第15話「祈りと火種」
アルドがカレンに弟子入りして、ひと月ほどが過ぎた。
毎朝早くから訓練に出かけ、夜遅くにぼろぼろの姿で帰ってくる──そんな日々が続いていた。
最初のうちは、エリノアが心配して何度も止めようとした。だが、リオンとアルドが真剣に説得したことで、今では彼女も穏やかに帰りを待つようになった。
一方、ユリナの病が始まってからというもの、セイルの家の空気はがらりと変わった。
以前は笑い声が絶えなかった家が、今では静けさに包まれ、重たい空気が漂っている。
陽の光が窓から差し込む午後。
ユリナは窓辺の椅子に腰掛けていた。
細い指先が、一頁ずつゆっくりと本をめくる。けれど、その瞳は文字を追っていなかった。
森の木々の向こうから、鳥たちのさえずりが微かに届く。
それに混じって、草を踏みしめる足音がふたつ、こちらに近づいてきた。
「ユリナ、いるか?」
扉の向こうから、聞き慣れた声がした。
「……開いてるよ」
少し力のない声で応えると、そっと扉が開いた。
入ってきたのはアルドとティナだった。外套の裾には、森の草の種がいくつも付いている。斥候訓練の帰りらしかった。
「森の果物。訓練のついでに拾ってきたよ」
ティナがそう言って、手提げ籠をテーブルに置いた。赤や黄色に熟した果実が、陽の光を受けて美しく輝く。
「ありがとう、ティナ。……アルドも、この時間に来るなんて珍しいね」
ユリナが視線を向けると、アルドは静かに答えた。
「今日は師匠が“魔の森”の任務で留守なんだ。2、3日は訓練も休みになった。」
彼の腰には、銀色の懐中時計が下がっていた。
それは、あの日以来ずっと、彼が手放さず身につけているものだった。
「今日はもう、少し歩いたの?」ティナが優しく尋ねる。
「うん、少しだけ。でも……」
ユリナは言葉を濁し、机の上の本に視線を落とした。
それは古びた祈祷書だった。繰り返し読まれた痕跡があり、ページの隅は擦り切れている。
アルドは、擦り切れたページを一瞥して、息を呑んだ。それでも、こみ上げた苛立ちを止められなかった。
「……また祈ってるのか」
彼は肩をすくめ、眉をひそめた。
ユリナは微かに微笑んだ。
病名を告げられてから、祈りは彼女の日課になっていた。
「祈るの、好きなの」
「好きでやってるならいい。でも……」
アルドは、ユリナの目を見据えて続けた。
「祈っても意味なんかない。足が動かないなら、動かせるものを使えよ。頭とか、言葉とかさ」
ユリナの指が、かすかに震えた。けれど返す言葉はなかった。
部屋の空気が、ひんやりと凍りついていく。
──その時だった。
「アルド!」
怒声が響いた。扉の外から、セイルが飛び込んできた。
目には怒りが宿り、アルドの肩を掴んで激しく詰め寄る。
「今のお前の言葉……どれだけユリナが傷ついたかわかってんのか!」
「事実を言っただけだ。希望を捨てろとは言ってない。けど──」
「だったらもっと、言い方ってもんがあるだろ!」
セイルが語気を強める。アルドも顔をしかめ、言い返した。
「お前のが過保護なんだよ。現実から目を背けさせて、守ったつもりか? それであいつが前に進めると思うか?」
言葉がぶつかり合い、空気が激しく揺れる。
セイルがアルドを軽く突き飛ばすと、アルドも負けじと押し返した。
拳は出ない。だが、それ以上に強く、心の怒りがぶつかっていた。
──そして、それを止めたのは、少女の叫びだった。
「うるさいっ!!」
声を震わせ、涙を隠さず怒るユリナ。
「どっちも……うるさい……お願いだから、私の前で喧嘩しないで……」
セイルもアルドも、咄嗟に言葉を失った。
張り詰めていた空気が、ゆっくりと沈んでいく。
ティナは黙って視線を逸らし、果物をひとつ取り出して、ユリナの膝にそっと置いた。
「……冷える前に、食べよ。今日の、甘かったよ」
ユリナは小さく頷き、果物に指を添えた。
セイルはアルドの肩から手を離し、静かに後ろへ下がる。
アルドも何か言いかけたが、喉の奥で言葉を呑んだ。
──それぞれの胸に、火種だけを残して。
静寂が、再び部屋を満たしていった。
ユリナの部屋を後にしてまもなく、ティナはひとりで引き返していた。
ふたりの言い争いのあと、ユリナの表情が頭から離れなかった。
──あの笑顔は、無理して作ってた。
再び扉をノックすると、すぐに「どうぞ」と、か細い声が返ってきた。
部屋に入ると、ユリナはまだ窓辺に座っていた。果物は手つかずのまま、膝の上に置かれている。
「……まだ、食べてなかったの?」
「うん……ちょっと、胸がつかえてて」
ティナは静かに彼女の隣に腰を下ろす。風に揺れるカーテンの音だけが、ふたりの間に流れていた。
「ごめんね。さっきは……私も、何も言えなくて」
「ううん。来てくれて嬉しいよ、ティナ」
ユリナは、弱々しく微笑んだ。
「私ね、アルドの言葉、少しだけわかるの」
「え?」
ティナが驚くと、ユリナは目を伏せながら続けた。
「今のままじゃダメだって……思ってる。でも、あんなふうに言われたら、やっぱり……つらいよ」
ティナはそっと、彼女の手を握った。冷たくて、細い指だった。
「……ユリナ」
「でもね、お兄ちゃんの優しさも、ちゃんとわかってるの。守ろうとしてくれてることも。でも、動けなくなった私をずっと腫れ物みたいに扱って……それが一番つらかったの。何もできないまま、守られてるだけじゃ、嫌なの」
ティナは息を呑む。
「だからね、私……魔法を学びたいの」
「……え?」
「もう剣も振れないし、遠くへ行くこともできない。でも、この場所で……私なりに、誰かの力になりたいの。この目で、世界のことを知りたい。この手で、少しでも守れる方法を、知りたいの」
その瞳には、小さくも確かな、炎のような光が宿っていた。
「……だったら」
ティナはすっと立ち上がる。
「最適なやつ、知ってる。待ってて──すぐ連れてくるから!」
そう言って、風のように窓から駆け出していった。
「魔法の勉強?」
ノアは目を丸くした。図書館で本を読んでいたところを、ティナに突然引っ張り出されたのだ。
「うん。ユリナが自分から言い出した。魔法を学びたいって」
「……そっか。それは──いいと思う」
ノアの顔に、穏やかな笑みが浮かんだ。
「僕でよければ、いくらでも教えるよ。彼女、記憶力も論理もあるし、きっと才能もある」
「うん、ありがとう。きっと、ユリナ……それが支えになる」
ティナはふと立ち止まり、振り返った。
「ねえ、ノア。もう一つ、お願いがあるの」
「うん?」
「……アルドとセイルのこと。ユリナ、すごく気にしてる。ふたりとも大事だって、泣きながら言ってた。だから……このまま放っておきたくない」
ノアは少し考えた後、頷いた。
「誰かが、間に入らないとね。──うん、こういうときに一番頼りになる人、いるよ」
ノアに会った後、ティナはもう一人の人物を訪ねた。
その後、ティナが向かったのは、高台の丘だった。
木の枝に腰掛け、本を読んでいたレイラが、気配に気づいて顔を上げた。
「……どうしたの? そんな顔して」
「レイラ……お願いがあるの」
ティナは真っ直ぐに、彼女を見つめる。
「さっき、バカ二人がユリナの前で言い合って、ユリナを傷つけた……でも、ふたりともぶつかったままで止まってる。本当は、お互いを想ってるのに、言葉にできないだけで……」
「……あのふたり、意地っ張りだからね」
レイラは小さく息をついて、本を閉じた。
「しょうがないな……ほんとに、心配かけるんだから……わかった。任せて」
「本当に?」
「大丈夫。あのふたり、どれだけぶつかっても、最後にはちゃんと並んで歩ける。──私は信じてるよ」
ティナはほっとしたように笑みを浮かべ、深く頭を下げた。
──日が西に傾き、訓練場には長い影が伸びていた。
木剣が交わる音が、土の匂いとともに風に溶けていく。
その隅で、アルドは黙々と、的に矢を放ち続けていた。
トン──
矢は空気を切り、中心から少し外れた場所に突き刺さる。
「……甘い」
アルドは小さく呟いて、矢筒から次の矢を抜いた。
深く吸い込み、吐く。照準を定め、放つ──。
今度は中心をかすめたが、まだ芯を捉えきれていない。
ほんのわずか、心が迷った。
「集中してないね」
不意に、声がした。振り返ると、そこに立っていたのはレイラだった。
「……何しに来た」
「ちょっとしたお節介。って言っても、今回はあたしの判断じゃないよ。ティナとノアが頼んできたの」
アルドは視線を的に戻す。だが、次の矢をつがえる手が止まっていた。
「喧嘩すること自体は、悪いことじゃない。でも、引きずるのはよくない。とくに、ユリナの前でやったなら、尚更」
「……わかってる」
その声には、明確な苛立ちも怒気もなかった。ただ、どこか乾いた、無力感のようなものが滲んでいた。
「俺だって、心配してるよ。でも……」
矢を握る手に、少し力が入る。
「誰も何もしようとしないまま、ただ祈ってるだけで、状況がよくなるわけじゃない。俺は、それが……許せないんだ」
レイラは静かに聞いていた。やがて、少しだけ微笑む。
「……それなら、ちゃんと伝えなきゃ。アルド、あなたは“できることをしろ”って言った。でも、ユリナ自身が言いたかったこともあると思うよ」
アルドの手が止まったまま、言葉を失う。
「セイルにも同じ。守りたくて、怖くて、でも何が正しいか分からなくて、ああするしかなかった。……ふたりとも、不器用なんだよ」
ふっとレイラが視線を空に向けた。
「だからね、あなたとセイルがもう一度ちゃんと向き合わないと…それで、最後に決めるのはあなたたち」
アルドはしばらく黙っていたが、やがて弓を下ろし、深く息を吐いた。
「……悪かった、レイラ。……、ありがとう」
レイラはいたずらっぽく笑って見せる。
「感謝はいいけど、その顔のまま行ったら台無しだからね。ちゃんと冷やしてから行きなよ」
⸻
一方その頃。
セイルは屋敷の裏庭で、一人剣の型を振っていた。
重く沈んだ心を振り払うように、汗を飛ばし、何度も何度も剣を振る。
「セイル」
背後から声をかけられ、彼は剣を止めた。
振り返ると、そこにいたのはノアだった。
「ノア……何か用か?」
「少しだけ、話があるんだ。大事なこと」
ノアは真剣な面持ちで近づき、手にしていた小さな箱を差し出す。
「これは……?」
「魔法の写本だよ。ユリナが長く読んでいたやつを、新しく書き写してあげた。ページがぼろぼろだったから……でも、ただの写しじゃない。彼女のために、特別な註釈をいくつか加えたんだ」
セイルは目を見開いた。
「……ユリナが?」
「うん。自分の“今”を記しておきたいって。ユリナ、自分で歩こうとしてる。……だから、セイルたちも止まっちゃダメなんだ」
ノアの言葉は、まるで春先の風のように静かで温かく、しかし芯に届く鋭さを持っていた。
「……僕はどうすればよかったのかな」
セイルの声は震えていた。
「守りたいって気持ちは、本当なんだ。ただ、それがユリナの足を縛ってたなら……僕は……」
「なら、今からは“支える”ことを考えてみればいいんじゃない。守るのは、その先だよ」
ノアは穏やかに微笑み、背を向けて去っていった。
夕日が、彼の影を長く引き伸ばしていた。
⸻
夕暮れの小道。
セイルがひとり歩いていた。拳を握り締めたまま、何かを呑み込もうとするような沈黙。
「……セイル」
後ろから声が聞こえた。セイルは立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。
その表情に、もう怒りはなかった。ただ、少しだけ疲れたような、悲しげな目。
「…アルドか」
「話がしたい。ユリナのこと……お前のこと、俺のこと。ちゃんと話したいんだ」
沈黙が流れた。
風が、葉を揺らす音だけが聞こえる。
「……俺、ユリナに言った言葉、あれは……」
「いや」
セイルが首を横に振った。
「アルドが間違ってたんじゃない。……僕も、ユリナも、みんな、正しかったんだ。正しくて……すれ違っただけなんだ」
その声には、苦笑すら滲んでいた。
「アルドの言葉、ユリナはちゃんと受け止めてたよ。でも、受け止められるまでに時間がかかるだけなんだ。……人って、そういうもんだから」
アルドは小さくうなずいた。
「……ありがとな」
セイルは、ふっと肩の力を抜いた。
「礼を言うのは、僕のほうだ。……アルドが言ってくれなきゃ、ユリナの中の火は消えてたかもしれない。悔しいけど、あの言葉が、あいつの背中を押したんだと思う」
「……そっか」
言葉を交わし、視線が交差する。
互いの中の怒りと悔しさが、少しずつ溶けていくのが分かった。
そして──
「…ユリナに謝りに行かないとな」
「うん、二人一緒に行かないとね」
ふたりは、ほんの少しだけ笑った。
その夜、アルドとセイルはユリナの家を訪れた。
扉の奥からかすかに「どうぞ」と声がして、ふたりはそっと中に入る。
灯りのともる部屋の奥、ユリナはベッドに横たわっていた。だが、その目はしっかりと二人を見据えていた。
「……来てくれたんだね」
「……ああ」
アルドが小さく頷き、椅子を引いて座る。
セイルは少し迷ってから、ユリナの向かいに腰を下ろした。
しばしの沈黙。けれど、それは拒絶ではなかった。
「この前は……悪かった」
アルドが口を開いた。
「言い方がきつかった。お前の気持ちも、ちゃんと考えずに……」
ユリナは首を振り、微笑を浮かべる。
「ううん。私も、黙ってたのが悪かった。……でもね、私、魔法を学びたいって思ってるの」
「ティナから聞いたよ」
とアルドが返す。
「びっくりした?」
「いや。むしろ、嬉しかった。止まらずに前を見てる。それが、お前らしいと思った」
ユリナの目に、静かな涙が浮かぶ。だが、笑顔は崩れなかった。
「私、もう剣は握れないし、遠くに行くこともできない。けど……この場所で、私にできる何かがあるなら、それが私の戦い方だと思うの」
その言葉を聞いたセイルが、ゆっくりと顔を上げた。
「……俺さ、怖かったんだと思う」
不器用に、けれど真っ直ぐに言葉をつむぐ。
「お前が苦しむのを見るのが。だから、話を聞かずに、自分で勝手に線を引いて……お前を、閉じ込めてたのは、俺の方だった」
ユリナの目が揺れた。
「……ノアに言われたの。“セイルは、優しさのフリして逃げてるだけ”って。最初は悔しかった。でも、今はわかる。ずっと、寂しかったよ。お兄ちゃんが遠くなった気がしてた」
「ごめん……ユリナ」
セイルの手が、ためらいがちに伸びる。
ユリナはそっとその手を取った。かすかに震えていたが、握る力は確かだった。
「ありがとう。話してくれて、嬉しいよ」
アルドはその様子を見て、言葉を添える。
「……戦い方は、ひとつじゃない。誰かのそばに立って、支えることもそうだし、こうして、ちゃんと向き合うことも──全部、同じくらい強い」
三人の間に、静かで温かな沈黙が流れた。
その翌日から、ユリナの新しい日々が始まった。
ノアのもとで、魔法の基本を学びながら──
文字を覚え、力の流れを感じる練習を繰り返し、時折ミスして笑い合い、少しずつできることが増えていった。
ティナやレイラも、そっとその背中を見守っていた。
島の空には、雨の終わりを告げる風が吹いていた。
それは、ほんの少し前まで凍っていた心を、ゆっくりと溶かしていくような、優しい風だった。