第10話「林間の疾走」
――林の中に、風が走る。
馬に初めて乗ってから、まだ五日しか経っていない。
4人は学校が終わればすぐにゼスのところに集まり、暗くなるまで泥にまみれた。バトルホース達と互いの癖を覚え、少しずつ「走る」ことに慣れてきた。
誰が言い出すともなく、訓練後には馬の手入れをしながら、ぽつぽつとその日の成果を語るようになった。
今日もまた、特設訓練場の入口に集合した4人が、馬の鞍を締めながら軽口を交わしている。
「昨日のカーブ、ルークだけすっすっと抜けてたよな。なんかコツあるのか?」
デュランの言葉に、ルークは軽く肩をすくめた。
「カーブじゃなくて、馬の呼吸を見てた。シラユキが迷ってなければ、俺は傾くだけでいい」
「やっぱりお前、馬と会話してるだろ……」
セイルが笑いながら言う。
「お前、またミロを走らせすぎだ。今日は跳ぶなよ」
「へっ、跳べるところは跳ぶって決めてんだよ」
ミロのたてがみをぐしゃぐしゃに撫でるデュラン。ミロはふご、と鼻を鳴らし、隣にいたカスカと鼻をつき合わせた。
「……なんかさ、馬の目がこっち見てる気がするんだよな。怖いんじゃなくて、考えてるみたいに」
セイルが呟くと、レオンがアルドの首元に顔を寄せ、じっと琥珀の瞳で見上げてくる。アルドはそれに気づいて、無言で頷いた。
そして今日。馬上からの攻撃、初めての模擬戦訓練が始まる。
午前の柔らかな陽光が、梢をすり抜けて揺れていた。
林道を整備して作られた特設訓練場に、バトルホースたちの蹄音が心地よく響いている。
ゼスが並ぶ四人の前に立ち、いつもより少しだけ引き締まった声で言った。
「コースは一本道だ。ただし単調じゃない。
まずは走行と誘導の確認。林間の道を駆け抜けつつ、五つの標的に当てろ。剣でも弓でもいい。標的は、枝に吊された藁人形と木製の円盾、それに動く的──ロープで引っ張られる輪だ。
命中数、馬の制御、そして所要時間――三つで総合評価する」
ゼスの説明に、騎乗者たちは息を呑む。林の奥には簡易な障害物も設けられていた。倒木、幅の狭い橋、下り坂とぬかるみ。その先で標的に向かい、最後に丘の斜面を駆け上がって帰還する。木々の間を縫うように作られた林道は、軽い下り坂を描き、枝葉が視界を奪う。
足場は悪くないが、油断すれば命取りになる。
「おいおい、初めて乗ったの数日前だぞ……」
デュランが肩を竦める。
「無理はさせない。ただ、“やってみる”ことに意味がある。馬を信じて動かしてみろ」
ゼスの声は穏やかだったが、その瞳は真剣だった。
セイル、アルド、デュラン、ルーク。
それぞれが馬のたてがみを撫でながら、心を整えていた。
「順番は……セイル、お前からだ」
名前を呼ばれたセイルが、わずかに唇を結んで頷く。
昨日ようやく騎乗に慣れたばかりの身で、今日の実戦訓練。正直、不安は拭えなかった。
だが、彼はカスカの横顔にそっと囁くように言った。
「頼むぞ、カスカ」
どこかおっとりとした顔つきのバトルホースは、ゆったりと瞬きをして応える。
鼻を鳴らす音さえ、のんびりとした調子だった。
合図の笛が鳴る。セイルは静かに、馬の腹を蹴った。
滑らかに加速するカスカ。林を渡る風が、視界を横に流れていく。
セイルは低い姿勢を取り、馬の動きにあわせて身体を傾けた。
一つ目の標的が見えた。タイミングを見て木剣を振る――が、わずかに逸れて標的の端をかすっただけ。
「……っ」
唇を噛むが、集中は切らさない。
二つ目、三つ目の標的も惜しいところで外れた。だが馬の制御は安定し、倒木の下をくぐる動作も見事だった。
四人のうち、ルークが小さく呟いた。
「安定してる……カスカが、セイルを信じてる」
最後の標的でようやく、木剣の一撃が木製の中心をとらえた。
ゴールに戻ったセイルに、ゼスは静かに頷く。
「悪くない。というか、予想よりずっといい。馬がお前を信頼してるな」
セイルはほっとしたように笑い、カスカの首筋を撫でた。
「ありがとな、相棒」
次に名前を呼ばれたのは、アルドだった。
彼の背筋には一切の迷いがなかった。
琥珀の瞳を光らせるレオンの首元に手を添え、低く囁く。
「――速く。頼む」
その言葉を合図にしたように、レオンが地を蹴った。
筋肉の張った体が風を切るように駆け出す。耳をそばだてる姿は、まるで風の音さえ捉えようとするかのようだった。
林の緑が視界の端を鋭く流れていく中、アルドは馬上でもほとんど身体を揺らさない。
一つ目の標的に矢が吸い込まれるように突き刺さった。
すかさず二つ目、三つ目。矢は軌道を狂わすことなく木を撃ち抜いていく。
「うわ……マジかよ……」
デュランがぽつりと呟き、セイルが目を見張る。
最後のカーブに差しかかると、アルドは前方を見据えたままひと呼吸置き――振り返りざまに矢を放つ。
背後の標的が、無音のまま真っ二つに割れて落ちた。
「すげぇな、あいつ……ほんとにやりやがった……」
デュランの呟きが、全員の心を代弁していた。
だがその直後。
「――おい、アルド! そっちは足場が悪い!」
ゼスの叫びが飛ぶ。
馬の脚が一瞬滑りかけ、レオンの体がわずかに傾く。
だがアルドは馬の首をそっと撫で、体重を移して体勢を立て直す。速度は落ちたが、無事にゴールにたどり着いた。
降りてきたアルドに、ゼスが苦笑しながら肩を叩く。
「派手にやるのは構わんが……馬も命張ってんだからな。忘れるなよ」
アルドは少しだけ息を吐き、短く答える。
「……できると思ったんだ」
「お前の“できる”は信用できねぇんだよ」
次はデュラン。
星のような白斑が額に浮かぶミロが、獣のように唸りながら加速する。
鼻を鳴らし、地面を叩くように前脚を踏み鳴らす癖が出ている――だがデュランは気にしない。
標的など気にも留めず、ただ前へ。剣を振るが狙いは荒く、命中は一つのみ。それでも、倒木も沢も豪快に跳び越えた。
「行けぇっ、ミロォォッ!!」
夕陽に金色のたてがみが閃いた。
最速でゴールを駆け抜けたデュランに、ゼスは頭を抱えながら笑った。
「……お前、馬に力比べ挑んでんのか?」
最後はルーク。
彼は無言で馬にまたがり、静かに深呼吸する。
雪のような白毛をたなびかせながら、シラユキが柔らかく走り出す。
一歩ごとに尾が優美に揺れ、静かな気品を漂わせていた。
木剣を構え、標的一つ一つを確実に仕留めていく。
倒木では体を密着させて低くくぐり、沢では美しい跳躍で無駄なく越える。
速度は十分に速く、それでいて馬の呼吸を乱さない。
「静かだな……でも、すげぇ」
セイルがぽつりと呟いた。
ゴールに戻ると、ゼスがしばらく黙ったのち、感嘆したように言った。
「……一番安心して見てられたな。速度、命中、制御。全部高水準だ。見事だよ」
ルークは静かに、短く礼をした。
四人が戻ると、ゼスがフォルクの背からゆっくり降りた。彼の相棒──一回り大きなその馬は、訓練を終えた四頭を見つめるように、静かに鼻を鳴らしていた。
「馬は道具じゃない。人と馬がひとつになったとき、はじめて“命を任せられる”存在になる。今日の走りで、少しはわかったか?」
四人は、無言で頷いた。馬の温もり、息遣い、汗の匂い──そして自分の鼓動。
ただ走るだけではない。「共に進む」ことの重みが、確かにそこにあった。
⸻
訓練が終わり、夕暮れが林を金色に染める頃。
水場に集まった馬たちが、草を食みながら静かに蹄をならしていた。
雪のように白いシラユキが、ルークに鼻を押しつける。
琥珀の瞳のレオンが、アルドの胸元に顔を寄せ、静かに呼吸を合わせる。
一回り大きなフォルクが、ゼスの手をぺろりと舐め、まるで何かを見通すような深い静けさをその瞳に宿していた。
それは、ゼスが初めて心を開いた時から変わらぬ、確かな絆だった。
ゼスは切り株に腰を下ろし、ふと遠くを見るように呟いた。
「――今日みたいに走れたときな。馬と人の息が、ほんの一瞬だけ……ひとつになる」
四人がゼスの言葉に耳を傾ける。
「馬が走ってるのに心が置いてけぼりになると、人は振り落とされる。
逆に、人の心に馬がついてこられなきゃ、命を落とすのは馬の方だ。
だけど、両方が互いを信じて、ちゃんと見て、感じていれば――その瞬間、どっちでもない何かになれる」
沈黙が降りる。
やがて、アルドが微笑みながら言った。
「なら、次はもう少しだけ……越えてみたいな」
デュランが腕を組んでうなずく。
「言ってる意味、少しだけ分かってきた気がする」
セイルがカスカの鼻面を撫でながら、ぽつりと呟く。
「……もう少し乗ってたいな、今日は」
ルークが夕陽を見上げながら言った。
「じゃあ明日、またここでやろう。ゼス先生も付き合ってくれますよね」
ゼスは頭をかきながら、苦笑した。
「……ったく、休む暇もねえな」
あの日の疾走は、後に彼らが迎える数多の戦場の中で、確かに最初の一歩だった
夜の気配をはらんだ風が林間を抜け、彼らの肩をそっと撫でていく。
その先に続く日々を、まだ知らぬままに。