表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
セファルディア〜滅びと継ぐもの達〜  作者: YUKI
第1章 島の日常と少年たち
8/18

第7話「揺れる矢先」

本来なら、アルドは今ごろ――誰もいなくなった訓練場の片隅で、一人黙々と弓を引いていたはずだった。


擦り切れた的に向かって、静かに矢を放つ。

弓弦の軋む音だけが、夕刻の空気を切り裂く。


それが、変わることのない、いつもの放課後だった。


けれど、その“いつも”は、今日はなかった。


アルドは訓練場の外れ。

朽ちかけた塀の上に腰を下ろし、木々の影に身を預けていた。


手には弓も矢もない。ただ、じっと沈む陽を見つめていた。


空はすでに、熟れた果実のような深い橙に染まり、風が木々の葉をすかし、夕焼けの空を波打たせる。

 それはまるで、目に見えぬ“問い”が空気の中に揺らめいているかのようだった。

耳に届くのは、木剣が地面を叩く乾いた音と、遠くで囀る鳥の声。


その音の主は――ユリアだった。

小さな体に不釣り合いな木剣を抱え、懸命に振り下ろす姿が見える。

その隣でミナがユリアの動きを直しながら、何かをそっと耳打ちした。

ユリアの口元がほころび、もう一度、木剣を握り直しす。


アルドは、その光景をどこか遠い目で眺めていた。


ふと、手元を見ると、小さなメモ帳があった。

授業中に走り書いた言葉が、そこに記されている。


『策とは、人を守るためにある』


簡潔な一文。

けれど、それが胸の奥をじわりと刺してくる。


「いろんな戦術書も、勝つために少数を犠牲にしているものばかりなのに…敵に情けをかける必要があるのか?」


「里を襲ってくる魔物は迷いなく討つのに、敵が“人”に変わっただけで、何が違うんだ……」


──何も変わらないはずだ。襲ってくるなら、討つ。それだけのこと。

けれど、その“だけ”が、少しだけ重く感じられるようになっていた。けれど、心のどこかで――いや、もっと深いところで。

 アルドは気づいていた。

 矛盾がある。ずっと信じてきた“正しさ”と、今感じている“重み”が、噛み合わない。


 それは、矢筒に納められた一本の矢が、わずかに歪んでいたような感覚だった。

 放てば飛ぶだろう。でも、狙い通りには届かない。


「――そう思い詰めるな」


突然、背後から声がした。肩が跳ねる。


振り返ると、グラドが立っていた。

夕陽を背にしたその顔に、珍しく柔らかな笑みが浮かんでいる。


「矢を打たないなんて、珍しいな。アルド」


「……グラド先生」


立ち上がるでもなく、アルドはメモ帳を伏せた


だがその仕草に、グラドはすべて気づいているようだった。


「さっきの授業のこと、引っかかっているようだな」


「……」


沈黙が答えだった。


グラドはゆっくりと歩み寄り、アルドの隣に腰を下ろした。

夕陽が二人の影を長く伸ばす。


風が、緩やかに二人の間を流れる。


「勝利のために犠牲を払うのは当然……そう考えていたな?」


「……はい。ずっと、そう思っていました」


「……でも、今は違うか?」


アルドは少しだけ首を振り、言葉を選ぶように答えた。


「勝てばいい。それが正義で、真理だと……そう信じてきました。でも、それだけじゃ……どうしてか、納得できなくなってきました」


「なぜだと思う?」


「……わかりません。怒っているのか、哀しいのか……それさえ、はっきりしなくて……」


沈黙。

風が、どこか哀しげに木の葉を揺らす音だけが聞こえる。


グラドは小さく笑った。


「それでいい。正しさに“揺れる”のは、正しさと向き合っている証拠だ」


そう言って、彼は空を見上げる。

風に流れる雲が、ゆっくりと形を変えていく。


「人は何かを成し遂げたいとき、集まる。だが“人間”という生き物は、魔道具みたいに魔力を注げば動くわけじゃない。感情という面倒なものを抱えている」


「……」


「アルド、お前は――何のために生きて、何のために死ねる?」


ズシリと心の奥に落ちる言葉。

唐突な問いに、息が詰まる。


答えようと口を開いても、言葉が霧のように消えていく。


「……わかりません」


「それでいいさ。」


グラドの声は静かだったが、確かな重みがあった。


「だが、いずれ答えは問われる。

その時に、“自分で選んだ”と思えるようになれ」


アルドは、小さくうなずいた。

けれど、それでも答えには辿り着けない。


「……先生は、わかっているんですか? 何のために生きて、何のために死ねるか」


グラドは少しだけ笑った。

その笑みには、どこか遠くを見つめるような眼差しがあった。


「俺には、まだ“これだ”って答えはない。ただ、命を懸ける“時”が来たときに、自然と体が動く。それは確かだ」


「……」


「その時が来たとき――お前が、今この“問い”に向き合っていたことを、必ず思い出すだろう」


グラドは立ち上がり、アルドの頭をわしっと撫でる。


「策とは人を守るためにある、という言葉の意味もな。

あれは半分しか教えていない。……残りの半分は、お前自身で見つけろ」


そう言い残し、グラドは夕陽の中へと歩き出した。


その背中は、いつになく遠く、どこか儚げに映った。


アルドはしばらく、ただその背中を見つめていた。


そしてもう一度、メモ帳を開き、あの言葉を見つめた。


『策とは、人を守るためにある』


風が一枚、ページを捲っていく。

そこにはまだ何も書かれていなかった。

それはまるで、“問いの続きを書く余白”のようにも見えた。


アルドは、弓を持たぬ手で、その空白をそっと撫でた。


彼の内に芽吹いた問いは、まだ矢のように宙を彷徨っていた。


けれどそれは、迷いの只中で引き絞られた、彼だけの“揺れる矢先”だった。


風が木々の葉をすかし、夕焼けの空を波打たせる。

答えの見えぬ問いだけが、夕焼けの空に淡く滲んでいた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ