第14話 ミノタウロス
ミノタウロス。それはギリシア神話に登場する牛の頭と人の体を持つ化け物である。
ギリシア神話にありがちな、人間の欲と神の罰というテンプレートに従って生まれたその存在は、成長するにつれ本当の化け物となってしまったため迷宮に封じ込められ、最後は英雄テーセウスによって討ち取られた。
その容姿、そして閉じ込められた迷宮という設定が流用しやすかったのか、その存在はいつの間にかゲームやファンタジー小説において利用されるようになった。
そして今ではミノタウロスと言えば、モンスターキャラクターの一種であると考える人のほうが多いかもしれない。
ある意味では市民権を得たと言えるかもしれない。その名を聞くだけで、ある程度の姿の想像が出来る人が多いのだから。
「でかいな」
6メートルに近いその筋肉質な巨体を眺めながら、タクミが広場を進んでいく。
ミノタウロスはその赤い眼でタクミをじろりと睨みつけているものの、その場を動く様子は見せない。
その威厳ある姿はまるで金剛力士像のようであり、わずかに上下する筋肉、呼吸によってたなびく毛が、それが生物であることを示していた。
カツン
その音にタクミが足を止める。
それはミノタウロスが、その手に持った斧の柄で地面を叩いた音。
それ以上進めば、攻撃を開始するという警告。
「あいつ、俺が見えているのか。それにしても警告なんて……案外、騎士道精神あふれるモンスターなんだな」
自らの緊張をほぐすようにそんな冗談を口に出しながら、タクミはじっと自分を見つめてくるミノタウロスを観察する。
頭から生えた鋭い2つの角先は、まるで槍のように尖っている。もし四足歩行で突進でもされて突かれたら大怪我は免れないだろう。
いやそれだけではない。その手に持つ5メートルを超える斧も、鍛えられた下半身の先にある蹄も、まともに食らえばただではすみそうにない。
いわば、ミノタウロスの肉体全てが凶器なのだ。
「これがまだまだ弱い部類のモンスターだなんて、おかしいだろ」
そんな愚痴ともつかない言葉を吐きながら、タクミはぎゅっと拳を握りしめる。
そう、ミノタウロスは決して強いモンスターというわけではない。もちろんこれまでダンジョンの中で遭遇したモンスターとは比べるべくもない強さを誇るのは確かだ。
だが、モンスターについてタブレットで確認したタクミは知っている。ドラゴンなどのモンスターは軽く億を超え、そしてさらに上のモンスターが存在しているということを。
「こいつよりも強いモンスターがいつか地上に出てくるかもしれないのか」
その想像にタクミはぶるりと体を震わせる。
ミケの話を聞いて理解はしていたつもりだった。それがどんな被害をもたらすのか予想したつもりだった。
しかし今、ミノタウロスを目の前にして、自分の認識がいかに甘かったかをタクミは実感していた。
警察や自衛隊がなんとかしてくれるだろう。
心のどこかにあったそんな無根拠な平和への信仰が、音を立てて崩れていく。
こんな奴らを相手にするならより強い力が必要になる。ミケが言っていた「勇者を育てる」その言葉の真の意味をタクミは理解したのだ。
タクミはただの一般人でオタクだ。
武術を習ったこともなければ、体を鍛えることもしたことがない。体を動かすよりも趣味に没頭することを好み、大人になった今、全速力で走るのは遅刻しそうになったときぐらいしかない。
まともに戦えるはずがない。そのことは誰よりもタクミ自身が知っている。でも……
「趣味の時間を邪魔されそうになったときのオタクの怖さ、教えてやるよ」
言葉を発して自らの背中を押し、タクミがその右手をミノタウロスに伸ばして指を突きつける。
そしてタクミは一歩足を踏み出し、境界線を越えた。
「BRAAAA!」
耳をつんざくような叫び声をあげたミノタウロスは、タクミに向かって斧を一振りする。
未だ両者の距離は20メートル近く空いている。だが音を立て、空を切ったその斧の風圧はタクミの体を確かに通り抜けていった。
「怖っ!」
ミノタウロスはその蹄で地面を何度も蹴り、タクミを威嚇している。それがこれから突進してくる前兆だと察したタクミは、覚悟を決めて走り始めた。
その速度はまるでその場から消えたようであり、人とは思えないほどに速かった。
『身体強化』と『俊足』のスキル、そして光学迷彩スーツの補助によって、タクミは人並外れた速度を手に入れていたのだ。
「ちょ、ちょっと待て」
だが手に入れた速さを使いこなせるかは別問題である。
スキルの効果により体の制御についても強化され、その動きに対する認識ができないということはなかった。
だが、想定をはるかに超えた速度に判断は1つも2つも遅れ、その結果ミノタウロスに直進したタクミは、その蹄で思いっきり腹を蹴り上げられ宙を飛ぶ。
「かはっ」
「タクミ!」
肺から強制的に空気を吐かされ、体をくの字に曲げて飛んでいくタクミの姿に、ミケが地面を蹴って駆けだす。
墜落し、地面をごろごろと転がって止まったタクミの元へ駆けつけたミケは、首を左右に振ってその状態を確認する。
「大丈夫!?」
「な、なんとかな。川の向こうで手を振ってる両親がちょっと見えたわ」
「……タクミ様の両親は生きてるニャ。実は結構余裕ニャ?」
「そんなことないぞ。ただ冗談でも言ってないと逃げたくなるからな」
そう言って苦笑しながらタクミは立ち上がり、再びミノタウロスと相対する。
自分の腹にミノタウロスの蹄がめり込むところを見た瞬間、タクミは死を意識した。しかし実際の衝撃は、ドッジボールで速い球を受けたときぐらいでしかない。光学迷彩スーツがタクミを守ってくれたからだ。
だがダンジョンに来て初めて死を身近に感じ、そして覚えた恐怖が消えることはない。
落ち着いたはずの足の震えが再び騒ぎ出したのを見て、タクミは苦笑する。
主人公なら、こんな風に怯えることはないだろう。
ミケが勇者を育てる手伝いをしてほしいと言ったとき、タクミはわずかに、それが自分でないことを残念に思った。ここから自分の物語が始まるんじゃないか。心のどこかでそれを望んでいたからだ。
だが実際にダンジョンに入り、ミノタウロスと戦ってみていかに自分の考えが甘かったかを、タクミは知った。
「あー、やっぱ俺は主人公ってガラじゃないな」
そう言いながらタクミがミノタウロスをにらみつける。そんなタクミの姿をミノタウロスは斧を構え、油断なくにらみ返していた。
ミノタウロスが倒れたタクミを攻撃しなかったのは、騎士道などといった立派なものではない。
先ほどのタクミの突進速度は、ミノタウロスにとって想定外の速さだったのだ。なんとかギリギリ蹄で蹴り返すことに成功したが、斧を振る間さえなかった。
モンスターもある程度の強さになれば、それ相応の知能を持っている。それ故に、ミノタウロスはタクミのほうがはるかに強い可能性を見出し警戒していたのだ。
もしかして倒れたのは自分を油断させ、死地に誘い込むための罠なのではないかと。
もちろんそれは盛大な勘違いだ。
だが、ふらりと立ち上がったかと思うと、全く痛がる様子もなく赤い眼光を向けてくるタクミの姿は異様であり、ミノタウロスに自然と斧を強く握りしめさせるに十分な迫力を持っていた。
自らの中で強大な敵を作り出すミノタウロスに向け、タクミはわずかに笑みを浮かべる。
「主人公なら諦めずにこのまま立ち向かうんだろうが、悪いけど俺はモブなんでな。準備させてもらうぞ」
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