第1話「火の灯らぬ家」
風が止んだ。
島の北端、崖沿いにある訓練場。朝の冷え込みが残る中、そこに立つのは一人だけだった。
アルドは五十本目の矢をつがえ、無駄な動きなく弓を引く。姿勢に迷いはなく、視線は鋭い。陽の傾きや風の微細な揺らぎすら、感覚の一部として捉えていた。
──放つ。
矢は空気を切り裂き、静かに標的の中心を射抜く。
「……五十本目。全部、的の中心か」
声に感情はなく、ただ確認するような口調だった。
昔の彼なら、一本命中するたびに顔を輝かせていただろう。今は、違う。もう、何度でも中心を射抜けると確信していた。
背は伸び、肩幅も広がった。
少年の面影をわずかに残しながらも、その輪郭には確かな芯が通っている。
身体は、研ぎ澄まされた刃のようだった。
無駄な肉はそぎ落とされ、動きには淀みがない。
目の奥には、沈黙の中に潜む意志が宿っている。
それが今のアルドを語っていた。
「五年か……」
弓を下ろし、拾いに歩きながらぽつりとこぼす。
──ユリナが病に倒れてから、五年。
──師カレンに出会い、鍛えられた日々も、五年。
──自分が「何もできなかった」と思い知らされた、あの日から。
いちいち思い返すわけではない。ただ、その積み重ねが今の彼を形づくっている。変わったのは体だけじゃない。見据えるもの、心の向きすら変わっていた。
「風向きが……変わったな」
拾い上げた矢を握りしめると、空に浮かぶ薄雲が不吉な色を帯びていた。
指先の皮は硬くなり、幾度も裂けた痕が刻まれている。
“体で覚えることは、技を凌駕する”
かつてカレンが言った言葉が、手のひらの痛みとともに甦る。
ーーあの頃
思い出すのは、あの荒地。風に砂が舞い、肌を焼くような陽射しの下。
白銀のナイフが、音もなく宙を裂いた。
「避けろォッ!! 止まるな、思考ごと動けッ! 体も頭も、同時に動かすんだよッ!」
怒声とともに、ナイフが次々と飛来する。一本、二本、三本。
どれも致命の一点を、まるで機械のように正確に狙っていた。
アルドは反射だけで地を駆け、跳ね、転がった。
思考は追いつかない。ただ、死にたくないという本能だけが、体を突き動かしていた。
「また止まったな! 何も考えずに動いてんじゃねえ! その一瞬で死ぬんだよッ!」
ただ動くな。ただ考えるな。
“考えながら動け”。
それがカレンの教えだった。
それは訓練というより、殺気を孕んだ実戦そのもの。
だが、アルドは決して逃げなかった。
カレンだけが、彼の“奇妙な戦術”を否定せず、命を守る術として叩き込んでくれたから。
「……この斜面なら、敵の後衛の──」
「うるせぇ! 口動かす暇があるなら手動かせッ!」
その罵声の裏には、確かに命を繋ぐ“本気”があった。
カレンは、戦場で生き延びるための術を全力で教えてくれた。
足にはいつも傷だらけの包帯。それでも笑えていた。
ナイフの軌道が読めるようになった頃には、恐怖も痛みも別の形に変わっていた。
──あれが自分を変えた日々だった。
アルドは顔を上げる。高台から吹く風が、過去の熱気を洗い流すように頬を撫でた。
「……よく生きてたな、俺」
苦笑混じりに呟く。皮膚の奥には、まだあの痛みの記憶が残っていた。
「殺す気で教えてたよな、あれ」
独り言のようにこぼした言葉に、自嘲めいた笑みが混じる。だがその目には、確かな誇りが宿っていた。
ナイフ、怒声、地面の熱、血の味。
あのすべてが、自分の骨の中に刻まれている。
「ババァ、初回から三本同時投げはないだろ……」
「うるせぇ! 戦場で“初回”なんて誰がくれるんだ!」
──声が、記憶の中で笑いに変わる。
理不尽な訓練だった。けれど、あの不器用な教えが、何よりまっすぐだったことを、今なら分かる。
──気絶した自分の足を、黙って包帯で巻き直してくれたことがあった。
「……見た目は飄々、性格は最悪、でも……あれでも、気にかけてくれてたんだろうな」
自分の戦い方を否定せず、「使えるものは何でも使え」と真正面から向き合ってくれたあの人。
不器用な優しさが、そこにはあった。
ユリナの病が教えたのは、無力さ。
カレンの修行が教えたのは、弱さ。
どちらも、今を支える礎だった。
矢筒を背負い、アルドはセイルの家へと歩を進めた。
軋む音もなく、扉がふわりと開く。わずかな魔力が合図となり、彼を迎え入れる。
「おかえり、アルド。今日もいい顔してるね。弓、調子よかったんでしょ?」
ユリナが笑顔で迎える。椅子に座ったまま、ティーカップがふわりと浮き、魔法で注がれていく。
今、彼女の足は動かない。だが魔法で家のことをこなし、静かに日々を生きている。
「ノアが言ってたの。『口が動けば、世界を動かせる』って。かっこいいよね?」
そう言う頬にはわずかに色が戻っていたが、それが魔力循環の成果であることをアルドは知っていた。
「火と風の術式も、少し覚えたんだ。頭でっかちって言われたけど、私、こういうの好き。だって、魔法なら想像だけでどこにだって行けるから」
窓の向こう、森を見つめる目には、確かな自由が宿っていた。
キッチンからはパンの焼ける香りが漂い、エリノアが皿を並べている。
リオンは黙って席につき、もう一つの席だけが空いていた。
「セイルは?」
「夜明け前に出てったよ。またガリオンさんのところ。あの調子じゃ、剣と一緒に寝てそう」
「セイルらしいわね」
エリノアが笑う。その声には、ほんのり寂しさが滲んでいた。
食卓には三人。ユリナは魔法で食器を運ぶ。浮かぶカップの音は、もはや日常の一部だった。
「お兄ちゃん、ちょっと最近うるさいの」
ユリナが頬をふくらませる。
「魔力の使いすぎだとか、この部屋に一人でいて大丈夫かとか……ノアに習ってるって言ってるのに」
優しさゆえの過保護。だが、そんなやりとりを楽しんでいる様子がうかがえた。
「アルドは何も言わないのね」
エリノアの問いに、アルドは蜂蜜の壺を見つめたまま答える。
「ユリナが“やってる”なら、それを信じるよ」
その一言に、ユリナは少し目を見開いて、ふっと力を抜いた。
「やっぱり、アルドって変なとこで優しいんだよね」
「変って言うなよ」
「でも変。だって、魔法も弓も、世界すら“できる”って前提で動いてるでしょ?」
「できるかどうかじゃない。“できるとして考える”だけだ」
そのやり取りに、リオンが小さく笑った。
「カレンに似てきたな」
アルドは微妙な表情で顔をしかめる。エリノアはそれを見て、やさしく微笑んだ。
「そうだ、ティナが果物持ってきてくれたわよ」
「朝ふらっと来て、そっと置いてくの。まるで忍びみたい」
「斥候だからな」
アルドの言葉に、ユリナはくすっと笑った。
静かに、だが確かに、時間は流れていく。
この部屋の“静けさ”は、かつての賑やかさとは違うものだ。
だが、それでも──
「そろそろ学校に行かないと遅刻するわよ」
エリノアが時計を見て促す。
リオンは静かに席を立ち、支度を始めた。
「今日は早いんだね?」
「もうすぐ日食だ。島外からの隊が戻る時期だし、準備が必要でな」
「黒樹団」──一年に一度、外の世界と接触する者たち。今年は、何かが違う。
風の匂いが、空の色が、それを告げている。
アルドはそれを肌で感じていた。島の“風向き”が、確かに変わろうとしている。
長く火の消えたこの家に、わずかでも温もりが戻ったとき──
それはきっと、新しい物語が動き出す合図だった。
「また、新しい話、聞かせてね」
背後からユリナの声が届く。やさしく、ほんの少しだけ寂しげな声。
「ああ。わかってる」
アルドは短く応え、静かに一歩を踏み出した。
「行ってらっしゃい」と、二人の声が重なる。
その声を背に、彼は歩き出した。
過去を越えるために。
――そして、未来を手に入れるために。