃ。歴とした神様だよ、私は。もういいから、頭を上げなさい」


白願からはいつもの雰囲気が漂う。それに促され、頭を上げる。


「私には人の願いを叶えるだけの力がある。だがね。その力を好き勝手に使ってはいけないと思っている。最初は人のためと思っていても、そのうち自分の都合で使うようになり、最後には人の願いではなく自分のために使うようになる。そうなれば、疫病神と変わらない存在だと私は思っている」


「自分のため、ですか」


「そうだ。私は願いが成就した、喜ぶ人の顔が何より嬉しい。だが、それだけを求めるようになれば、人を不幸にし、手を差し伸べるようになるだろう。マッチポンプというやつだ。そんなものは、疫病神と変わらないだろう?」


白願にとって、ルールは疫病神にならないための戒めだったことを初めて知った。

それは人があまりやってこないこともあるが、おちゃらけた雰囲気に隠され、気づけなかった己が未熟なのだと知れた。


「誠に申し訳ございませんでした」


泣きそうになりながら、もう一度頭を下げる。

白願は鬱陶しそうに手を振りながら答える。


「いい、いい。そういうのは。それより私はもう寝るぞ。悪いが、片づけを頼む」


「え、あ、はい。ああ、その前に、その方はどちら様でしょう」


「ああ、こいつ。こいつは【三途の川の船頭】だ。酒屋の前で、物欲しそうに覗き込んでいたから誘った」


「それは……」


「誰のお迎えかは聞いとらんよ。知ると酒盛りに誘えんからな。今時六文じゃ何も買えん。せめて六百円は欲しいと愚痴っておったわ」


「あと、お酒はどこから」


「酒は海老沢んところからだ。生まれてくる子供が男と女のどちらがいいか聞いて、酒を奉納させた(巻き上げた)


じゃあもう寝る、と社に引っ込んでしまった。


エミールは空になった一升瓶を片付けながら考える。

毎日、どこかで人は亡くなっている。だから、【三途の川の船頭】や【死神】がどこにいても不思議ではない。だけど、このタイミングで誰かを迎えに来て、それを酒盛りで足止めしたのを偶然とは思えない。

でも、それを聞いてしまうと白願のルールに抵触するかもしれない。それは徹が連れていかれることになるかもしれない。


知りたいけれど知ってしまったが故に、全てを台無しにするかもしれないジレンマをため息で押しやる。


考えたところで意味はない。それよりも、今はやることがある。

一升瓶をゴミ捨て場に置いて、エミールはしっかりとした足取りで目的地に歩を進める。




「おはようございます。今日も精が出ますね」


「ええ、おはようございます。私にはこれしかできないから」


翌朝、エミールは九十九度参りを終えた裕子に声を掛けた。

それに答える裕子には疲労の色が濃く出ている。


「あの、旦那様のお加減は……昨日、タクシーに乗っているところをお見掛けしたので……」


エミールが躊躇いがちに口にすると、やはり疲れた笑顔で裕子は応えた。


「なんとか、持ち直しました。一時は、覚悟するよう言われたんですけれど。白願様が止めて下さったんですかね」


あながち間違いとも言い切れず、曖昧に頷く。


「あの、よろしければこちらをお持ちください。ここには社務所もないので、ほかの神社のものですけれど」


エミールはお守りを取り出した。健康祈願と刺繍された朱のお守りだ。

これにエミールは自分の羽を仕込んだ。自分の祈りの力は気休め程度だが、羽はいくらか神気が宿っている。少しなら死を運んでくる者や連れて行こうとする者の目から隠してくれるはずだ。


「…………ありがとうございます」


少しの沈黙の後、エミールの手から恭しく受け取った。

その沈黙で飲み込んだものは、どれほどのものであったのか。


「お参りは、続けて下さいね」


「……ええ、それしかできませんから」


祈るようなエミールの言葉に、絞り出すような声で答える。

エミールからもらったお守りを手提げバッグにしまう。

少しぞんざいに扱われた気がしたのは、気のせいか、疲れのせいか――



その様子を白願と船頭が見ていた。


「……………」


船頭は頭をわしゃわしゃとかいて、横になる。


「神様、申し訳ないけれど、二日酔いになっちまったみたいだ。こんなんじゃ、今日は船を出せねえ。少し休ませてくれねえかい?」


「ああ、狭いところだけれど、ゆっくりしていけばいい」


「ありがたいこった」


「迎え酒なんかはどうですか」


白願は盃をくいッとやる振りをする。


「白願様、お酒は昨日全部飲んじゃいましたよ。まだ、奉納品があるのですか」


「なに!もうないのか」


しょうがない、と言いつつどうにか都合をつけなくては。


「神様、ありがとうございます。でも、役目もありますんで、明日には出ていきますよ」


「……そうか」


あと何日だったか、数えなおさないと。


「まあ、役目もあるだろうが、ゆっくり休むと良い。川とて穏やかな時ばかりではないからな」


社の扉を閉め、船頭を残し白願は外に出る。

ほとんど社から出ることのない白願の様子を珍しいと思いながら、エミールは声を掛けた。


「お出かけですか?」


「うん?まあ、そんなところだ」


「買い物でしたら、私が行きますよ」


あっさりと許された気がするが、本来であれば罰が当たっても仕方のないことを言った。

雑用程度で贖罪になりはしないが、少しでも役に立たなければと気が急く。


「いい、いい。野暮用だが、私がやらねばならない」


「そうですか。お気をつけて。知らない(ひと)について行っちゃダメですよ」


「わたしゃ、こどもか!」


それから二日、白願は帰ってこなかった。




「それじゃ、神様が戻られたら世話になったと伝えて下せえ」


翌日、船頭は予定通りに社を発った。


「もう少し、ゆっくりされたらいかがです?

 ご希望があれば、お酒も用意しますし……」


「ありがたいんですが、役目です。私の裁量じゃ、この辺が限界でして……」


「そう、ですか」


裕子は船頭の関係者でもあったのだろうか。

こちらが引き止めたい理由を察しながら、拙い足止めに引っかかってくれた。

それでも、これ以上の遅れは許されないようだ。


「でも、どうしようもない事情があれば、多少は大目に見てくれるようなんですけれどね」


何らかの妨害があれば、時間を延ばせると言っているようにも聞こえる。


「あの、それは……」


「ああ、急がなきゃ。それでは、失礼します」


これは白願も言っていた、直接は手を出せないというやつだろうか。

具体的な話をすれば、それに引っかかることはできなくなるというルールだろうか。

なんとも面倒な。

少しだけ以前仕えていた神(前の職場)を懐かしむ。裏表なく、言ったことが全てだった。

だから、できないこともはっきりしていたのだけれど。


自身の羽が船頭の目を欺いたとして、一日が限度だろう。

だから、新しい羽を渡したいのだが、裕子を見ていない。



「徹さんは危篤状態です。おそらく、目を覚ますことはないでしょう」


医師の冷酷にも聞こえる宣言を受け、裕子は崩れ落ちた。

息子の正史は覚悟をしていたようで、裕子ほどの衝撃はなかった。それでも、拳を握り、唇を噛みしめる。自分が両親を支えなければ、との使命感から医師に相対する。

医師としても忸怩たる思いがあるようで、その表情は晴れない。


こうなっては、最後の時がいつかわからない。

一時も徹の傍らを離れたくない。


「母さん、今日のお参りは?」


九十九度参りをしていることを正史も聞いている。

重苦しく、父が死ぬその時をただ待つだけの空間に、少しでも明るい話題をと言葉を巡らせる。


「もう、いいのよ……」


「でも、お参りを仕切れば願いが叶うって」


「正史。もう、いいの。私は、これ以上の後悔をしたくないの……」


お父さんの死に目に会えないなんて、これ以上の後悔はないでしょう、と首を横に振る。

そう言われては、正史もそれ以上口にすることはできない。

ただ、電子音が響くだけの病室がそこにあった。




「裕子。久しぶりだな。元気してたか?」


聞きなれないが、聞いたことのある声に、裕子は顔を上げる。

自宅の居間に互いにソファーに座っている。


「お義父さん?」


「そうだよ。久しぶりだな」


「え、なん……いえ、お久しぶりです」


混乱の中、とりあえず挨拶を返す。

もう三十年は前に旅立った、徹の父――隆史の姿がそこにあった。


「久しぶりに会って、親の立場で話をして、わりぃな。ほかのしゃべり方がわかんなくてよ」


「いいえ、気になさらないでください。お義父さんはお義父さんですから」


「……積もる話もあるが、みんなで会える日もそう遠くない。だから、伝えるべきことだけを伝える」


懐かしさやそれに伴う多くの感情を飲み込み、なすべきことを成すと心に決める。


「徹はおれが連れていく。明日の日が昇るころだ。それまでに、お前はお前のやるべきことをやれ」


それが悔いを残さない方法だ、と言い、隆史の姿は薄れてゆく。




誰かが肩に触れ、目を覚ます。


「ああ、ごめん。起こしちゃったかい」


そこは病院で、徹の病室で、正史が自分のジャケットをかけてくれていた。

すでに日が暮れ、外は夕闇に沈んでいる。


「私……」


「疲れが出たんだろ。もう少し休んでいていいよ」


「ええ、いえ、大丈夫よ。それよりあなたこそ休みなさい。仕事の途中で抜けてきたんでしょ」


「俺は大丈夫だよ。職場には前々から親父が危ないって伝えてあったから」


「そう……じゃあ、飲み物でも買ってくるわ」


「俺が行くよ」


そんなに離れていないから大丈夫よ、とハンドバッグから財布を取り出す。

その拍子に『健康祈願』のお守りが零れ落ちる。


「それ、お守り?」


「そう、エミールさんがくれた……」


この間はいろいろ追い詰められていて、ひどい態度を取ってしまったかもしれない。今度会ったら謝らなくては、とお守りを拾い上げる。

ふんわり、と温もりを感じた。


「あ……」


――そうだ。

私のお参りを毎日欠かさず見守ってくれたのは、あの人だ。

毎日毎日私の願いが成就することを疑わず、何も言わずに傍にいてくれたのは、エミールだ。

海外からのホームステイで、有名な神社ではなく地元の無名の神様のところで巫女をやっていた、ちょっと変わった外国人の女の子。

彼女が言っていたではないか。

私の願いは成就すると。

神様へお頼みごとをするのに、捧げものが必要だと。

私は、お参りを終えていない。


「正史、私は用を思い出しました。夜明け前には戻ります」


「え、いきなり、どこへ……え?」


「しっかりと終わらせてきます」


徹にエミールのお守りを握らせる。


「私が戻るまで、この人のことをよろしくお願いいたします」


お守りに後を託し、踵を返す。

その足取りは力強かった。




気づけば夜九時を回っている。

急いでも日付が変わる前にお参りが終わるか微妙だ。

そのあとに明日の分のお参りもしなくてはならない。

体力が持つか不安だが、やるしかない。


「裕子さん、お待ちしておりました」


社に着けば、エミールが待っていた。


「あ、あの、昨日は申し訳ありません。ちょっと気が動転していて」


「そんなことは後回しで結構です。急がなくては、今日の分のお参りが終わりません。急いでください」


「ええ、そうですね。わかりました……あの、始めたいのですが……」


「え?ああ、大丈夫です。声を掛けなければ良いそうですから。でも、回数は減らないし、変なところで頑固なんですよね」


エミールが親しげに話す様子をとても不思議に思う。


「まるで、お会いしたことがあるみたいですね」


「ええ、普段はその辺の親父と変わらないんですけれどね」


神様をその辺の親父と同列に語るなんて。だけど、その通りなのだろうと思えた。


「では、始めます。エミールさん、よろしくお願いいたします」


「はい、よろしくお願いいたします」




結婚生活に順調な時期は一つもなかった。

離婚を切り出されたことだって、一度や二度ではない。

それを一緒に乗り越えてきたのだ。

最後くらい、いいことがあってもいいじゃないか。



エミールは白願の言葉を思い返す。


「あの老夫婦は若いころに海難事故にあって、後遺症が残ったようだ。それを原因に離婚の話が度々出た。周囲もそれを勧めた。反対したのは婆さん一人だった。傍から見れば、一番の被害者だった婆さんが一番嫌がったんだ。周囲は理解に苦しんだ。婆さんは若かったから、離婚したってほかに嫁ぐことはできただろうに。

 いつでも離婚できるように、と旦那は子供を作らなかったそうだ。それに腹を立てた婆さんは、どこからか子供を連れてきた。同じ海難事故で身寄りをなくした子供だった。そうと知れば爺さんも放り出すわけにいかなかった。海難事故でいろいろ狂った人生だったが、海難事故のおかげで家族になれたそうだ。

 そんな婆さんの願いだがな。自分の声で感謝を伝えたいのだそうだ」



日付が変わる直前に、今日の分のお参りが終わる。

本当にギリギリだった。

あと数秒遅ければ、失敗だった。

だが、これで終わりではない。

もう一度、九十九度参りをしなくてはならない。

今日中であれば可能なのだろうけど、日の出前となれば、かなり怪しい。


「お疲れ様です。一息吐きましょう」


エミールは用意していたペットボトルの白湯を渡す。


「……そうですね」


気は急くが、休憩を挟まなくては途中で倒れてしまうことは理解できる。

白湯をありがたくいただき、一口飲む。


「エミールさん」


居住まいを正し、裕子はエミールに向き直る。


「……何でしょう」


文字通り一分一秒を争う、この状況でわざわざ裕子はエミールに時間を割いた。

エミールも自然と背筋が伸びる。


「この九十九日間、ありがとうございました。あなたがいたから、私はやってこれました。雨の日も、風の日も、あなたが『お疲れ様』と言ってくれたので、挫けることなく今日まで来れました。本当にありがとうございます」


裕子は深々と頭を下げる。


「これが終われば、病院に戻ります。それこそ、お礼を伝えることもせずに。ですから、先にお礼を」


「いいんです。私もいろいろ学ぶことが多かったですから」


「それでは、御免下さい」


裕子はもう一度エミールに頭を下げ、社へ向き直る。


エミールも礼を返す。が、頭を占めるのは別のことだった。

裕子の九十九度参りは日の出前には終わるだろう。それから病院に間に合うかが際どい。

それ以上に白願が戻っていない。神が不在で、裕子の願いはどうなるのか。


飛び出したい衝動に駆られるが、白願がどこにいったのかもわからない。

そうであるなら、ここで裕子を見守っていることが役目なのだと思う。



裕子は焦る。

時間が、ない。

足は痛む。

疲労からだんだん、動かなくなる。

肩で息をし、汗が冷える。

いま、なんどめか。

頭がボーっとする。

祈りが、作業に変わり始める。

気づいて、祈りを込めれば、遅くなる。

一つ一つを確認すれば、冷えた体が動かなくなってゆく。

あと、どのくらい。


――――裕子ぉ!

――――きゃああ!


海に落ちる前の悲鳴。

あれが、あの人に残る、最後の、私の声。

それが、覆るのであれば!


これが終われば死ぬのは裕子なのではないかと、そう感じるほど鬼気迫るお参り。


「そこまで!」


エミールは終了を告げる。


「………あっ」


正気に戻り、膝が崩れそうになる。


「ありが……」


「いいから早く!」


丁度通りかかったタクシーを呼び止める。


「病院まで!急いで」


裕子をタクシーに押し込め、行き先を告げる。

タクシーは躊躇うことなく出発した。


老体に鞭打って、お参りは終わらせたが、日の出は近づいていた。




「婆さん、間に合ったか」


声に振り替えれば、白願がいた。


「白願様!急いで!」


「慌てなさんな。お参りが終わったんなら、大丈夫だ」


「そんなこと言って。普段の様子からいまいち信用できないんですよ!」


「Alles beim Alt(相変わらずだな)en.」


「え?」


ガンッと拳骨を喰らう。


「いったぁ!」


「うちのバカが迷惑をかけた」


顔を上げれば、そこにはどこかで見た女性が立っていた。

金髪のショートヘアに黒いドレス。スタイルはエミールより良い。


「な、貴女は……」


「久しぶりだな。クソ上司だよ」




――目が覚めた。

もう、目覚めないのだろうと思っていた。

「ふっ……はぁ」

息をするのも苦しかったのに、悪い夢だったかのように、抵抗なく呼吸ができる。

視界がはっきりすれば、暗い病室に心電図の音が()()()()

「……父さん?」

少し寝ぼけたような声が聞こえる。

大人の男の声だ。

「まあしか」

「……………まさか」

目が覚めたことが望外だったように、口を押え声が震えている。

「はぁ……」

これは今わの際の奇跡か、神のきまぐれか。

「裕子は……」

「か、母さんは、お参りに行ってる」

「そうか……」

「え?……父さん?」

白願様か。

あの方を頼ったのなら、今の状態は裕子の願いか。

「父さん。聞こえてるのかい?」

「渋い、いい声じゃないか」

「ああ、ああ……母さん!」

「なに、すぐ来るさ。そんなに遠くはない」

だが、俺もそんなに長くない。

部屋の隅に親父殿が迎えに来ている。

そろそろ日が昇る。




タクシーの運転手には財布ごと渡してきた。

病院に駆け込み、エレベーターを待つ。

無駄だと知っていても、上下ボタンを何回も押してしまう。


――早く早く


やっと八階に着いた時には、東の空はだいぶ明るくなっていた。

今日の日の出は?

病室に駆け込んだ時には、太陽はその姿を現していた。

間に合わなかった……

「徹さん!」

それでも、諦めきれない。諦めきれるはずがない。

「帰ったか」

「……………え?」

息を切らしながら、信じられない思いで病室の中を進む。


「昔とあんまり変わんない声だな」

「え?……あ、お義父さんは」

「気にすんな。白願様が何とかしてくださったんだろ」

「徹さんも白願様のこと……」

「昔な。お前に何かあったら助けてほしいとお願いしておいた。まさか、こんな風に帰ってくるとは思わなかったけどな」

「いま、いま……」


裕子は大きく息を吐くと、感情を抑え込む。

時間を無駄にするわけにはいかない。


「徹さん。今までありがとうございました。私は、幸せでしたよ」

「あれだけつらく当たったのに幸せって言われてもな……こっちこそ、ありがとうな」

「……………」

「……………」


言いたいことはある。ありすぎる。どれから言えばいいのか。言葉にならない。


「正史もありがとうな。お母さんを助けてやってくれ」

「…………ああ、もちろん」


正史も鼻を啜りながら、しっかりと答える。

徹は裕子と正史を見て、にやりと笑う。


「もっと声を聴いていたんだが、話す時間は無さそうだ。

……最期によ。子守唄。歌ってくれないか」


話なんてしていたら、時間がいくらあっても足りない。五十年分だ。

だから、五十年分の想いを唄にしよう。


――――それから、十分後。徹は永い眠りについた。












「このクソ上司、いきなり何するんですか!?」


「うちの問題児を引き取りに来たんだよ。人様んちで何やら無礼を働いたそうじゃないか?」


「そんなことしてませんよ」


「疫病神呼ばわりしたって聞いたが?」


「え?それは……」


ガンッと拳骨が落ちる。


「いったぁ!二回目!」


「祟られたって文句は言えんぞ、馬鹿者」


「まあまあ、その辺にしといて。それよりエミール。そろそろ三途の()を渡る時間じゃないか?」


「なんだ、お前。死ぬのか?」


「死にませんよ!いえ、見守っていたご婦人の旦那さんが、そろそろ亡くなるみたいで」


「ふぅん」


何故わざわざ呼ばれたのか察して、白願を睨む。


「私の所為じゃないんで、睨まないでください」


「ああ、日が昇る!あれじゃ話す時間なんて碌に取れないんじゃ」


「そうだな。私の役目は婆さんの声を爺さんに聞かせることだからな。一言でも耳に入れば、そこでお終いだ」


「もう少し、何とかなりませんか……」


「ならんね。()()()は離れた」


「……………まさか」


「なんだ、馬鹿者。その期待の籠った目は」


「ロー様。伏してお願いいたします。何とかなりませんか?」


「なるわけないだろ。私は川の神だ」


「川?三途の川は?」


「……………できなくはない。その代わり、百年は川底の掃除だぞ」


「うっ……わ、かりました」


「なんだ、お前。成長できたのか」


「一昨日くらいに」


「白願様ぁ!」


その後、短い時間だったが、三途の川が大荒れし渡航が不可能になった。











四十九日も終わった頃、裕子と正史は白願の社を参拝していた。

願いが成就したお礼参りだ。

裕子は期待していたエミールに再会できず肩を落としたが、風で飛んできたのかチラシが落ちていたので、拾って帰ることにした。


「母さん。最後の一って何だったかわかる?」


「ええ、たぶん」


「何だったの?」


「私の願い事よ。私はあの人の葬儀関連が終われば、すぐにでも追いかけたかったのよ。こちらでは碌に話もできなかったからね」


「それは……」


「まあ、自分で死のうとは考えていないし、もう少し土産話があってもいいでしょ。ここに行けば、エミールさんに会える気がするし」


ライン川観光のチラシが握られていた。

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