表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
セファルディア〜滅びと継ぐもの達〜  作者: YUKI
第1章 島の日常と少年たち
16/18

第15話「祈りと火種」

 アルドがカレンに弟子入りして、ひと月ほどが過ぎた。

 毎朝早くから訓練に出かけ、夜遅くにぼろぼろの姿で帰ってくる──そんな日々が続いていた。


 最初のうちは、エリノアが心配して何度も止めようとした。だが、リオンとアルドが真剣に説得したことで、今では彼女も穏やかに帰りを待つようになった。


 一方、ユリナの病が始まってからというもの、セイルの家の空気はがらりと変わった。

 以前は笑い声が絶えなかった家が、今では静けさに包まれ、重たい空気が漂っている。


 陽の光が窓から差し込む午後。

 ユリナは窓辺の椅子に腰掛けていた。


 細い指先が、一頁ずつゆっくりと本をめくる。けれど、その瞳は文字を追っていなかった。


 森の木々の向こうから、鳥たちのさえずりが微かに届く。

 それに混じって、草を踏みしめる足音がふたつ、こちらに近づいてきた。


 「ユリナ、いるか?」


 扉の向こうから、聞き慣れた声がした。


 「……開いてるよ」


 少し力のない声で応えると、そっと扉が開いた。

 入ってきたのはアルドとティナだった。外套の裾には、森の草の種がいくつも付いている。斥候訓練の帰りらしかった。


 「森の果物。訓練のついでに拾ってきたよ」

 ティナがそう言って、手提げ籠をテーブルに置いた。赤や黄色に熟した果実が、陽の光を受けて美しく輝く。


 「ありがとう、ティナ。……アルドも、この時間に来るなんて珍しいね」


 ユリナが視線を向けると、アルドは静かに答えた。


 「今日は師匠が“魔の森”の任務で留守なんだ。2、3日は訓練も休みになった。」


 彼の腰には、銀色の懐中時計が下がっていた。

 それは、あの日以来ずっと、彼が手放さず身につけているものだった。


 「今日はもう、少し歩いたの?」ティナが優しく尋ねる。


 「うん、少しだけ。でも……」


 ユリナは言葉を濁し、机の上の本に視線を落とした。

 それは古びた祈祷書だった。繰り返し読まれた痕跡があり、ページの隅は擦り切れている。


 アルドは、擦り切れたページを一瞥して、息を呑んだ。それでも、こみ上げた苛立ちを止められなかった。


 「……また祈ってるのか」


 彼は肩をすくめ、眉をひそめた。


ユリナは微かに微笑んだ。

 病名を告げられてから、祈りは彼女の日課になっていた。


 「祈るの、好きなの」


 「好きでやってるならいい。でも……」


 アルドは、ユリナの目を見据えて続けた。


 「祈っても意味なんかない。足が動かないなら、動かせるものを使えよ。頭とか、言葉とかさ」


 ユリナの指が、かすかに震えた。けれど返す言葉はなかった。


 部屋の空気が、ひんやりと凍りついていく。


 ──その時だった。


 「アルド!」


 怒声が響いた。扉の外から、セイルが飛び込んできた。

 目には怒りが宿り、アルドの肩を掴んで激しく詰め寄る。


 「今のお前の言葉……どれだけユリナが傷ついたかわかってんのか!」


 「事実を言っただけだ。希望を捨てろとは言ってない。けど──」


 「だったらもっと、言い方ってもんがあるだろ!」


セイルが語気を強める。アルドも顔をしかめ、言い返した。


 「お前のが過保護なんだよ。現実から目を背けさせて、守ったつもりか? それであいつが前に進めると思うか?」


 言葉がぶつかり合い、空気が激しく揺れる。

 セイルがアルドを軽く突き飛ばすと、アルドも負けじと押し返した。

 拳は出ない。だが、それ以上に強く、心の怒りがぶつかっていた。


 ──そして、それを止めたのは、少女の叫びだった。


 「うるさいっ!!」


 声を震わせ、涙を隠さず怒るユリナ。


 「どっちも……うるさい……お願いだから、私の前で喧嘩しないで……」


 セイルもアルドも、咄嗟に言葉を失った。


 張り詰めていた空気が、ゆっくりと沈んでいく。


 ティナは黙って視線を逸らし、果物をひとつ取り出して、ユリナの膝にそっと置いた。


 「……冷える前に、食べよ。今日の、甘かったよ」


 ユリナは小さく頷き、果物に指を添えた。

 セイルはアルドの肩から手を離し、静かに後ろへ下がる。

 アルドも何か言いかけたが、喉の奥で言葉を呑んだ。


 ──それぞれの胸に、火種だけを残して。

 静寂が、再び部屋を満たしていった。


ユリナの部屋を後にしてまもなく、ティナはひとりで引き返していた。


 ふたりの言い争いのあと、ユリナの表情が頭から離れなかった。


 ──あの笑顔は、無理して作ってた。


 再び扉をノックすると、すぐに「どうぞ」と、か細い声が返ってきた。


 部屋に入ると、ユリナはまだ窓辺に座っていた。果物は手つかずのまま、膝の上に置かれている。


 「……まだ、食べてなかったの?」


 「うん……ちょっと、胸がつかえてて」


 ティナは静かに彼女の隣に腰を下ろす。風に揺れるカーテンの音だけが、ふたりの間に流れていた。


 「ごめんね。さっきは……私も、何も言えなくて」


 「ううん。来てくれて嬉しいよ、ティナ」


 ユリナは、弱々しく微笑んだ。


 「私ね、アルドの言葉、少しだけわかるの」


 「え?」


 ティナが驚くと、ユリナは目を伏せながら続けた。


 「今のままじゃダメだって……思ってる。でも、あんなふうに言われたら、やっぱり……つらいよ」


 ティナはそっと、彼女の手を握った。冷たくて、細い指だった。


 「……ユリナ」


 「でもね、お兄ちゃんの優しさも、ちゃんとわかってるの。守ろうとしてくれてることも。でも、動けなくなった私をずっと腫れ物みたいに扱って……それが一番つらかったの。何もできないまま、守られてるだけじゃ、嫌なの」


 ティナは息を呑む。


 「だからね、私……魔法を学びたいの」


 「……え?」


 「もう剣も振れないし、遠くへ行くこともできない。でも、この場所で……私なりに、誰かの力になりたいの。この目で、世界のことを知りたい。この手で、少しでも守れる方法を、知りたいの」


 その瞳には、小さくも確かな、炎のような光が宿っていた。


 「……だったら」


 ティナはすっと立ち上がる。


 「最適なやつ、知ってる。待ってて──すぐ連れてくるから!」


 そう言って、風のように窓から駆け出していった。 

 「魔法の勉強?」


 ノアは目を丸くした。図書館で本を読んでいたところを、ティナに突然引っ張り出されたのだ。


 「うん。ユリナが自分から言い出した。魔法を学びたいって」


 「……そっか。それは──いいと思う」


 ノアの顔に、穏やかな笑みが浮かんだ。


 「僕でよければ、いくらでも教えるよ。彼女、記憶力も論理もあるし、きっと才能もある」


 「うん、ありがとう。きっと、ユリナ……それが支えになる」


 ティナはふと立ち止まり、振り返った。


 「ねえ、ノア。もう一つ、お願いがあるの」


 「うん?」


 「……アルドとセイルのこと。ユリナ、すごく気にしてる。ふたりとも大事だって、泣きながら言ってた。だから……このまま放っておきたくない」


 ノアは少し考えた後、頷いた。


 「誰かが、間に入らないとね。──うん、こういうときに一番頼りになる人、いるよ」


 



ノアに会った後、ティナはもう一人の人物を訪ねた。


 その後、ティナが向かったのは、高台の丘だった。


 木の枝に腰掛け、本を読んでいたレイラが、気配に気づいて顔を上げた。


 「……どうしたの? そんな顔して」


 「レイラ……お願いがあるの」


 ティナは真っ直ぐに、彼女を見つめる。


 「さっき、バカ二人がユリナの前で言い合って、ユリナを傷つけた……でも、ふたりともぶつかったままで止まってる。本当は、お互いを想ってるのに、言葉にできないだけで……」


 「……あのふたり、意地っ張りだからね」


 レイラは小さく息をついて、本を閉じた。


 「しょうがないな……ほんとに、心配かけるんだから……わかった。任せて」


 「本当に?」


 「大丈夫。あのふたり、どれだけぶつかっても、最後にはちゃんと並んで歩ける。──私は信じてるよ」


 ティナはほっとしたように笑みを浮かべ、深く頭を下げた。


 ──日が西に傾き、訓練場には長い影が伸びていた。


 木剣が交わる音が、土の匂いとともに風に溶けていく。


 その隅で、アルドは黙々と、的に矢を放ち続けていた。


 トン──

 矢は空気を切り、中心から少し外れた場所に突き刺さる。


 「……甘い」


 アルドは小さく呟いて、矢筒から次の矢を抜いた。


 深く吸い込み、吐く。照準を定め、放つ──。


 今度は中心をかすめたが、まだ芯を捉えきれていない。


ほんのわずか、心が迷った。


 「集中してないね」


 不意に、声がした。振り返ると、そこに立っていたのはレイラだった。


 「……何しに来た」


 「ちょっとしたお節介。って言っても、今回はあたしの判断じゃないよ。ティナとノアが頼んできたの」


 アルドは視線を的に戻す。だが、次の矢をつがえる手が止まっていた。


 「喧嘩すること自体は、悪いことじゃない。でも、引きずるのはよくない。とくに、ユリナの前でやったなら、尚更」


 「……わかってる」


 その声には、明確な苛立ちも怒気もなかった。ただ、どこか乾いた、無力感のようなものが滲んでいた。


 「俺だって、心配してるよ。でも……」


 矢を握る手に、少し力が入る。


 「誰も何もしようとしないまま、ただ祈ってるだけで、状況がよくなるわけじゃない。俺は、それが……許せないんだ」


 レイラは静かに聞いていた。やがて、少しだけ微笑む。


 「……それなら、ちゃんと伝えなきゃ。アルド、あなたは“できることをしろ”って言った。でも、ユリナ自身が言いたかったこともあると思うよ」


 アルドの手が止まったまま、言葉を失う。


 「セイルにも同じ。守りたくて、怖くて、でも何が正しいか分からなくて、ああするしかなかった。……ふたりとも、不器用なんだよ」


 ふっとレイラが視線を空に向けた。


 「だからね、あなたとセイルがもう一度ちゃんと向き合わないと…それで、最後に決めるのはあなたたち」


 アルドはしばらく黙っていたが、やがて弓を下ろし、深く息を吐いた。


 「……悪かった、レイラ。……、ありがとう」


 レイラはいたずらっぽく笑って見せる。


 「感謝はいいけど、その顔のまま行ったら台無しだからね。ちゃんと冷やしてから行きなよ」



 一方その頃。


 セイルは屋敷の裏庭で、一人剣の型を振っていた。


 重く沈んだ心を振り払うように、汗を飛ばし、何度も何度も剣を振る。


 「セイル」


 背後から声をかけられ、彼は剣を止めた。


 振り返ると、そこにいたのはノアだった。


 「ノア……何か用か?」


 「少しだけ、話があるんだ。大事なこと」


 ノアは真剣な面持ちで近づき、手にしていた小さな箱を差し出す。


 「これは……?」


 「魔法の写本だよ。ユリナが長く読んでいたやつを、新しく書き写してあげた。ページがぼろぼろだったから……でも、ただの写しじゃない。彼女のために、特別な註釈をいくつか加えたんだ」


 セイルは目を見開いた。


 「……ユリナが?」


 「うん。自分の“今”を記しておきたいって。ユリナ、自分で歩こうとしてる。……だから、セイルたちも止まっちゃダメなんだ」


 ノアの言葉は、まるで春先の風のように静かで温かく、しかし芯に届く鋭さを持っていた。


 「……僕はどうすればよかったのかな」


 セイルの声は震えていた。


 「守りたいって気持ちは、本当なんだ。ただ、それがユリナの足を縛ってたなら……僕は……」


 「なら、今からは“支える”ことを考えてみればいいんじゃない。守るのは、その先だよ」


 ノアは穏やかに微笑み、背を向けて去っていった。


 夕日が、彼の影を長く引き伸ばしていた。



 

夕暮れの小道。

 セイルがひとり歩いていた。拳を握り締めたまま、何かを呑み込もうとするような沈黙。


 「……セイル」


 後ろから声が聞こえた。セイルは立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。

 その表情に、もう怒りはなかった。ただ、少しだけ疲れたような、悲しげな目。


 「…アルドか」


 「話がしたい。ユリナのこと……お前のこと、俺のこと。ちゃんと話したいんだ」


 沈黙が流れた。

 風が、葉を揺らす音だけが聞こえる。


 「……俺、ユリナに言った言葉、あれは……」


 「いや」


 セイルが首を横に振った。


 「アルドが間違ってたんじゃない。……僕も、ユリナも、みんな、正しかったんだ。正しくて……すれ違っただけなんだ」


 その声には、苦笑すら滲んでいた。


 「アルドの言葉、ユリナはちゃんと受け止めてたよ。でも、受け止められるまでに時間がかかるだけなんだ。……人って、そういうもんだから」


 アルドは小さくうなずいた。


 「……ありがとな」


 セイルは、ふっと肩の力を抜いた。


 「礼を言うのは、僕のほうだ。……アルドが言ってくれなきゃ、ユリナの中の火は消えてたかもしれない。悔しいけど、あの言葉が、あいつの背中を押したんだと思う」


 「……そっか」


 言葉を交わし、視線が交差する。

 互いの中の怒りと悔しさが、少しずつ溶けていくのが分かった。


 そして──


 「…ユリナに謝りに行かないとな」


 「うん、二人一緒に行かないとね」


 ふたりは、ほんの少しだけ笑った。


 その夜、アルドとセイルはユリナの家を訪れた。


 扉の奥からかすかに「どうぞ」と声がして、ふたりはそっと中に入る。

 灯りのともる部屋の奥、ユリナはベッドに横たわっていた。だが、その目はしっかりと二人を見据えていた。


 「……来てくれたんだね」


 「……ああ」

 アルドが小さく頷き、椅子を引いて座る。

 セイルは少し迷ってから、ユリナの向かいに腰を下ろした。


 しばしの沈黙。けれど、それは拒絶ではなかった。


 「この前は……悪かった」

 アルドが口を開いた。

 「言い方がきつかった。お前の気持ちも、ちゃんと考えずに……」


 ユリナは首を振り、微笑を浮かべる。


 「ううん。私も、黙ってたのが悪かった。……でもね、私、魔法を学びたいって思ってるの」


 「ティナから聞いたよ」

 とアルドが返す。


 「びっくりした?」


 「いや。むしろ、嬉しかった。止まらずに前を見てる。それが、お前らしいと思った」


 ユリナの目に、静かな涙が浮かぶ。だが、笑顔は崩れなかった。


 「私、もう剣は握れないし、遠くに行くこともできない。けど……この場所で、私にできる何かがあるなら、それが私の戦い方だと思うの」


 その言葉を聞いたセイルが、ゆっくりと顔を上げた。


 「……俺さ、怖かったんだと思う」

 不器用に、けれど真っ直ぐに言葉をつむぐ。

 「お前が苦しむのを見るのが。だから、話を聞かずに、自分で勝手に線を引いて……お前を、閉じ込めてたのは、俺の方だった」


 ユリナの目が揺れた。


 「……ノアに言われたの。“セイルは、優しさのフリして逃げてるだけ”って。最初は悔しかった。でも、今はわかる。ずっと、寂しかったよ。お兄ちゃんが遠くなった気がしてた」


 「ごめん……ユリナ」


 セイルの手が、ためらいがちに伸びる。

 ユリナはそっとその手を取った。かすかに震えていたが、握る力は確かだった。


 「ありがとう。話してくれて、嬉しいよ」


 アルドはその様子を見て、言葉を添える。


 「……戦い方は、ひとつじゃない。誰かのそばに立って、支えることもそうだし、こうして、ちゃんと向き合うことも──全部、同じくらい強い」


 三人の間に、静かで温かな沈黙が流れた。


その翌日から、ユリナの新しい日々が始まった。


 ノアのもとで、魔法の基本を学びながら──

 文字を覚え、力の流れを感じる練習を繰り返し、時折ミスして笑い合い、少しずつできることが増えていった。


 ティナやレイラも、そっとその背中を見守っていた。


 島の空には、雨の終わりを告げる風が吹いていた。

 それは、ほんの少し前まで凍っていた心を、ゆっくりと溶かしていくような、優しい風だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ