第16話「剣と父と」
朝露の残る訓練場に、乾いた風が吹き抜ける。
まだ誰も来ていない土の地面には、剣筋の跡が幾重にも刻まれていた。
その中心に、セイルはいた。
沈黙の中、ただ素振りを繰り返す。
動きは無駄がなく、呼吸は静か。
刀の軌道は澱みなく、打ち下ろすたびに地面の空気を裂いていった。
――ユリナのことを、ちゃんと見ていなかった。
――彼女の気持ちから、目を逸らしていた。
気づいたその夜から、彼の中で何かが変わった。
甘さも迷いも、剣に映るのだと、ようやく思い知った。
「……随分、らしくなったじゃないか」
低く、乾いた声が背後から届いた。
振り返ると、そこに立っていたのは父――リオンだった。
「父さん……」
リオンはゆっくりと歩み寄ると、腰の剣に手をかけた。
「構えろ、セイル」
ただ一言、有無言わせない一言
その顔には、淡い笑みも、優しさもない。ただの戦士の目だった。
セイルは一瞬、目を見開いた。
だが、すぐに剣を構えた。
二人の間に、風が吹いた。
次の瞬間、リオンの体が音もなく動いた。
疾風のような踏み込みと、鋭い一閃。
っ……!」
セイルはとっさに受けに回るが、重い衝撃に腕ごと弾かれる。
踏ん張る前に体勢を崩し、背中から地面に倒れた。
「――立て。まだ始まったばかりだ」
声に叱責の色はない。
ただ、淡々と事実を告げる声。
セイルは唇を噛みしめ、土を払って立ち上がる。
リオンは構えたまま、微動だにせず待っていた。
その姿を見て、セイルの中で何かが灯る。
(これが……本当の剣の稽古だ)
もう、誰かの息子として守られている時間じゃない。
自分が守るために、支えるために剣を握るのだ。
「お願いします、もう一度!」
叫ぶように言い、再び踏み出した。
父に――一太刀でも近づくために。
何度倒されても、セイルは立ち上がった。
腕は痺れ、足は震え、呼吸は荒れている。
それでも、心は折れていなかった。
リオンの剣は容赦がない。
踏み込み、打ち込み、回避、反撃――どれも無駄がない。
それでいて、「本気」ではないことがわかるからこそ、歯痒さがこみ上げてくる。
(まだだ……こんなんじゃ……)
拳を握り直す。
「――っは!」
踏み込む。低く構えて、剣をひねるように繰り出す。
リオンは軽く受ける――だが、次の瞬間。
「甘い」
リオンの一撃が、空気ごとセイルの肩口をかすめた。
わずかな出血。けれど、セイルは顔色一つ変えず踏みとどまる。
リオンの瞳が細くなった。
(目が変わったな、セイル。……ようやく、“斬る側”に立つ覚悟ができたか)
剣士としての視線で、リオンは冷静に息子を見つめる。
剣の道とは、他者の命に踏み込むこと。
それを理解せずに振るう者は、仲間を危険に晒すだけの存在になる。
(ここで見極める)
次の瞬間、リオンは一歩深く踏み込んだ。
殺気が変わった。
「……!」
セイルは咄嗟に反応した――いや、反応するしかなかった。
守るより先に、回避より先に、剣を前へ出した。
打ち合い。火花が散る。
衝撃に手がしびれる。それでも、足は止まらない。
受け、押し、跳ね返され、それでも踏み込む。
打ち込むたびに、セイルの剣から「迷い」が削げ落ちていた。
恐れはあっても、引く理由がない。
「ッッ……!」
最後の一撃。
リオンはセイルの一撃を受け止めた。
だが、その一振りは、今までで一番重かった。
沈黙。
風が吹き抜ける。
リオンが、ふっと息を吐いた。
「なるほどな……これなら、預けられるか」
セイルは荒い息のまま、剣を下ろした。
全身が汗で濡れ、膝が笑っている。それでも、顔は真っ直ぐだった。
リオンは静かに剣を納めた。
「俺じゃお前を教えられない」
セイルが目を見開く。
「俺だと親としてどこかで加減してしまう。それは、一番危険なことだ……半端は一番危険だ。そうだろ?」
「親だからこそ、本気になりきれない。だがそれは……お前を殺すかもしれない甘さだ」
少しだけ口元をゆるめて、リオンは続けた。
「今のお前には、俺みたいな加減する奴じゃなくて、容赦ない地獄をくれる奴が必要だ」
「ついてこい。お前に剣を教えるのは、あの方が適任だ」
セイルの背筋に、冷たい緊張が走る。
蒼天の下、ルークの家の訓練場から剣戟の音が響いていた。
大人でも顔をしかめるような重さの訓練用の鉄剣が打ち合わされ、土煙が舞い上がる。鋭い踏み込みと、素早い戻し。力任せではない、確かな「経験」の裏打ちを感じさせる動きだ。
剣を交えているのは、ルーク。そしてその対面に立つ老戦士の姿があった。
銀混じりの短髪に、深く刻まれた眉間の皺。その動きからは、年齢を感じさせない鋭さがあった。
元・黒樹団副団長──ガリオン。
ルークの祖父にして、今もなお“現役時代の強さ”を保ち続ける稀有な剣士。
「そこだ!」
ルークの剣が一瞬早く伸びる。だが、老練なガリオンは身体を斜めにずらし、最小の動きで剣先を躱した。
「ふむ。悪くはない。だが、お前は相手の出方を見すぎる。攻めの剣とはそういうものではないぞ、ルーク」
ルークは悔しそうに唇を噛むが、すぐに深く息を吐いた。
「……はい、じいちゃん」
その様子を、少し離れた場所からセイル達が見つめていた。
彼の手には、自分の剣がある。リオンに鍛えられ、己の弱さと向き合い、ようやくその刃に“覚悟”という重みを込められるようになった――そんな実感が、ようやく芽生え始めていた。
「来たか、リオン」
訓練を終えたガリオンが額の汗をぬぐいながら声をかけてくる。
「ご無沙汰しております。ガリオンさん
以前話していました息子のセイルです。
セイル挨拶しなさい。」
「はじめまして、セイルです。よろしくお願いします。」
そう言ってセイルは深く頭を下げた。
セイルの声に、ガリオンがゆっくりとこちらを向いた。片目は戦場で潰されていて、片方の眼光はなおも鋭く生きていた。
「お前が、リオンの息子か。……ジークやギルバートと共に戦ったあの頃が懐かしいな」
「じいちゃん、セイルを試すつもり?」
「試すも何も、覚悟のない者に剣を教える気はない。それだけだ」
ガリオンは短く言い放ち、足元に転がっていた訓練剣をセイルの前へ蹴り出した。
「拾え。そして、打ち合え。それが“剣の礼儀”だ」
セイルは目を細め、剣を拾い上げた。
「油断するなよセイル、最初っから全力でいけ!」
ルークが、声をかける
それを合図に訓練場の空気が、ぴたりと止まった。
数呼吸。
セイルは腰を落とし、集中を極限まで高めていた。
対するガリオンは、無駄な動きを一切せず、ただ静かに剣を構えている。
その構えには隙がない。老いてなお、戦場に立つ者の気配。
セイルは小さく息を吐き、地を蹴った。
一歩。
間合いに踏み込んだ瞬間、ガリオンの剣が唸りを上げて振るわれた。
その斬撃は、容赦のない速さと重さを持っていた。
(速い――!)
髪一重でかわしながらも、セイルは右へ回り込み、鋭く斬り返す。
だがその剣は、またしても受け止められた。
鉄と鉄がぶつかる音が響き、振動が腕を通して脳天まで突き抜ける。
リオンが静かに見守るなか、二人の剣が交錯する。
「……リオンの剣だな。だが――まだだ」
淡々と告げるガリオン。
その声に、セイルは奥歯を噛み締めた。
体が重い。指先は痺れ、呼吸は熱を持って荒れる。
だが――退かない。むしろ、歩を進める。
剣を握るその手に、もう迷いはなかった。
「それでも、俺は……!」
叫びと共に踏み込み、セイルは打ち込んだ。
正面、左下、右肩――立て続けに三連撃。ガリオンは無駄のない動きで全て受け止める。
剣と剣がぶつかるたび、火花が飛び散る。
だが、ガリオンの目は厳しかった。
(単調だ。リズムも読みやすい。何より、“間”が浅い)
次の瞬間、ガリオンが足をずらす。重心を崩さず、逆手に取るように一撃を返す。セイルの脇を鋭く狙った斬撃。
セイルは反応した。即座に体を捻り、寸前で刃を外に逸らす。
「ほう……今の、見えたか」
ガリオンの目が細まる。動きが変わった。
それまでの“教え導く型”から、“見極める型”へと移行する。
斬りかかる角度、回避の猶予、突きの鋭さ――すべてが一段階、研ぎ澄まされた。
セイルは必死に応じた。だが、ただ守るだけではない。
相手の呼吸、構えの重心、足の踏み替え――それらを、意識ではなく「体」が掴み始めていた。
ひと太刀、またひと太刀。
斬り結びながら、セイルの剣がわずかに速く、深くなっていく。
(動きが変わった……重ねてきた型ではなく、相手を見て剣を振っている)
ガリオンが気づく。その目に、かすかな驚きが宿った。
セイルは踏み込む。
フェイント。空斬り。間合いを崩すような半歩。
そして――渾身の踏み込み。
──ガン!
ガリオンの訓練剣が、セイルの一撃を正面で受け止めた。
今度は、動かなかった。押されても、退かなかった。
互いの剣が押し合い、激しく火花が散る。
その瞬間、ガリオンの目が静かに見開かれる。
セイルの瞳が、まっすぐ自分を見据えていた。
そこに映っているのは、畏れでも敬意でもない。
ただ、己が信じる剣で立つ、一人の剣士としての覚悟。
その気迫に、ガリオンの表情がわずかに動いた。
「……その目だ。“剣を持つ者”になったな」
訓練剣を引き、軽く肩に担ぐと、背筋を伸ばす。
「俺が見たかったのは、それだけだ。構えの型でも、動きの正確さでもない。――お前の“意志”が剣に宿るかどうかだった」
セイルは剣を構えたまま、息を切らしつつ動かない。
だが、確かに感じていた。ガリオンの目が、先ほどまでとは違うものになっていたことを。
それは――認めた者に向ける、目だった。
静かに歩み寄るリオンの顔には、かつての厳しさではなく、淡い誇らしさがあった。
ゆっくりと剣を収めたガリオンは静かに言った。
「……よく来たな、セイル。リオンの息子としてではなく、“剣士”として」
セイルの胸の奥で、何かが震えた。
「お前には剣の才能がある。だが、それ以上に必要なのは、覚悟だ。それを、今見せた」
リオンが無言で見守っている。どこか安堵の表情を浮かべながら、深く頷いた。
ガリオンはセイルの肩を軽く叩いた。
「これより、お前を“教え子”として扱う。……だが勘違いするな。情け容赦はしない。俺の訓練は、戦場で生きるためのものだ」
「……望むところです」
セイルは疲れた顔のまま、はっきりと答えた。
「この剣で、守りたい人たちがいる。だから、強くなりたい」
その言葉に、ガリオンは小さく笑った。
リオンの視線が、ガリオンへ向けられる。
老戦士は鼻を鳴らした。
「言ったとおりだ。“剣士”として扱う。斃れても俺のせいにはするな」
リオンは静かに頷いた。
「それでいいです。剣を学びに来たんです。なら、命を懸けるのは当然です。」
その言葉に、ガリオンの口元がごくわずかに綻んだ。
「では始めよう、セイル。お前が“剣士”になるための第一歩を」
剣を握る手に、迷いはなかった。
命を懸けてでも得たいものがある――そんな少年たちの目だった
争いのあとに残ったのは、痛みだけじゃなかった。
小さな誤解。ぶつかり合う正しさ。届かぬ想い。
それでも、アルドも、セイルも、前に進むことを選んだ。
誰もが、自分の信じるやり方で。
これは、まだ始まったばかりの物語。
未来へと続く、たった一度きりの――過去の選択。
第1章 島の日常と少年たち
ー〈完〉ー