第2話「すれ違いの朝」
朝の光が木枠の窓から差し込み、淡い影を食卓に落としていた。焼き立てのパンの香ばしい匂いが、部屋いっぱいに広がる。
パンをこんがり焼き上げたのはユリナだった。
小さな手で一つずつ切り分け、ベリーのジャムを丁寧に塗っていくその姿は、どこか母・エリノアを思わせる。
彼女に似て、静かで優しい気遣いが、いつも台所を温かくしていた。
「パン、焼き加減どうかな……」
ユリナがジャムの瓶を持ったまま、少し不安そうに母を見上げる。
「上出来よ。ほんとに上手になったわね」
エリノアは微笑み、そっとユリナの頭を撫でた。
嬉しそうに笑うユリナは、長い木のテーブルに五人分の朝食を静かに並べていく。
ほどなくして、父のリオン、セイル、そしてアルドが席に着く。
家族が揃う音が、食卓に穏やかな気配を広げた。
「今日はティナが迎えに来てくれるの! 森の果実もらったから、そのお礼もしなくっちゃ!」
口いっぱいにパンを頬張りながら、ユリナが声を弾ませる。
「いいわね。ティナちゃんによろしく伝えて」
エリノアが優しく微笑む。
窓から差す朝の光が、その笑みをやわらかく包んでいた。
テーブルの一角では、リオンが黙々とパンを口に運び、スープをすすっていた。
その隣でセイルが肩を回し、首を鳴らしながら軽く体をほぐしている。
「……僕も、そろそろ。ルークが迎えに来る頃だな。アルドも!準備急げよ」
そう言って、セイルが立ち上がる。
その動きに釣られるように、ユリナもあわててスープを飲み干した。
「わたしも行ってきますっ!」
玄関へ向かうふたりの背に、エリノアの声がふわりと届く。
「行ってらっしゃい、ふたりとも」
「行ってきまーす!」
「いってきまーす!」
バタン、と木の扉が閉まり、家の中に静けさが戻った。
――
アルドは、のんびりとした調子でスープをすすり、ちぎったパンを口に運ぶ。
ひとりの時間を噛みしめるように。
食卓には、アルドとリオンだけが残っていた。
スプーンが器に当たる音だけが、静かに食器の間を渡っていく。
しばらく沈黙が続いたあと、リオンがぽつりと呟いた。
「……あいつは、友達が多くていいな」
その言葉に込められた感情は、掴みにくい。
寂しさか、羨望か、それともただの観察か。
アルドはスプーンを止めず、鼻でふっと笑った。
「アルド、おまえは――」
「俺は、ひとりで歩く方が好きなんだよ」
間を置かず返したその声は、どこか遠くを見つめているようだった。
「……おまえの父親に似てるな。目線が遠いんだ、あいつも…」
リオンは短く息をつき、窓の外へと視線を移す。
「考えごとしながら歩くのも、悪くない。けどな、たまには周りも見ておけ」
アルドはスープを飲み干し、立ち上がった。
器を手に取り、流しへ向かう。
背に向けて、リオンが静かに言葉を落とす。
「おまえの父親――ジークは、そうやって、見なくていい“もの“まで見ようとした男だった」
その言葉に、アルドの手が一瞬だけ止まる。
けれど何も言わず、器を置いて玄関へと向かった。
――
母が亡くなった日。
そして、父ジークが島の外での任務中に命を落としたという報せを受けた日。
あの日の記憶は、今も色褪せず、アルドの中に残っている。
あの任務は、ただの盗賊の襲撃ではなかった。
――精鋭の部隊。訓練された者の動き。
「襲撃者」というには、あまりにも整っていた。
けれど、正体はわからなかった。
ただ一つ確かなのは、父がリオンを庇い、命を落としたということ。
そして、母もその後を追うように病に伏した。
目の前にいるこの男――リオンが、その報せを届けに来た。
家族のようでいて、どこかに決して越えられない距離を残したまま。
――
靴を履いていると、背後から声が届く。
「アルド、行ってらっしゃい」
エリノアの、柔らかく包み込むような声だった。
「……うん。いってきます」
少しだけ顔を背けるようにして応え、扉を開ける。
朝の光が差し込み、アルドの姿を包みこんだ。
バタン、と扉が閉まり、再び家の中に静けさが戻る。
エリノアとリオンが、ふと顔を見合わせた。
「……あの子なりに、ちゃんと返してくれるようになったわね」
「……ああ」
リオンの返事は短かったが、確かな重みを帯びていた。
――
村の道を歩くアルドの耳に、鳥のさえずりと、どこかで笑い合う子どもたちの声が届く。
空を見上げると、雲の合間から朝陽がこぼれていた。
軋む井戸の音、パン屋の店先に並ぶ籠、煙突から立ちのぼる白い煙。
日常の景色が、静かに動き始めている。
ひとりで歩くのは慣れている。
でも――
誰かの言葉が、心のどこかに灯をともしてくれることもある。
あの日、父が見せてくれた背中のように。
言葉の代わりに残された、あの視線のように。
そんなことを、ふと思えた朝だった。