第13話「足りないもの」
霧のような雨が、訓練場の地面を冷たく湿らせていた。
誰もいない朝の広場。木製の人形は水を吸って鈍く光り、足元の土は踏めばぬかるむ。弓の弦には水滴がたまり、矢筒の中にも湿り気が忍び込んでくる。
あの日から全てが変わった。
父の考え、母に対する父の想い、自分の無力さ……「遠くを見ていただけでは、守れないものがある」と知った。
今の自分が、あまりにもちっぽけな存在だと気付かされた。
アルドは弓を横に置き、黙って父親の形見である二本の短剣を抜いた。
重さはない。けれど──扱いにくい。
小手調べに踏み込み、振る。振る。ただ振る。
だが、何かが違う。動きが重い。腕は振れる。だが、体が続かない。
足が止まる。
「……違う」
思わず声が漏れた。
アルドは短剣を両手に握り、素手の時と同じように構えた。
「……こうして、踏み込んで、崩す」
かつて、格闘術で教わった接近戦の動きをなぞる。肩のラインで相手の懐に入り、回し蹴りの勢いを殺して軸足に重心を残す──そんな“体の使い方”を短剣にも応用しようとした。
だが、うまくいかない。
一歩踏み込むと、右手の短剣がわずかに遅れた。
攻撃のつもりが、間合いがずれて空を切る。
左手で斬り払おうとした瞬間、今度は自分の胴に刃が近づき、慌てて引いた。
「……怖い」
素手なら相手にぶつけるだけだ。拳を出して、崩せばいい。
でも、短剣は違う。先端で“斬る”か“刺す”ことしかできない。
しかもそれを、わずか数十センチの間合いでやるのだ。
体を寄せれば、刃が自分の脇をかすめそうになる、少しでも軌道が狂えば、自分の太ももや味方を傷つける。
体は覚えている──だが、刃がついてこない。
重心の移し方、手首の角度、回転のタイミング。
素手の動きとは、似ているようでいて、違いすぎる。
「このまま弓の矢じりに短剣をくくりつけて、突き刺しても……だめか。重すぎるし、飛ばない」
かすかにそんな妄想がよぎった。ノアに相談すれば、またあの“変な顔”をされるだろう。
“刃は飛ばすもの”──そう考えている時点で、やっぱり自分はおかしいのかもしれない。でも、近づかずに決着をつける方法を考えるのは、本当に間違いなんだろうか。
「これが……“使う”ってことか」
鏡のような水たまりに、ぬかるみに立つ自分の姿が映っていた。
細く、軽く、非力そうなその影は、戦士とは呼べなかった。
アルドは短剣を握り直し、もう一度構えた。だが手が震えていた。
「……何でだ。何で、こんなに怖い」
足を一歩、踏み出すだけで、心臓が喉元まで上がる。
刃の感触。重み。殺すことへの実感。
「弓しか……俺には、弓しかなかった」
視線を落とすと、水たまりの中の自分が、まるで別人のように感じられた。
遠くばかり見ていた。射程の向こう、誰も届かない場所。
だけど、近くにあるものを見ていなかった。
近づかれることの怖さ。剣を持つ者の重み。斬られる現実。
近づかれることの怖さ。剣を持つ者の重み。斬られる現実。
ふと、幼い頃に見た父の姿がよみがえった。
家の庭で手にしていたのは――この短剣。
「短剣は、斬るためのものじゃない。……殺さない距離を詰めるためのものだ」
そんな言葉がふと頭をよぎった。誰が言ったのか、父、自分か、誰かの本の中か──もう忘れていた。
「俺には……近くが、見えてなかった」
呟きと共に短剣を収め、アルドは深く息を吸った。雨の匂いが肺に満ちる。
そのまま立ち上がり、弓を拾う。そして、ゆっくりと歩き出した。
向かう先は──剣士の元。いや、「剣を教える人」ではない。
「命を懸ける戦いを、生き残った者」のもとへ──。
昼が近づく頃、アルドは濡れた訓練着のまま、まっすぐリオンのもとに向かった
剣を教えてほしい──そう言うには、言葉が軽すぎる気がした。
リオンは、家の庭で剣を振っていた。
受け入れたくないことを受け入れるために、ただ、ひたすら雑念を祓うように振っていた。
アルドはその姿を黙って見つめていた。
「……濡れてるぞ。風邪をひく」
リオンは剣を止め、静かにアルドに向き合った。
その声に叱責はなかったが、目は鋭かった。少年の来訪の意味を、すでに見抜いていた。
「その短剣…かっこつける為に身に付けたわけではないんだろう?」
アルドは無言のまま腰に手をやり、父の形見の短剣をそっと撫でた。
鞘から抜きはしなかった。だが、その重みが今日の彼のすべてを物語っていた。
リオンは一歩、彼に近づき、短剣を見た。そしてそのまま、少年の目を見る。
数秒の沈黙。まるで、心の底を覗くような視線。
「……何かを成し遂げるために?」
アルドは、ただ一度、うなずいた。
「ならば……私ではない。」
リオンは目を伏せ、静かに言った。
「私は剣の“構え方”や“斬り方”を教えることはできる。だが、お前が腰に差しているのは“短剣”だ」
「その間合い、その戦い方……私では教えきれん」
アルドの目が、揺れる。
「その短剣は、誰かを殺すために抜くものだ。そして同時に、お前の仲間を守るための境界線でもある」
リオンは背を向け、ふたたび構え直す。
「……午後になったら、黒樹団の本部に来なさい。今の“お前”に合う教えを、持っている者がいる」
そう言って、リオンは再び剣を振りはじめた。
アルドは一礼し、その場を離れる。
短剣の重みが、少しだけ変わった気がした。
午後の陽が傾き始めたころ、アルドは黒樹団の本部に足を踏み入れた。
訓練場とは違う、古びた石壁と鉄、そして海の匂い。
昼過ぎの空は曇天で、建物の影が不気味に伸びている。
「ここで待っていろ」
リオンはそう言い残し、扉の奥へと消えた。
アルドは、一人で無言のまま立ち尽くす。
彼らの世界に、自分が足を踏み入れるなど、数日前までは考えもしなかった。
──本当に、来てよかったのか?
そんな迷いを吹き飛ばすように、重たい足音が近づいてきた。リオンと共に現れたのは、一人の女性だった。
陽に焼けた肌と鋭い目つき、黒いベストと動きやすい服をラフに着こなし、腰には大小二本の短剣が斜めに差してあるーーというかもはや刃物を投げるために生まれたような女だった。
短く切り揃えた黒髪、鋭い目つき。身体は細いが無駄がなく、動きには獣のような気配があった。鋭い目つきで、不機嫌そうにこちらを睨むように見ている。アルドを見るなり露骨に顔をしかめた。
「アルド、こいつが、カレン。黒樹団の斥候兼、短剣使いで今日からお前の師匠だ」
リオンは平然と言った。
「ちょ、はぁ!? 誰がいつそんな──」
「……弟子?」
アルドは小声でつぶやく。目の前の女を見て、率直に思った。大丈夫か……?
「カレン、お前の弟子になるアルドだ」
リオンが紹介する。
「ちょっと待ってくれよ旦那!
弟子って…聞いてないんだけど?!……だいたい、子守りは趣味じゃないんだよ。素人に教えてる暇があったら、自分の刃の研ぎ方でも勉強してるほうがマシ」
カレンはアルドを一瞥し、面倒くさそうに鼻を鳴らした。
リオンは落ち着いたまま、アルドの肩に手を置
「こいつはジークの息子だ。……お前に預けたい」
リオンが短く告げる。その言葉に、カレンの動きが止まった。
「……隊長の、ってこと? ……マジか……」
しばらく無言で、彼女はアルドをじっと見つめた。目には僅かに揺れるものがあった。だがすぐにそれをかき消すように、頭をガシガシと掻いて、空を仰ぐ。
「ったく、これだから汚い大人は嫌いなんだよ。情だの義理だの押し付けやがって……」
彼女は大きく息を吐き、アルドへと鋭い視線を戻した。
「おいガキ。いいか?“疲れた”だの“嫌だ”だの、泣き言一つでも吐いたらその瞬間で終わりだ。わかった?」
その口調は冷たく、吐き捨てるようだった。
アルドは少しも動じず、静かにうなずいた。
「はい。でも、泣き言を言うくらいなら最初から来てません」
一瞬、カレンの目が細められた。口角がわずかに吊り上がる。
「……ははっ、口だけは達者だな。ほんと、最近のガキは生意気で……」
ぼやきながらも、カレンは一歩前に出る。
「ま、いいわ。ついてきな。口より手。実力、見てやる、教えるかどうか決めるのはそれからだ」
足を引きずるような歩き方で、彼女は本部の裏手にある訓練場へと向かった。
アルドも無言で、それに続く。
背中に、どこか獣のような雰囲気を纏った女。その背は決して大きくはないが、踏み出す一歩一歩に、確かな重みがあった。