第8話「夕餉の灯」
陽が落ち、風に少しだけ冷たさが混じるころ。
アルドは訓練場でのやり取りを思い返しながら、ゆっくりと家路をたどっていた。
――『策とは、人を守るためにある』。
アルドのまっすぐな言葉を静かに受け止めたグラド先生の眼差し。
あの余韻はまだ胸に残り、自分なりの答えは見つかっていない。
けれど、家の明かりはそんな迷いを包み込むように、あたたかく灯っていた。
ーー
「ふふっ、今日ね、ティナからおもしろい話聞いたの!」
シチューの湯気がゆらゆらと立ちのぼる食卓で、ユリナが弾けるように笑った。
スプーンを手に、まるでいたずらを思いついた子どものように目を輝かせる。
「今日の剣術の授業、ノアくんがいなかったでしょ? で、みんなで探してたら、ティナが図書館で見つけたんだって! そしたら、ノアくんとアルドが、授業サボって悪巧みしてたんだって!」
「……悪巧みはしてない」
アルドは淡々と反論しながらも、口元にわずかな苦笑を浮かべた。
訓練場での真剣な問答が、まだ胸の奥に燻っている――
けれど、こうして笑っている家族の姿に、ほんの少しだけ救われる思いがした。
テーブルの向こう、リオンがちらりと顔を上げる。
寡黙な彼は表情に乏しいが、いつも家族の会話には静かに耳を傾けている。
言葉では語らずとも、彼の眼差しが語る――セイルとユリナの父としての、揺るぎない絆を。
「だってね、ノアくんとアルドが楽しそうに話してるときって、たいてい魔道具で変なことしてるときなんだもん。この前の実験室を爆発したときもそうでしょ?」
ユリナが小首をかしげ、からかうように言った。
「……ただ、ちょっと煙が出ただけだ」
「破裂音も聞こえたけどね」
セイルがわざとらしくつぶやき、スプーンを口に運ぶ。
アルドは一瞥をくれたが、セイルは悪びれもせず、にやりと笑いをこらえていた。
その軽やかなやり取りの中、訓練場の夕焼けやグラド先生の問いが、ふと脳裏をよぎる。
言葉にできない思考の断片が、波のように浮かんでは沈んでいく。
――何を語ればいいのか、それすら分からない。
ふと、母・エリノアがスプーンを置き、セイルに目を向けた。
「ねえ、セイル。アルドは……学校でちゃんとやっていけてるのかしら?」
不意の問いに、セイルは少しだけ目を見開いたが、すぐに笑みを返す。
「うん、大丈夫。ちょっと変わってるけど……ちゃんと、向き合ってるよ」
「そう……それならよかった」
エリノアは安堵の表情で微笑み、優しくアルドを見つめる。
「でもね、アルド。あまり先生たちに心配かけちゃダメよ。あなたのこと、ちゃんと見てくれてるんだから」
「……はいはい」
そっけなく返しながらも、アルドは少しだけ目を逸らした。
ほんのわずかに滲む、罰の悪さ。言い訳を喉の奥に飲み込む。
そんな空気を察したのか、あえて明るく振る舞ったのか――
ユリナがぱっと話題を変えた。
「そうだ! 今日、ミナお姉ちゃんに剣術見てもらったの!」
「へえ。よくあの教え方で分かったな」
アルドが驚き交じりに言うと、ユリナは胸を張って答えた。
「ふふーん、ユリナには分かるの! アルドには無理でも!」
「――ほんとに?」
からかうように返すと、ユリナは得意げにうなずき、無邪気に笑った。
その笑顔につられて、セイルが肩を震わせ、エリノアもくすりと微笑む。
「楽しそうね。ミナちゃん、教えるの上手だから」
その言葉に、アルドとセイルが同時に顔を見合わせた。
「……上手?」
「え? いや……うん……」
ミナの教え方は独特で、
「そこは“ぎゅっ”と握って、“すっ”と動かす!」
という擬音語と身振りばかり。普通なら「は?」となり理解不能なはずだが――
(なぜかユリナには伝わってる)
不思議な光景を思い出しながら、アルドはスプーンを再び口に運んだ。
「そうだ、明日ルークたちと一緒にゼスさんのところに行こうって話してるんだけど、アルドも行く?」
唐突な誘いに、アルドは少し驚いたように顔を上げる。
「バトルホースに乗りに?」
「うん。デュランさんが『実習の前にゼスに習え』って言ってた。『アルドも誘え』ってさ。一緒に行こうよ」
「行く」
「私も行く!」
即答するアルドの横で、ユリナが元気に手を挙げた。
だが次の瞬間、エリノアが小さく首をかしげる。
「ユリナ、明日はティナちゃんたちが来る日じゃなかったかしら?」
「――あ!」
ユリナの顔が一瞬で赤く染まる。
「ち、ちがうの! 忘れてたわけじゃないよ! ティナが果物取ってきて、ケーキ作る日だった!」
慌てて弁解する姿に、場の空気がふっと緩む。
数秒後、ユリナは笑いながら両手をひらひらと振った。
「だからゼスさんのとこは来週にして!」
「……どこに行くにせよ、明日はケーキ作りが先ね」
エリノアが優しくユリナの頭を撫で、「今日の復習も忘れずにね」と微笑む。
「うん!」と元気に返す声に、明日のケーキと牧場の青空が重なった。
暖かな夕餉の灯の中、ささやかな時間が静かに流れ、シチューの香りが、少し冷えた空気にふわりと広がる。スプーンが器に当たる小さな音も、家の温もりを静かに語っていた。
迷いも葛藤も、まだ心の奥でくすぶっている。
けれど――こうして笑っていられるひとときこそが、何よりも大切なのだと。
このときのアルドは、まだ気づいていなかった。
ーー
夜が深まり、窓の外には満ちた月。
遠くからは夜回りの兵の声と、時折吠える番犬の声が聞こえる。
明日はまた、別の問いと出会うだろう。
けれど今は――ただ、このあたたかな灯りの中に身を置いていた。
小さく、アルドがため息をつく。
明日が来る。そのことに、不思議と不安はなかった。
答えは、きっとまだ遠い。
けれど、自分なりの歩幅で、探していければいい――今は、そう思えた。