第7話「揺れる矢先」
本来なら、アルドは今ごろ――誰もいなくなった訓練場の片隅で、一人黙々と弓を引いていたはずだった。
擦り切れた的に向かって、静かに矢を放つ。
弓弦の軋む音だけが、夕刻の空気を切り裂く。
それが、変わることのない、いつもの放課後だった。
けれど、その“いつも”は、今日はなかった。
アルドは訓練場の外れ。
朽ちかけた塀の上に腰を下ろし、木々の影に身を預けていた。
手には弓も矢もない。ただ、じっと沈む陽を見つめていた。
空はすでに、熟れた果実のような深い橙に染まり、風が木々の葉をすかし、夕焼けの空を波打たせる。
それはまるで、目に見えぬ“問い”が空気の中に揺らめいているかのようだった。
耳に届くのは、木剣が地面を叩く乾いた音と、遠くで囀る鳥の声。
その音の主は――ユリアだった。
小さな体に不釣り合いな木剣を抱え、懸命に振り下ろす姿が見える。
その隣でミナがユリアの動きを直しながら、何かをそっと耳打ちした。
ユリアの口元がほころび、もう一度、木剣を握り直しす。
アルドは、その光景をどこか遠い目で眺めていた。
ふと、手元を見ると、小さなメモ帳があった。
授業中に走り書いた言葉が、そこに記されている。
『策とは、人を守るためにある』
簡潔な一文。
けれど、それが胸の奥をじわりと刺してくる。
「いろんな戦術書も、勝つために少数を犠牲にしているものばかりなのに…敵に情けをかける必要があるのか?」
「里を襲ってくる魔物は迷いなく討つのに、敵が“人”に変わっただけで、何が違うんだ……」
──何も変わらないはずだ。襲ってくるなら、討つ。それだけのこと。
けれど、その“だけ”が、少しだけ重く感じられるようになっていた。けれど、心のどこかで――いや、もっと深いところで。
アルドは気づいていた。
矛盾がある。ずっと信じてきた“正しさ”と、今感じている“重み”が、噛み合わない。
それは、矢筒に納められた一本の矢が、わずかに歪んでいたような感覚だった。
放てば飛ぶだろう。でも、狙い通りには届かない。
「――そう思い詰めるな」
突然、背後から声がした。肩が跳ねる。
振り返ると、グラドが立っていた。
夕陽を背にしたその顔に、珍しく柔らかな笑みが浮かんでいる。
「矢を打たないなんて、珍しいな。アルド」
「……グラド先生」
立ち上がるでもなく、アルドはメモ帳を伏せた
だがその仕草に、グラドはすべて気づいているようだった。
「さっきの授業のこと、引っかかっているようだな」
「……」
沈黙が答えだった。
グラドはゆっくりと歩み寄り、アルドの隣に腰を下ろした。
夕陽が二人の影を長く伸ばす。
風が、緩やかに二人の間を流れる。
「勝利のために犠牲を払うのは当然……そう考えていたな?」
「……はい。ずっと、そう思っていました」
「……でも、今は違うか?」
アルドは少しだけ首を振り、言葉を選ぶように答えた。
「勝てばいい。それが正義で、真理だと……そう信じてきました。でも、それだけじゃ……どうしてか、納得できなくなってきました」
「なぜだと思う?」
「……わかりません。怒っているのか、哀しいのか……それさえ、はっきりしなくて……」
沈黙。
風が、どこか哀しげに木の葉を揺らす音だけが聞こえる。
グラドは小さく笑った。
「それでいい。正しさに“揺れる”のは、正しさと向き合っている証拠だ」
そう言って、彼は空を見上げる。
風に流れる雲が、ゆっくりと形を変えていく。
「人は何かを成し遂げたいとき、集まる。だが“人間”という生き物は、魔道具みたいに魔力を注げば動くわけじゃない。感情という面倒なものを抱えている」
「……」
「アルド、お前は――何のために生きて、何のために死ねる?」
ズシリと心の奥に落ちる言葉。
唐突な問いに、息が詰まる。
答えようと口を開いても、言葉が霧のように消えていく。
「……わかりません」
「それでいいさ。」
グラドの声は静かだったが、確かな重みがあった。
「だが、いずれ答えは問われる。
その時に、“自分で選んだ”と思えるようになれ」
アルドは、小さくうなずいた。
けれど、それでも答えには辿り着けない。
「……先生は、わかっているんですか? 何のために生きて、何のために死ねるか」
グラドは少しだけ笑った。
その笑みには、どこか遠くを見つめるような眼差しがあった。
「俺には、まだ“これだ”って答えはない。ただ、命を懸ける“時”が来たときに、自然と体が動く。それは確かだ」
「……」
「その時が来たとき――お前が、今この“問い”に向き合っていたことを、必ず思い出すだろう」
グラドは立ち上がり、アルドの頭をわしっと撫でる。
「策とは人を守るためにある、という言葉の意味もな。
あれは半分しか教えていない。……残りの半分は、お前自身で見つけろ」
そう言い残し、グラドは夕陽の中へと歩き出した。
その背中は、いつになく遠く、どこか儚げに映った。
アルドはしばらく、ただその背中を見つめていた。
そしてもう一度、メモ帳を開き、あの言葉を見つめた。
『策とは、人を守るためにある』
風が一枚、ページを捲っていく。
そこにはまだ何も書かれていなかった。
それはまるで、“問いの続きを書く余白”のようにも見えた。
アルドは、弓を持たぬ手で、その空白をそっと撫でた。
彼の内に芽吹いた問いは、まだ矢のように宙を彷徨っていた。
けれどそれは、迷いの只中で引き絞られた、彼だけの“揺れる矢先”だった。
風が木々の葉をすかし、夕焼けの空を波打たせる。
答えの見えぬ問いだけが、夕焼けの空に淡く滲んでいた。