第14話「刃を抜く意志」
黒樹団の地下訓練室。石の床と天井には、過去の戦いを物語るような古い傷跡が無数に刻まれていた。
天窓からわずかに差し込む光が、湿った空間を静かに照らしている。
カレンは床の中央に立ち、片手で短剣をくるくると器用に回していた。
「まず見せてもらおうか。持ってるもんを全部」
そう言うと、腰の刃を鞘ごと抜き、訓練場の脇に置いた。戦う気はない――そう見えた。
アルドは父の形見である短剣を抜き、正面に構える。
「へぇ、意外といい構えしてるじゃん……と思ったけど、やっぱ甘いわ」
次の瞬間、カレンの足が一歩、前に出た。
その“気配”だけで、アルドの背筋に粟が立った。
──近い。
「ッ……!」
一歩退いた。だが、遅い。
カレンの指が彼の右手首に軽く触れたかと思うと、次の瞬間には短剣が空を舞っていた。
床に落ちる金属音。
アルドは反射的にもう片方の短剣を構えるが、その体勢はすでに崩れていた。
「動きは早い。でも重心が浮いてる。その体勢じゃ、“死ぬかも”って瞬間、足がすくむ」
カレンの声は冷たく、現実を突きつけてくる。
「お前のその動き、“戦い”じゃなくて“訓練”なんだよ。頭で考えて、形をなぞってるだけ」
アルドは落ちた短剣を拾い、ふたたび構える。だが先ほどよりも、手が重く感じられた。
「……だったら教えてください。頭でわかってても、体が……」
「違うね。“教えてください”なんて口で言ってる時点で、まだ甘えてるんだよ」
カレンの言葉に、鋭さが増す。
「ここで生き残るのに必要なのは、“正しい答え”じゃない。“正しく殺せる体”だ」
そう言って彼女は、自らの短剣を再び手に取ると、無言でアルドの懐に踏み込んだ。
──速い。
踏み込みと同時に肩を沈め、手首を返しながら刃を滑らせるように打ち込んでくる。
アルドは短剣を交差して受けようとしたが、その刃は絡め取られ、再び右手から武器が滑り落ちた。
「腕で受けるな。刃を滑らせろ。止めたら死ぬよ」
カレンは一歩退き、角度を変えて再び斬り込んできた。
アルドは反射的に身を引く──だが足が石床に引っかかり、体勢を崩す。
ドン、と背中から倒れ込む。
「……っ、くそ……!」
冷たい石が背中に食い込む。呼吸が浅くなり、胸の奥が熱く、痺れる。
手が震える。頭の中では「立て」と叫んでいるのに、体が思うように動かない。
「倒れるのはいい。戦いの中じゃ何度もある。だが、起き上がるとき、次の手を考えてない奴は、そこで終わる」
カレンの言葉は冷たいが、そこには血の通ったものがあった。
彼女は短剣を下ろし、足でアルドの短剣を軽く蹴って寄こす。
「さっき、“斬るのが怖い”って顔してたな。わかるよ。私も最初はそうだった。
誰かの喉に刃を当てて、血が飛んで、目が見開かれるのを見た時──『もう戻れない』って思った」
カレンはしばし刃を見つめ、ふっと視線を伏せる。
どこか遠い過去を見つめているような眼差しだった。
「でもな、覚えときな。“斬らない”ために斬る時もある。“死なせない”ために、一瞬で止める技術が、この距離には必要なんだよ」
その言葉に、アルドの手がわずかに震えた。だが彼は奥歯を噛み締め、体を起こし、再び短剣を構えた。
「もう一度、お願いします」
その声は、先ほどよりも硬く、強く響いた。
「……ふふ。やっと“戦う顔”になったじゃん」
カレンはにやりと笑い、再び構えを取る。
「……お前、本気で“戦い方”を学びたいんだって?」
アルドは、強くうなずいた。
「そうかい。じゃあ――」
突然、カレンの足が動いた。
一歩、二歩。一気に間合いを詰めたかと思うと、腰の短剣を引き抜き、アルドの喉元へと閃かせた。
反射的にアルドは体をひねり、短剣で受け止める。
「──テスト開始。何でもあり。殺されないように頑張んな」
言葉が落ちた瞬間、空気が変わった。
訓練ではない。これは、“殺し合い”だ。
弓もない。魔法も使えない。
戦場では日常茶飯事の“初手殺し”。
アルドは後ろへ跳び退きながら、両手にある短剣を構えた。
「どうした? 殺し合いなんて、そんなもんだぜ」
カレンは猫のように低い姿勢から、矢のように間合いを詰める。
鋭く、容赦のない剣筋。フェイント、足払い、背後からの脅し。
アルドはすべてを受けきれず、衣服が裂け、腕に擦り傷ができる。
だが──退かない。
「ふうん……お坊ちゃんなのに、逃げ腰じゃないのは意外だね」
息が上がる中で、アルドは目を逸らさずに言った。
「……殺すために、じゃない。成し遂げるために、使う。
父の短剣は……そういうものであってほしいんだ」
カレンは軽く舌打ちしながら、もう一度踏み込む。
「“成し遂げるために”だと?……そういう綺麗ごと、抜かすな」
短剣と短剣が激しく打ち合い、金属音が響く。
「これは“人を殺すため”の刃だ。自分が殺される前に、相手を殺す。その覚悟もない奴が、刃を抜くな」
アルドは一瞬押されながらも、視線を逸らさずに返す。
「……当然だろ。そんなこと、とっくに分かってる」
汗まみれの額から、血が一筋垂れる。
だがその目には、怯えも、迷いもない。
「分かった上で、俺は……この刃を使うって、決めたんだ」
カレンの目が、ほんのわずかに揺れた。
次の瞬間、アルドは反撃に転じ、カレンの懐へと踏み込む――。
カレンは一瞬だけ身をかわしたが、短剣の刃先が彼女の肩の衣服の端をかすめた。
鋭い金属の冷たさがわずかに伝わり、アルドの動きが完全ではないことを示しつつも、確かな攻撃の意思を感じさせる一瞬だった。
刃が触れたのは一瞬。しかし、それは明確な“意思”の証だった
「……っ」
カレンの目が細くなる。
次の瞬間、容赦のない蹴りが放たれた。
視界が揺れる。アルドの腹に鋭く足が突き刺さり、彼の体は無様に床を転がった。
「甘ぇんだよ、ガキが」
低く押し殺したような声。
けれどその奥に、どこか予想外の“揺れ”があった。
腹に走った痛みは、過去のどの訓練よりも重かった。
肺の中の空気が全部抜けるような衝撃。
だが、アルドの中に湧いたのは「退くな」という声だけだった。
アルドは咳き込みながらも、すぐに立ち上がる。
膝をつき、息を整え、再び短剣を構える。
足元はふらついていたが、その瞳はまっすぐにカレンを見据えていた。
血と汗に濡れた額の奥で、瞳だけが燃えていた。
カレンはその場に立ったまま、肩をすっと払った。
息を整えながら、アルドは静かに短剣を構え直す
カレンはほんの一瞬だけ目を細めた。
口元には、皮肉ともつかない、薄い笑み。
「……まったく。隊長と同じ目しやがって」
その声には、懐かしむような響きと、少しだけ哀しみが混ざっていた。
リオンがやや離れた場所で、黙って腕を組んで見守っていた。
リオンは、あえて止めなかった。
これは“訓練”でなく、“試験”だと分かっていたからだ。
カレンはアルドに背を向け、リオンの方へ一歩だけ歩いて、振り返る。
「いいぜ。預かってやる。……どうせ、断ったところで聞かない顔してるし」
「あ、ありがとうございます」
アルドは、息も絶え絶えであるが、深く頭を下げた。
カレンは気怠そうに伸びをして、肩を回す。
「明日の朝からここの訓練場に来い。逃げたら一発ぶん殴るから覚悟しとけ」
そう言い残して、黒樹団の奥へと歩いていった。
リオンは苦笑を浮かべ、アルドの肩に手を置いた。
「……あいつの訓練は厳しいぞ」
「構いません。俺は、“使える”ようになりたいんです」
濡れた髪の奥、アルドの瞳の奥には、静かに燃えるような意志が宿っていた。それは、どこまでも冷たく鋭かった。