第9話「風の背に乗って」
朝露がまだ草の先で光っていた。
島の空はどこまでも澄み渡り、空気には夜の冷たさがわずかに残っている。
アルドとセイルは、心なしか足取りを早めて村の外れの坂道を登っていた。
向かう先は〈ケイアスの牧場〉――ゼスの祖父母が営む場所だ。
噂に聞く“バトルホース”たちが放牧されている、風の宿る丘だ。
昨夜の夕餉の席でセイルが言った、「明日、ゼスさんのとこに行こう」
――その一言が、胸の奥に火を灯した。
表面上は平静を装っていたが、内心では心が踊っていた。
(本当に……あの馬に乗れるのか?)
“あの馬”。
島を護る戦士たちが騎乗する、特別な騎獣。
ただの動物ではない。心を通わせ、共に戦う“戦友”。
アルドにとっては、絵本や古文書の中でしか見たことのない、遠い憧れだった。
アルドにとって、弓も短剣も「生きるため」の術だった。
だが騎乗は、初めて触れる未知だった。
未知への不安と、それ以上に大きな期待が胸の内を満たしていた。
セイルの言葉――「一緒に行こうよ」
それが、心のどこかで響き続けている。
自分を子ども扱いせず、並んで歩こうとする誰か。
その存在が、少しだけ背筋を伸ばさせた。
(……わからないなら、学べばいい。失敗しても、次はうまくやればいい)
そんな思いを胸に坂を登りきると、木柵の向こうに広がる放牧地が見えてきた。
すでにルークとデュランが到着していた。
柵にもたれて草地を眺めるその隣には、ゼスの姿もある。
放牧地では、数頭のバトルホースが朝の光を浴びながら、風のように――いや、まるで風そのもののように駆けていた。
その光景を見た瞬間、胸の奥がかすかに震えた。
ただ走っているだけの馬――それだけのはずなのに、目が離せなかった。
言葉にならない高揚が、全身を包んでいく。
(これが……バトルホース)
足音さえ、心の鼓動にかき消されていく。
自分がどんな顔をしているのか、分からなかった。
最初に気づいたゼスが、軽く手を挙げて微笑む。
「アルド、セイル。来たな」
静かで低いが、よく通る声だった。
短く刈った黒髪と、伏し目がちな目元。
年上というだけでなく、どこか大人びた落ち着きを感じさせる。
彼の過去を、アルドは詳しくは知らない。
ただ、大人たちが時折口にする――「伝説級の魔物に村を襲われ、両親を失った」という話を、断片的に聞いていただけだ。
ゼスは多くを語らない。けれど、馬の話となれば口数が増える。
それが、彼なりの心の扉の開け方なのかもしれないと、ふと思う。
「ちょっと寝坊してたんじゃないか?」
冗談めかして声をかけてきたのは、デュランだった。
ゼスとは対照的に明るく快活で、感情表現も大きい。
栗色の髪は寝癖のまま跳ねていて、まだ幼さの残る顔立ち。
「ま、アルドなら家出る前に弓でも磨いてたんだろ。きっちりすぎるもんな、性格がさ」
「弓じゃなくて靴の紐だよ。三回も結び直してた」
セイルがさらりと返すと、デュランは吹き出した。
「真面目すぎる!……まあ、俺も緊張してるけどな」
アルドとデュランの関係はまだ浅い。
けれど、互いに距離を詰めようとする気配があった。
「そんなに騒ぐと、馬が驚くだろ」
笑いながら言ったのはルーク。
短く整えた金髪が朝日に照らされ、柔らかく光る。
落ち着いた振る舞いと人懐っこい雰囲気が、どこか安心感を与える少年だ。
アルドより一つ年上で、訓練場ではセイルと組むことが多い。
家も近く、自然と仲良くなったのだろう。
ルークの優しさは、押しつけがましくない。
だからこそ、周囲からの信頼も厚い。
アルドにとっては、自分にないものを自然に持っている存在だった。
(追いつきたい)――そう思うようになったのは、いつからだったか。
「ゼスが言ってただろ? 最初は馬に慣れるだけでいいって」
ルークが顎で奥を指すと、ゼスが五頭のバトルホースの前に立っていた。
筋肉質で、目つき鋭く、それでいて知性を感じさせる馬たち。
彼の手に応えるように、ゆっくりと首を下げる。
「こいつらが、俺の家で育ててるバトルホースだ。名前、紹介しとくよ」
ゼスが軽く馬の首を叩くと、馬が鼻を鳴らして応じた。
「黒毛のレオン。
まだら模様のカスカ。
額に星のあるミロ。
白馬のシラユキ。
そして――
俺が最初に心を開いた馬が、《フォルク》だ」
フォルクは他の馬より一回り大きく、深い静けさと忠誠心を湛えた眼差しをしていた。
その名を口にする時、ゼスの声がほんの少し和らいだ気がした。
「まずは、こいつらに慣れてもらう」
その言葉に、皆が静かにうなずく。
やがて、ゼスが手を叩いて告げた。
「じゃあ、まずは触れてみよう。馬を撫でて、呼吸を合わせる。乗るのはその後だ」
それぞれが馬と向き合い、自分なりの歩み寄り方で近づいていく。
アルドは迷いなく、一頭の馬に近づいた。黒毛の「レオン」だ。
額を撫でながら、旧知の仲に語りかけるように言う。
「へぇ……ずいぶん頭が良さそうだな。これ、どうやって乗るんだ? ゼス。馬具の付け方とか、指示の出し方とか、教えてくれ」
その素直な疑問に、ゼスはわずかに目を見開き、口元を緩めた。
「……お前が一番早いかもな、馴染むの」
アルドは説明を真剣に聞きながら、慎重に鐙を踏んで騎乗姿勢を試す――が、
「おっと……!」
ぐらりと馬が揺れ、バランスを崩して落馬。
だが空中で身体をひねり、受け身を取って転がった。
「……やっぱ、思った通りには動かんか」
「悪くない。ただ、馬は言葉より感覚を読んでる。意識を下腹に置け。背中で繋がるんだ」
汗をぬぐいながら、アルドは深くうなずいた。
隣では、セイルが「カスカ」の前でぎこちなく立ち止まっていた。
「こんにちは……よろしく頼むよ」
小さく声をかけ、鐙に足をかけて鞍にまたがる。
だがその緊張が伝わったのか、馬はぴたりと動かず、不満そうに鼻を鳴らした。
「う、動かない……?」
手綱を引いた、その瞬間だった。
馬が耳をぴくりと動かし、次の瞬間――くるりと反転して駆け出した。
「わ、うわあっ……!?」
「焦らなくていい。馬は、騎手の緊張を全部感じるから。深呼吸して、視線を遠くにやれ」
ゼスがすかさず馬を止め、静かに声をかける。
セイルは小さくうなずき、呼吸を整えてから再び鞍にまたがった。
今度は、肩の力を抜き、馬と呼吸を合わせる。
ゆっくりと動き出した馬の背から、セイルは遠くの空を見上げた。
「……こんなに、広かったんだな」
その声に、そっと風が応えたような気がした。
「よーし! じゃあ、俺も行くぜ!」
威勢よく「ミロ」に飛び乗ったデュランは、即座にバランスを崩してあえなく地面へ。
「あべっ……わっ、ぐはっ! あっはははっ!」
「いやー、やっぱな? 勢いは大事だけど慎重も大事だな! 」
砂を払いながら笑うデュランに、皆もつられて笑い出す。
場の空気が、少しずつほぐれていく。
「俺を見て安心しろ、誰でも最初は転ぶ!」
その明るさが、何より場の空気を柔らかくしていた。
そんな中、ルークは静かに「シラユキ」に近づいていた。
手綱を取り、足元を確かめ、馬の顔を一度撫でてから鞍にまたがる。
落ち着いた動作に、馬も安心して歩き出した。
「……すごいな」
「ちゃんと手順を踏んでる。馬も、それが分かるんだ」
アルドが呟き、セイルが頷く。
ゼスはその様子を見て、全員に向き直った。
「肩の力を抜け。馬は仲間だ。戦場でお前を守る、足であり、盾であり……心を映す鏡だ」
その言葉に、全員の胸が静かに打たれる。
騒がしかった空気が落ち着き、五人の視線が、風の中を走る馬たちへと向けられていく。
そして――
この出会いが、やがて訪れる戦いの日々と、誰かの喪失と、それでも繋いでゆく絆の、
確かな始まりになることを――
この時の彼らは、まだ知らなかった。