第11話「静けさの兆し」
暖かな日差しが、まだ薄い雲の向こうに隠れていた。
庭では、ユリナが小さな鉢植えを抱え、花に水をやっている。
土に滴る水音と、小鳥のさえずりが、心地よく重なっていた。
「お兄ちゃん、これ見て。芽が出てきたんだよ」
ユリナが嬉しそうに振り向く。
その手元には、先端に小さな緑の芽をつけたつぼみ。
「ほら、言ったでしょ。ちゃんと芽が出るって」
セイルは頷いた。
けれど、その笑顔の下に、わずかな違和感があった。
水をやる手が、かすかに震えている。
鉢を置いたあと、ユリナはゆっくりと腰を下ろし、ひと息ついた。
「……ちょっとだけ、目が回った」
その言葉に、セイルは反射的に顔を寄せる。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫。昨日ちょっと夜更かししちゃって……それだけだよ。ね、今度の休みにお弁当持って、みんなでピクニック行こう? ……丘の上の泉のところ」
話を逸らすように笑うユリナに、セイルは答えなかった。
頭のどこかで、「何かおかしい」と囁く声がしていた。
「顔が少し赤いから、今日は休みな」
そう言ったのはアルドだった。
その一言で、セイルの胸にあった靄が、わずかに晴れる。
――自分だけじゃない。アルドの目にも、映っていたのだ。
「平気だよ」
ユリナがむくれたように言い返す。だが、その言葉に力はなかった。
「無理して倒れてからじゃ、手遅れだぞ。今日は、ちゃんと休め」
「そだな、それがいい」
セイルも頷く。
「心配しすぎだよ……大丈夫だって言ってるのに」
「風邪引いてノアやティア達にうつしたら困るだろ? 今日は休んで、ちゃんと治せ」
アルドの言い方は、どこか“ずるさ”を含んでいた。
「その言い方はずるい……わかったわよ、今日は休みます!」
ユリナは子どもみたいに頬を膨らませ、叫ぶ。
「おかーさーん! アルド達が学校来るなって言うから、今日休むー!」
それを聞いたエリノアは「はいはい」と笑いながら、ユリナの頭を軽く撫でた。
玄関先でアルドが「学校の帰りにリゼ先生のところで薬草もらってくる」と言うとエリノアは「お願いするわね」と、微笑みながら頷いた。
ふとセイルが、母の方を見て小声で尋ねる。
「……母さん、ユリナ、なんか最近無理してない?」
「そうね……本人は“平気”って言うけど、あの子、無理しちゃうから」
エリノアは一瞬、言葉を切り、静かに続けた。
「あの子ね、昔からお腹が痛くても、咳が出ても笑って誤魔化すのよ。みんなを安心させたくて無理していつも“平気”って笑うのよ。……あなたに、ちょっと似てるわね」
セイルは視線を逸らし、うなずいた。
「……ちょっとだけ」
その言葉に、母は穏やかに微笑んだ。
⸻
午前の授業。
いつもの掛け声や木剣の音が、今日はやけに遠く感じられた。
「……集中できてないぞ、セイル」
教官の声に、セイルははっとして肩をすくめる。
手の中の木剣に、力が入っていなかったことに気づく。
少し離れた位置にいたミナ達が、心配そうにこちらを見ていた。
「すみません…ちょっと、家のことで」
曖昧に笑って返すと、ミナ達は深く追及せず、ただ頷くだけだった。
その無言の優しさが、かえって胸に刺さった。
――今の自分は、気遣われる側なのだと、知らされたようで。
⸻
セイルは、胸の奥のざわつきを抱えたまま、家に帰ってきた。
「母さん、ただいま」
扉を開けると、家の中は静かだった。
机の上には湯気の消えかけた薬草茶と、開きかけの本が置かれている。
台所で水を汲んでいた母が、顔を上げる。
「今日は昼からずっと寝てるわ。やっぱり疲れが出たのかもしれないわね」
セイルは頷きながら、寝室を覗いた。
薄布団に包まれたユリナが、セイルに気づいて微笑んだ。
「……あ、お兄ちゃん、帰ってたんだね」
「具合、悪いの?」
「ううん、ちょっと頭が重くて……横になってただけ。すぐ治るよ」
けれど、ユリナの額には汗が滲み、笑顔には力がなかった。
セイルは、その横顔を見つめながら、微かな胸騒ぎを感じていた。
⸻
夕方近く、部屋にやってきたのはティナだった。
ドアを小さくノックし、控えめに顔をのぞかせる。
「ユリナ、大丈夫?」
ティナの手には、紙袋が提げられていた。
「差し入れ。さっき森で採ったの。“森の陽だまり”って呼ばれてる実。甘くて……少しすっぱいけど、元気が出るんだって」
「わあ、ありがとう、ティナ」
ユリナは微笑んで手を伸ばす。けれど、少しだけ力が足りず、
ティナが代わりに袋をベッドの横に置いた。
「……体、辛い?」
ティナが問うと、ユリナはほんの少し首を振った。
「ううん。ティナの顔見たら、元気出てきた」
その言葉を合図にするように、ノア、レイラ、ミナがやってくる。
ノアは小瓶を差し出す。
「これ、うちで調合したハーブオイル。匂いだけでも少し楽になると思う。リゼ先生に教わった」
レイラは明るく笑って、包みを差し出した。
「さっき家で焼いたクッキーと、それに合うお茶よ。元気になると思うわ」
ミナはそっとベッド脇に腰を下ろし、ユリナの手を取る。
「今度は新しい技、教えたいからね。……だから、ちゃんと治すこと。いい?」
その言葉に、ユリナは涙ぐみそうになったが、笑顔は崩さなかった。
「うん……絶対、教えてね」
部屋にはしばし、明るく温かな空気が戻った。
だがセイルは、その輪から少しだけ離れていた。
ただ見守ることしかできず、言葉は出てこなかった。
陽が傾き、窓から差し込む光が赤みを帯び始めたころ。
友人たちは「また明日ね」「無理しないでね」と声をかけ、帰っていった。
家には再び静けさが戻る。
セイルはそっと戸を閉め、再びユリナの部屋を覗いた。
ユリナは布団に入り、微かな息を立てていた。
だが、その頬は赤く、額には汗が滲んでいる。
「……ユリナ?」
声をかけると、薄く目を開け、かすかに笑う。
「ごめんね、お兄ちゃん。……ちょっと、眠くなってきちゃった」
「熱、上がってるかも。すぐ水、持ってくる」
急いで台所に向かい、冷たい布を濡らす。
戻って額に当てると、ユリナは目を閉じたまま、唇を動かす。
「……ありがとう。やっぱり、今日は……来てもらえて、よかった」
その声は、小さく、少しだけ震えていた。
⸻
空はいつの間にか灰色に染まり、雨の匂いが漂い始めていた。
「雨が降りそうね」と母が呟いたとき、アルドが玄関の扉を開けて戻ってきた。
「ただいま。リゼ先生のとこから、熱冷ましと、滋養の薬草」
「助かるわ。ありがとう、アルド」
エリノアは微笑みながらも、どこか不安な顔だった。
「ユリナ、少し熱が上がってきてるの」
アルドはすぐに寝室へ向かう。
セイルは彼女の手を握ったまま、うなだれていた。
その手から伝わる熱が、少しずつ強まっている。
「少し、熱が上がってきてる。……今は眠ってるけど、ちょっと苦しそうだ。みんなは帰らせた。今は、誰かそばにいた方がいいと思って」
アルドは頷き、ユリナの寝顔を見下ろす。
頬は朝よりも濃く染まり、汗もかいていた。
エリノアは冷たい布を取り替えながら、薬草茶を用意している。
アルドとセイルは目を合わせる。
「先生を呼ぶべきかもな」
「俺が行く。……アルド、もし他に備えが必要なら頼む」
セイルは外套を掴み、扉を開けた。
外はすっかり曇り、風も強くなっていた。地面には落ち葉が舞い、空からはぽつり、ぽつりと雨が落ち始めていた。
雨の匂いが、胸に刺さるように鋭かった。
まるで、何かが崩れていく前触れのように。
セイルは何度か転びそうになりながら坂を駆け下りた。胸の中のざわめきを、振り払うように。
医者を待つ間、アルドの胸は不安に締めつけられていた。
ユリナの表情が、かつて死んだ母のときと、あまりにも似ていたからだ。
あのときも最初は、少しの熱とだるさだけだった。
けれど数日後、母は二度と立ち上がることがなかった――
後悔を、もう二度と繰り返したくなかった。
アルドは、ひそかに黒樹団の本部へ向かった。
エリノアに気づかれぬように。
――リオンのいる、黒樹団の本部へ。
海辺の近くにある砦の本部では、夜警の見回りが交代の時刻を迎えていた。
濡れ鼠のような姿で飛び込んできたアルドを見て、門番が目を丸くする。
「おい、どうしたんだ!?」
「おじさんに、リオンさんに……伝えてくれ! ユリナが、高熱で――頼む、急ぎなんだ!」
その目に、少年らしからぬ強い決意が宿っていた。
門番はすぐに伝令を走らせた。
すぐに伝令は戻り、砦の中まで案内した。待つこと数分、廊下の奥から、影が二つ――リオンが現れる。
アルドに気づくなり、すぐに声をかけた。
「この雨の中を……アルド、一体何が――」
「ユリナの様子がおかしい。高熱が出て、息も浅い……普通の風邪じゃないかもしれない…それにどこか母さんの症状に似ているんだ。」
アルドの言葉に、リオンの手が止まり、表情が一変した。
灰色の瞳が鋭く細められ、無言のまま隣に立っていた秘書から外套を受け取った。
「すぐに行くぞ、ついて来い」
ただ一言…だけど、聞いた者に不安や焦りが伝わる声だった。
一方その頃、セイルはリゼの家にたどり着いていた。
扉を叩くと、奥から明かりが漏れ、数秒後に小柄な女性が姿を現す。
「セイル……? こんな時間に?」
「ユリナが、高熱で……母もついてるけど、症状が少し深いかもしれません」
リゼはすぐに頷き、後ろの棚から薬箱を手に取ると大声で息子のライナに声をかけた。
「ライナー!今からセイル家行ってくるから留守番お願いね!行くわよ!案内しなさい。」
二人は、強まる雨の中を駆け出した。
濡れた地面を蹴りながら、セイルは自問する。
――どうして、もっと早く気づけなかった。
あの震えた手、赤らんだ頬、無理に作った笑顔。
どれもが「平気じゃない」の合図だったのに――
冷たい雨が頬を打ち、目の奥が痛む。
「お願いだ、間に合ってくれ……!」
その祈りは、ただ空に溶けていくようだった。
夜が来るころ、医者のリゼはユリナの寝室で静かに脈をとり、呼吸を確認し、目の光を見る。
アルド達が戻ってきたとき、すでにリゼは診察を終えていた。
やがて、リゼは静かに告げた。
「……これは、“石化病”の初期症状です…」
一瞬、空気が止まったように感じられた。
「……石化病?」
セイルが呟いた。
「この島特有の風土病…身体の末端から硬化が始まり、進行すると……内臓にまで及ぶ」
エリノアが手を口に当てた。
リオンは信じられないという顔でユリナを見つめる。
「どうすれば、助けられるんですか……?」
「……残念だけど、この病気に治療法はないの…」
セイルは黙って、ユリナのそばに座った。
布団の中の少女はまだ眠っている。苦しげな息をして、眉をわずかに寄せていた。
――これは、ただの風邪じゃない。
それをようやく、現実として受け入れなければならない時間が来たのだった。