第1話「朝の始まり 」
朝の霧がまだ森の奥にしがみつくように漂っていた。
湿った土と朝露に濡れた草の匂いが鼻をくすぐる。鳥の囀りすら、まだ控えめだった。
一人の少年が、音を立てぬように草を踏み締めて進む。
黒髪に淡い紫の瞳。感情をあまり表に出さず、その考え方の独特さから周囲に「奇人」と呼ばれることもある。
アルドはしゃがみ込み、地面に残された痕跡に指を走らせた。
ぬかるみに刻まれた小さな足跡、葉のかじられた跡、かすかな毛の付着。
――ウサギ。それに、折れた低木の枝……雉か。
(この時間なら、まだ近くにいるはずだ)
弓を構え、静かに気配を殺して茂みの中へ進む。
やがて、鋭い視線が一匹のウサギを捉えた。
矢が一本、音もなく放たれ――獲物は土の上に倒れた。
さらに雉も仕留め、アルドはそれらを括りつけて立ち上がる。
森の中で過ごすこの時間は、彼にとって特別だった。誰にも邪魔されない“自分の感覚”で世界と向き合える瞬間だった。
人の言葉よりも、音や匂い、空気の流れのほうがよほど正直だ。
その時――
「通るよ」
草の間をすり抜ける風のような声とともに、ひとつの影が彼の前を駆け抜けた。
銀色のポニーテールが朝日を受けてきらめく。細身の身体が木々の間を音もなく跳ねるように走る。
「……また朝から果物採りか、ティナ」
アルドは微かに笑い、腰に獲物をくくりながら声をかけた。
ティナは一瞬だけ枝に足をかけ、木の上からアルドを見下ろすように言った。
「昨日の帰り、倒木に新しい爪痕があった。霧も濃かったし、気になったからルート確認。ついでに、これ」
赤い果実をぽいと投げてよこすティナ。
それは彼女の日課――斥候の訓練としての“いつもの朝”。
「東の倒木、かなり深くえぐれてた。気をつけて。風向きも少し変わってたし」
「……大型か?」
「たぶん。でもそっちには行かないようにした」
そう言って、腰の袋からもう一つ果実を取り出すと、それも放った。
「こっちはユリナに。美味しかったから」
「……ありがと。きっと喜ぶ」
果実を受け取るアルドの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
ティナはにやりと笑い、「じゃあね」と一言。返事も待たず、ひらりと木の枝を渡って風のように去っていき、そのまま森の外へ、音もなく消えていった。
アルドはその背を目で追いながら、果実の一つにかぶりついた。
甘酸っぱい果汁が舌に広がり、それが朝の空気と混ざって、森の静寂に溶けていくようだった。
(ほんと、風みたいなやつだ)
森に戻った静寂の中で、アルドはふと立ち止まった。
(……何かが、違う)
森の気配。風の流れ。昨日と微かに“ズレている”気がした。
だが、確かな証拠はない。自分の勘のせいかもしれない――
そう思いながら、アルドは肩に獲物を掛け直し、森を後にした。
⸻
簡素だが手入れの行き届いた家。その門をくぐった瞬間、明るく透き通った声が弾けた。
「おかーさーん! アルドがウサギと雉持って帰ってきたよー!」
玄関先から駆け出してきたのは、小柄で細身の少女だった。長い栗色の髪は、動きに合わせてふわりと揺れ、朝日に照らされた琥珀色の瞳がぱっと輝いている。軽やかな足取りで駆け寄ってきたその姿は、元気そのものなのに、どこか可憐な雰囲気をまとっていた。
「今日のごはん、シチューがいいな。お肉いっぱいの!」
両手を広げてアルドに駆け寄りながら、期待いっぱいの目で獲物を覗き込む。目をきらきらさせながら、「わっ、大きい!昨日よりずっと大きいかも!アルドってほんとすごいね!」と、素直な感嘆の声を上げる。
アルドは少し苦笑しながら荷物を手渡し、腰からティナにもらった果実を取り出す。
「ティナから。ユリナにってさ」
「えっ、ほんと!? わあっ、ありがとうー!」
ユリナは果実を受け取ると、目を輝かせた。
宝物を受け取るように両手で果実を抱える。大事そうに見つめたあと、くすっと笑って、頬をすり寄せた。
「後でティナにお礼言わなきゃ!」
アルドはその笑顔を見て、一瞬だけ目を細めた。
(……なんか、顔がいつもより熱っぽい?)
微かな違和感が胸に残る。けれど、ユリナ自身は元気そうだ。
自分の気のせいか――そう思い直して、尋ねた。
「セイルは?」
「お庭でお父さんと稽古中! 朝からすっごい気合入ってるよ」
(あいつらしいな)
庭から聞こえる木剣の音を遠くに聞きながら、アルドはそっと息をついた。
ーーー
木剣がぶつかる乾いた音が、庭の朝空に響いていた。
一人の男は、背筋をまっすぐに伸ばし、無駄のない構えを取っていた。
その足運びは、地を踏むというより、地に溶けるようだった。老練の剣士の動き――それは、若者の力任せとはまったく違う“静の圧”だった。
かつて島の剣士たちを束ねた男――リオン。
鋼のような眼差しと、淀みのない動き。年を重ねても、その身からは一片の錆も感じさせなかった。
対する少年は、額に汗をにじませながらも、まっすぐに相手を見据えている。
濡れた髪が陽光を受けて蒼く光り、瞳には一切の迷いがなかった。
その細身の体には鍛錬の跡が刻まれ、剣を握る手には、確かな覚悟が宿っていた。
セイル――その名が示す通り、どこか父リオンの面影を宿している。
肩で息をしながらも、彼はこの時間を楽しんでいるようだった。
父と剣を交えるひととき。それは、ほんの少しだけ特別な時間だった。
「来ないのか?」
低く、試すような声でリオンが問う。
セイルは木剣を振り上げ、一気に踏み込んだ。
まっすぐ、だが鋭い踏み込み。
「っは!」
一太刀目は、縦に振り下ろす正攻法。
リオンはわずかに身をひねってそれを受け流し、間合いを詰めにかかる。
セイルは即座に跳ね退き、左足を軸に斜めから横薙ぎを放つ。
だが、それもまた受け流される。リオンの動きには、一切の無駄がなかった。
振りかぶらず、寸の間合いで制するように打ち返してくる。
「重ねるな。次を見失う」
言葉と同時に、木剣が再びぶつかる。
一手、二手、三手――間合いを測り、互いの動きを読む。
セイルは攻撃を止めない。
打ち込み、退き、切り返す。その中に、一瞬だけ鋭い刺突を混ぜた。
リオンの目がわずかに細まる。
「……ほう」
その声と同時に、リオンの木剣が隙を縫って突き込まれる。
軌道の読み合いに敗れたセイルは、かろうじて身を引いたが、構えが崩れた。
その隙を逃さず、切っ先が喉元へと突きつけられる。
「……参りました」
悔しげに呟くセイル。
リオンは剣を下ろさず、静かに言った。
「お前は攻めに偏りすぎる。力任せでは、戦は成らん」
「でも……力がなきゃ、守れない」
「力は、技を支える土台にすぎん。まずは相手を見ろ。
受け、誘い、そして――斬れ」
その言葉が空気に溶けきるより早く、リオンの視線が木陰へと向いた。
「……来たな」
リオンの目が木陰を捉える。
姿を現したのは、弓を背負わず、布袋だけを肩にかけた少年――アルドだった。
「ちょうどいい区切りだ。アルド、お前もやっていくか?」
木剣を構えたまま、リオンが声をかける。
アルドは静かに一歩前に出て、うなずいた。
「うん、やる」
布袋を脇に置き、短剣用の木剣には手を伸ばさず、そのまま空の両手を前に出して構えた。
体の重心をわずかに落とし、足を流すように引いた姿勢。攻撃の型ではなく、“観る”構えだった。
その様子に、リオンがわずかに眉をひそめた。
「……短剣は使わないのか?」
「いい。あれを持つと、動きが鈍くなる気がする」
静かな声。だが、その奥にわずかに――言葉にしづらい拒絶の色が滲んでいた。
リオンはしばし沈黙し、それからわずかに口角を持ち上げた。
「……そうか。なら――遠慮はしないぞ」
リオンが間合いを詰める。ゆるやかだが確実に、流れるような足運び。
アルドは動かない。空の手のまま、わずかに身を低くし、空気の流れを読むように目を細める。
(剣を避ける。視線を誘う。……崩れを待つ)
木剣が来る。
その瞬間、アルドの体が風のように揺れた。
剣の軌道を見切り、紙一重でかわす。掠った木剣が肩の横を抜けた。
同時にアルドの右手が、リオンの手首に伸びる――触れる寸前で、リオンが体をひねり、間合いを取り直した。
「……武器なしで仕掛けるか。面白い」
リオンが唸るように言った。
セイルが目を見開く。
武器を持たず、父と真正面から対峙する友の姿に、言葉を失う。
「……これはこれで、戦い方だな。ならば――もう一度来い」
リオンの足が地を打つ。今度は動きに緩急が混じる。手加減はない。
アルドもまた、それを真正面から受け止めるように、静かに構えを変えた。
指を軽く曲げ、両肘を緩く張る。空気を刃に変えるかのような動き。ーーまるで拳ではなく“気配”で斬ろうとしているかのようだった。
「……構えたつもりか?」
「まだ考え中。剣じゃなくても、近くで刺すなら、形は似てると思って」
「ほう」
リオンは短く息を吐いた。納得しかねながらも、理解したというように。
アルドが動いた。
半歩、また半歩。円を描くように間合いを探る。
その足取りには、奇妙な軽さがあった。
蹴るでもなく、踏み込むでもなく――ただ“置く”。
(重心が揺れていない……?)
次の瞬間、アルドが左に跳ねた――かと思えば、空中で足を交差させ、右へと滑り込む。
まるで浮いているかのような動きだった。
「――!」
リオンが木剣を振る。
だが、そこにアルドはいない。
前へ。
滑り込むように懐へ入り込み、空を裂く両手。
その形はまさに、短剣の一刺し。
「ふっ!」
リオンは身をひねり、半回転で腕を絡め取りながら、足払いを仕掛ける。
「……っ!」
アルドは倒れこむ。だが、崩れた体勢のまま跳ね上がるように蹴りを放った。
(落ち際に、蹴り……?)
リオンがわずかに身を引く。
足が空を切るより早く、アルドは背中を預けたまま地を転がり、立ち上がろうとする。
その動きに“型”はない。
だがそこには、直感と戦術が混ざった“合理”があった。
「……どうやってそんな動きを考えた?」
息を切らせながら、アルドが答える。
「歩くより、跳ねた方が狙われにくい。
二本足で踏みしめるより、一瞬で姿をずらしたほうが……騙せるから」
リオンの眉がわずかに寄り、目が細くなる。黙して、アルドを見つめる。
そこには、わずかな警戒と、深い興味があった。
「理屈は悪くない。だが……体が追いついていない」
「……分かってる。今はまだ、頭の中だけ。
でも――戦いって、手と足だけじゃないと思う」
再び、アルドが踏み込む。
迷いのない足取り。斜めの軌道から、間合いの裏を狙う。
(……やはり、父親の型じゃないな)
リオンは読んでいた。
軸をずらし、背負い投げの要領で倒す。
「っ……!」
アルドの体が地を転がり、泥が跳ねる。
立ち上がろうとしたところで、セリオンが木剣を下ろし、静かに言った。
「体の使い方は悪くない。だが……お前の父親とは、動きが違うな」
アルドが、わずかに息を呑んだ。
それ以上、言葉は続かなかった。
重く沈んだ空気。だがそれは、責めでも拒絶でもなく――ただ、確かめるような沈黙だった。
アルドの動きは、教え込まれた型ではない。
自身で編み出した、未完成の戦い方。
地に足をつけず、流れるように戦場を駆ける術――それは、剣術の外にある何かだった。
(なら……こいつは、どこへ向かうつもりだ?)
リオンが心中で問うた、その時だった。
家の縁側から、声が響いた。
「お兄ちゃん! アルドも!」
声の主はユリナ。
だが、いつもより少しだけ弱々しく聞こえる。
「朝ごはんの前なのに、ふたりとも泥だらけじゃん!ちゃんと洗ってきてよ!」
セイルとアルドが顔を見合わせ、小さく笑う。
似ていないふたり。だが今だけは、同じ歩幅で歩ける気がした。
「怒られたな」
「うん……水場、先に行こう」
泥だらけの足音を残しながら、ふたりは歩き出す。
違う歩き方。でも、いまは同じ道を歩いていた。