第12話「夜明けに咆える」
窓の外では、雨が降っていた。
春を待ちきれずに芽吹いた木々の葉が濡れ、風に揺れている。
ユリナの寝息は浅く、ときおり喉の奥でかすかに音が鳴った。
薬の副作用だと、リズは言っていた。それでもセイルは、どこか納得できずにいた。
「……もっと、他に……他に方法があるはずだろ……!」
声を荒げたのは初めてだった。感情が先走っていたとわかっていても、止められなかった。
ユリナはまだ十歳にも満たない。あまりにも早すぎる。
リズは困ったような顔で、静かに首を振った。
病名。進行の速さ。治療法のなさ。ただの対処療法。
語られるすべてが現実で、残酷だった。
「……やめなさい、セイル」
母の声がした。かすれた声だけで、泣いているのがわかった。
父がそっとセイルの肩に手を置く。重く、けれど温かい手だった。
「それでも……何か、あるはずだって、思いたいんだ……っ」
俯いたまま、セイルは喉の奥で声を押しつぶした。
それ以上、言葉は出なかった。
肩を震わせ、小さなベッドの傍らで、妹の冷たい手を強く握りしめていた。
その光景を、アルドは廊下の奥から静かに見つめていた。
アルドは黙って自室へ戻ると、棚の奥にしまわれていた小さな木箱を取り出した。
何年も触れられていなかったそれは、うっすらと埃を被っていた。
アルドは木箱を見つめ、そっと蓋を開けた。
――あの日、父が島を出る朝も、雨が降っていた。
「帰ったら一緒に釣りに行こうな」と笑っていた顔が、今も記憶の中で揺れている。
アルドはその言葉に、何も返せなかった。ただ無言で、背中を見送るしかなかった。
箱の中には、銀色の懐中時計と、二本の短剣。
懐中時計の蓋にはそこに刻まれていたのは、一つの大樹。
雪のように白く、枝葉は天を突き、幹は雷に裂かれたような文様を持っていた。
その根元には、一頭の黒豹。しなやかで、猛々しい獣が、天を仰ぎ、大樹に向かって咆哮している紋章。
裏には、古い古代語の一節が刻まれている。
「――我ら、知を守る根なり。忘却の闇に灯を残さん。」
父の形見だった。
黒樹団の任務で島の外へ赴いた彼が、最後に遺したもの。
遺体すら戻ってこなかった。母もその直後、ユリナと同じ病によって亡くなった。
あの日から、アルドはこの箱に触れられずにいた。
けれど、セイルの嗚咽とユリナの苦しむ姿が、心の奥にしまっていた感情を呼び起こしていた。
父の想いが、ようやく少しだけ、理解できた気がした。
夜が明けるまで、家の中は静かだった。
雨は止み、風も弱まり、窓の外には薄い光が差し始めていた。
ユリナはまだ眠っていた。深い眠りのなか、まぶたがときおりわずかに震える。
エリノアは静かに朝食の支度をし、リオンは手紙を書いていた。
どれもが、日常を装うような静けさで――その静けさが、セイルには耐えがたかった。
そのとき、ユリナの部屋の扉が静かにノックされた。
誰も何も言わなかったが、皆、誰が来たのかを察していた。
セイルが立ち上がるより早く、扉はわずかに軋む音を立てて開いた。
ユリナは、浅い眠りから目を覚ましていた。
声は出せない。それでも、目だけが、彼を見つめていた。
「……来るの、遅い」
とげのない、どこか安心したような声だった。
「……ごめん」
アルドは短く答えると、ベットの近くに腰を下ろした。
何かを言いかけて、飲み込んでしまうような顔をしていた。
普段から寡黙な彼にしても、その沈黙は異質だった。
ふと、ユリナは気づく。
アルドの腰に、銀の懐中時計がぶら下がっていた。
――父のリオンがいつも身に着けていたものに、よく似ていた。
「……それ、どうしたの?」
ユリナが尋ねると、アルドは少しだけ目を伏せて言った。
「父さんの形見。ずっと……触れたくなかった。でも、今は……少しだけ、わかる気がして」
時計の蓋を開ける。「カチ」という小さな音が、部屋に響いた。
時間が、少しだけ動き出したように思えた。
「何もできないのって、怖いよな。……でも、父さんは、それでも母さんのために動こうとしてたんだ。俺、それから逃げてたんだと思う」
アルドの声は、少しだけ震えていた。
ユリナは言葉を返さなかった。ただ、時計の中を見つめていた。
そこには、古びた小さな写真が挟まれていた。
若い女性と、アルドに似た青年が並んで、少し照れたように、それでも穏やかに笑っていた。
窓の隙間から、夏と秋のあいだの風が吹き込んだ。
その風に、部屋の空気が静かに揺れた。
「父さんと同じように、島の外に出て……治せる方法を、探す。
それが、俺にできることだから」
短く、しかし迷いのない言葉だった。
ユリナの目に、涙が浮かんだ。微かな笑みが、唇に浮かんでいた。
セイルは、廊下の陰で拳を握りしめていた。
悔しかった。妹を助ける力が、自分には何一つないことが。
だけど、アルドの声を聞いたとき、胸の奥に灯るものがあった。
……逃げるんじゃない。選ぶんだ。自分の手で、希望を。
「……俺も、行く」
その声は小さく、しかし確かな決意を帯びていた。
「ユリナを助けるんだ。お前と一緒に……黒樹団に入って、外に行くんだ」
黒樹団――島で唯一、外の世界と繋がりを持てる者たち。
その証が、今アルドの手にある銀の懐中時計だった。
二人は、何も言わずに頷き合った。
扉の外では、風がまだ泣いていた。
けれど、その風の向こうにある夜明けを、彼らは確かに信じていた。
夜はまだ明けきらない。けれど、二人の心には確かに、夜明けの光が差していた。